入間川地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・狭山台中央自治会

20150710

6月15日(月)に行われた、狭山台中央自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
歴史クラブから4名がガイドとして参加し、私も1ケ所をガイドしました。

狭山台中央自治会では、これまでも同様の企画を実施してきていて、今回から歴史クラブにガイドの依頼をすることになりました。
参加者は22名でした。

今回のコースは「入間川地区」です。
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適宜、明治14年迅速測量図も用いて説明しました。
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【綿貫家の墓地】
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綿貫家は、江戸時代「西の鴻池、東の綿貫」と言われたほどの豪商で、ほとんど江戸で商いをしたのだが、慶應三年(1867)古文書によると老中酒井雅楽頭への貸し付けが現在の価格に変換して857億であり、最盛期には諸大名、旗本、商家、などへの貸し出し額と現金在高の合計が6兆93億円(現在の価額に換算)に達したという。
しかし、徳川幕府の瓦解と運命を共にした。

◉綿貫家の井戸
 むかしのお話です。入間川の綿貫家といえば、東北の本間家、大阪の鴻池家とともに、唄にうたわれたほどのお大尽だったそうです。
 あるとき、井戸の水をわけてもらいにきた人がおったそうです。すると番頭さんがでてきて
『あー、それはおやすいご用です。わたしの方には四つの井戸がありますが、どの井戸をつかいますか』
 その井戸といいますのは、一つめは隠居場のあったところで、現在の図書館の下あたり、二つめは狭山市駅前の八百屋あたり、三つめは綿貫家の墓地(現在は移転しました)のあたり、四つめは徳林寺のあたりだったといわれております。
 いまさらながら、そのスケールの大きさにはおどろかされたということです。また、ぶっこし【一揆】があったとき、綿貫家では、四つの井戸の中に金銀を隠しておき、家財道具は天岑寺に預けて無事だったことから、お礼にと『葷酒山門に入るを許さず』という石碑を奉納しました。今も参道の入り口にたっています。(広報さやま平成12年9月10日号より)
◉綿貫家のどんどん出てくる傘
 むかしのお話です。中央図書館のあたりに、綿貫家という、それは大そうな大金持ちがいたそうです。俗に、西の鴻池、東の綿貫といわれるほどのお大尽だったそうです。綿貫家は、江戸にたくさんの店を持っていました。入間川から江戸の店に行く道中の土地は、すべて自分のものであったということです。
 ある暑い夏の夕方のことです。綿貫家の近くのお宮で祭礼がありました。近郷近在から大勢の人たちが集まってきて、大そうなにぎわいでした。と、一天にわかにかきくもり、はげしい夕立になりました。大勢の人たちは、われ先にと綿貫家へ傘を借りに、かけ込みました。「お困りでしょう、さあ、どうぞお持ちください」。綿貫家では、どの人にも次々に傘を渡しました。
「これはありがたい、私もお借りしたいのですが」
あとからあとからやってくる、人、人。その数は数えきれないほどになりましたが、傘はどんどん出てきます。
「さあさ、どうぞどうぞ。どなたも傘を…」
あまり傘が限りなく出てきますので、一人の旅人がたずねました。
「さすがお大尽だけあって、傘のたくさんあること。いったい何本ぐらいあるんだべえ」
すると綿貫家の番頭は、にこにこしながら申しました。「はい、数えたことはございませんが、傘ならまだ、むこうの蔵三つにいっぱいありますからどうぞご心配なく」
 人々は、いまさらながら綿貫家のお大尽ぶりに、きもをつぶしたということであります。
(さやまの絵本「綿貫家のどんどん出てくる傘」より)
◉音色のいい鐘
 江戸時代のころ入間川にあった綿貫家は、たいへんなお大尽だったそうです。
   ~江戸は綿貫家、北が本間家で大坂は鴻池~
 と唄にうたわれたほどの大金持ちだったそうです。
 なにしろ江戸の神田に出店をたくさん持っていまして、旗本衆にお金を貸すときは二、三百両はすぐにふところから出したといいます。また、綿貫家の台所にありますお皿やお茶わんを並べますと、家の門から所沢の神明社あたりまでつづいたといいます。
 昔のおはなしです。成円寺(中央公民館あたりにあったお寺)にある鐘楼堂の鐘はたいへん 
 そのうえ遠くにまでよくひびきわたることでも有名で、一度鐘の音を聞いた人は『いったいどんな鐘だべえ?』とわざわざ見物に来たそうです。そして鐘の音のいい理由を聞いて みんな納得して帰ったそうです。
 この鐘は綿貫家が寄進したもので、鐘を鋳造するとき、おしげもなく大判、小判をどっさり焼きこんだからだそうです。(広報さやま平成8年1月10日号より)

【福徳院】
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福徳院不動尊の来歴は、「福徳院不動尊縁起」によりますと次のとおりです。
 福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。
二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。
 その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。
 昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。
本尊  不動明王:高さ43cm

現在の不動堂は平成18年に建て替えられ、これに合わせて本尊も新しい木造不動明王坐像となりました。かっての本尊は新しい本尊の真上の天井裏に安置されているそうです。

以前、現在の不動堂の中を見せていただいたときに撮ってあった、現在の本尊です。
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参道の途中にある、三面八臂の馬頭観音。
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馬頭観音は、観世音菩薩の化身で,六観音の一つ。忿怒相をもち,人身で,頭が馬のものと,馬の頭飾りを戴くものとがあり,馬頭は諸悪魔を下す力を象徴し,煩悩を断つ功徳があるとされる。
しかし,江戸時代後期以降、一般には馬の無病息災の守り神として信仰され,3面8臂,4面8臂などのものもある。

【徳林寺】
福徳院の下にあり、裏の墓地の方から入ったため、墓地にある板碑と五知如来の説明が先となりました。

○板碑
 板碑とは石で造った卒塔婆の一種で、個人の追善供養のために建てられたものと、自分の死後の冥福を祈って生前に営む法事で建てられたものがあります。当寺境内にある板碑は武蔵系板碑、または青石塔婆といわれ、秩父地方から産出される力で緑泥片岩で造られたものです。板碑は鎌倉時代に発生しましたが、江戸時代になると消滅し、その後は作られなくなりました。この墓地には34基の板碑があり、これらは瑠璃光寺跡から出土したものをここに移転しており、瑠璃光寺跡は以前綿貫家の墓地があった場所でもあります。
板碑の真ん中に立っている丸彫りの石仏は、五知如来の一つである大日如来です。
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○五知如来
  ここに5基の丸彫りの石仏がありますが、真ん中の地蔵菩薩を除き、左から釈迦如来、阿閦如来(アシュクニョライ)薬師如来、阿弥陀如来と、本来ならここにあるべき大日如来は墓地中央付近の東屋の左隣にある板碑の真ん中にあります。像高は120~150㎝、蓮華座が20~30㎝で、等身大に近い大きなものです。
銘文からそれぞれが同じ宝永6年(1709)(306年前)11月に、徳林寺第5世法山格雲により五知如来として建てられたものでしょう。
阿弥陀如来、釈迦如来、と薬師如来には施主として綿貫清兵衛、重右衛門、小澤久左衛門、小澤勘左衛門の名前とそれぞれの先祖と思われる戒名も彫られており、また阿閦如来にも戒名が彫られています。
大日如来の台座には三界万霊供養等と彫られているところから、三界万霊供養とともに綿貫家、小澤家の先祖供養も兼ねて建てられたものでしょう。
如来とは悟りの境地に達した仏様のことで、釈迦如来の他にさまざまな如来が存在すると考えられるようになりました。その姿は、頭はイボイボの螺髪(らほつ)、その中央に盛り上がった肉髻(にっけい)、眉間にはほくろのような白毫(びゃくこう)があり、着衣は衲衣(のうえ)をまとうだけなので、いろいろな装身具を身につけている菩薩とは容易に区別が出来ます。ただし、大日如来だけは、宝冠を戴き装身具を身に着けた姿をしていますが、印相(手の組み方)によって区別できます。
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○子育地蔵尊
山門を入った左側に「子育地蔵尊」の額を掲げた六角堂の中に、台座、蓮華座などを含めた全高176.5㎝、像高124㎝の石仏の丸彫り地蔵菩薩が安置されています。お堂の周りに「祈安産」と書かれた襷(たすき)や涎掛けが供えてあるところから、今でも安産と子育ての地蔵様として信仰を集めています。
この地蔵菩薩は別名を成円地蔵といい、明治初期に廃寺となった成円寺にあったものを徳林寺に移したもので耳の地蔵といわれる「穴あき石の」の伝説を持っています。
河原から穴の空いた石を捜して来て、これを供え願掛けをすれば耳が聞こえるようになるというもので、数は少なくなっていますが、今でもお堂の前に穴の空いた石が供えられています。
銘文からこの地蔵菩薩は、入間川村の斎日講71人の人達が現当二世安楽を願って元禄6年(1693)2月(322年前)に建てたもので、背中には六地蔵の種子が彫られており、一体六地蔵と思われます。また六角堂の前の高さ179.5センチの燈籠には、片側3体ずつ一対で6体の浮彫の地蔵菩薩が彫られており、これも六地蔵と思われます。
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○本堂
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当寺は福聚山(ふくじゅさん)徳林寺といい、宗派は曹洞宗で、本寺は入間市金子にある瑞泉院です。
創建時の宗派は不明ですが、天文元年(1532年)(483年前)に曹洞宗に改宗しています。
本尊は像高32.5㎝、台座高55㎝の木造宝冠釈迦如来坐像で、文殊菩薩と普賢菩薩を従えた三尊形式のものです。創建の時期は不明ですが、13世紀初頭に徳林寺の前身と思われる薬師堂が草創されたそうです。言い伝えにによると、新田義貞が元弘3年(1333)(682年前)5月の鎌倉攻めの際、徳林寺の場所に本陣を置き、守護仏としていた聖観音を薬師堂へ安置したといわれ、後にこの観音堂を入間川村地頭の小沢主税に贈ったことにより本尊にされたと思われます。
また鎌倉公方・足利基氏が、南朝方の新田勢の再起に備えて文和2年(1353年)から9年間(1362年)(662年前~671年前)この場所に「入間川御所」を置いて滞陣したところといわれ、その後この入間川御所跡に薬師堂が移転し改名して徳林寺となりましたが、当時の宗派はりんざいしゅうであったといわています。
動乱や大火で荒廃していた当寺を中興開山したのは、瑞泉院住職であった一樹村松(いちじゅそんしょう)といわれています。一樹村松は天文2年(1533)(482年前)に入寂していることから、永正年間から享禄年間(1504~32)(479~517前)のころに中興開山したと考えられます。
かっての本尊の木造聖観音菩薩坐像は、現在福徳院境内に最近建てられた観音堂に安置されています。


ここで、駅横の市民交流センターに戻り、休憩を取った。


【八幡神社】
「八幡さま」は、全国の神社のなかで一番多い神社です。「八幡太郎義家」でわかるように、源氏の氏神となったので、京都には石清水八幡宮、鎌倉には鶴岡八幡宮と八幡さまが設けられ、全国にも「八幡さま」が各地に設けられました。
現在は、「鎮守の森」として、その地に暮らす人々の安全を守る神様となっています。
初詣もそうですが、半年の穢れを落してこれからの安全を祈る、6月30日の「夏越の祓」、狭山市で茅の輪をくぐれるのはこの八幡さまだけだと思います。
それから「年越しの祓」で、土地の人は小さい御幣をいただいて、玄関とか畑に立てて、災いが入らないよう、安全を祈っています。

年中行事としては、まず7月の「入間川の天王さま」があります。
これは、境内社の八雲神社の祭りですが、夏に牛頭天王が疫病を流行らせないように祈る行事で、ここに住んでいる人の健康を祈ってしているわけです。
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それから、9月例大祭の「鹿子舞(ししまい)」があります。
市内に残る獅子舞の中で八幡神社の獅子舞だけが「鹿子舞」と表されますが、その理由には次のような話があります。
 明治時代初めに八幡神社別当寺の成円寺を獅子舞の一行が出発した際、維新政府の神仏分離政策により「獅子は仏教に属するもの」として答めを受け、獅子舞存続の危機に陥ったといわれます。この時、地元の機転が利く者が「私のところは獅子ではなく鹿子だ。鹿は神の使いである」といって危難を逃れました。それ以後「鹿子舞」と表すようになったというものです。
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○「新田義貞駒つなぎの松」
本殿向って左側の柵外にある松の木は史跡の「新田義貞駒つなぎの松」です。
新田義貞は元弘3年(1333)に鎌倉幕府を攻めた際、徳林寺に陣を置いて源氏ゆかりの八幡宮に自ら赴き戦勝を祈願しました。その際愛馬をつないだ松といわれていますが、本物の松はすでに枯れて現在は枯れた根だけが残っています。
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○各所の彫刻が見事です
●本殿の正面を除く3面の壁面に総彫りともいえる彫刻が施されています。壁面の彫刻は中国の貴人に親しまれた琴、囲碁、将棋、書画を、浮き彫りと透かし彫りという2つの技法を巧みに使い分けて彫ってあります。
制作者は棟札の墨書から、上野国勢多郡上田沢村(現群馬県桐生市)の並木源二と、勢多郡深沢村(現群馬県みどり市)の鏑木半二です。
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本殿の下の部分にも、龍の間に面白い彫刻があり。
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これは獅子舞
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●拝殿の向背柱・木鼻の獅子の彫刻
 牡丹の一枝を咥えているのと、透かしの籠に玉が入っているのを持っている。
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●手水舎
 浦島太郎などの彫刻がある。
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【清水八幡】
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清水八幡宮は狭山市指定文化財で、清水冠者義高(源義高)を祭神とする神社です。源義高は木曽義仲の嫡男(ちゃくなん)として木曽で母・山吹姫との間に1173年に生まれました。
父親の木曽義仲(きそよしなか)は(幼名:駒王丸(こまおうまる))祖父源義賢(みなもとのよしかた)と母小枝(さえだ)の次男として嵐山の大蔵館で生まれ(1154年)、鎌形八幡神社の境内に湧き出る清水を産湯(うぶゆ)に使ったと伝えられています。
駒王丸は1164年京都石清水八幡で13歳で成人し、木曽次郎義仲(きそじろうよしなか)と名乗りました、1170年東信濃の豪族海野兼保(うんのかねやす)の娘山吹と結婚します。
源義仲は1180年に以仁王(もちひとおう)の令旨(れいし)を受け挙兵、北陸信濃で勢力を拡大、上京を目指して固く準備をする日々を過ごします。1183年源頼朝と敵対し敗れた志田義弘(しだよしひろ)と、頼朝から追い払われた新宮十郎行家(しんぐうじゅうろういくいえ)2人の叔父を匿(かくま)ったとして、頼朝と険悪なムードとなり、息子の義高は人質として大姫の婿として鎌倉へ差し出すことで頼朝との対立は一応の決着がつきます。
しかし、結局朝廷での情勢が悪化し、義仲は源頼朝が送った弟の源範頼(のりより)・義経の軍勢により、宇治川や瀬田の戦いに惨敗し、近江の国粟津の戦い(あわずのたたかい)で1184年討たれました。息子の義高は父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化します。頼朝が義高を謀殺(ぼうさつ)しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃そうとします。義高と同年の側近でいつも双六(すごろく)の相手をしていた海野幸氏(うんのゆきうじ)が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の待女達(じじょたち)に囲まれ屋敷を抜け出し、大姫の配した馬に乗り鎌倉を脱出します。しかし夜になって事が露見(ろけん)し、激闘した頼朝は幸氏(ゆきうじ)を捕え、堀親家(ほりちかいえ)ら軍兵を派遣して義高を討ち取るように命じました。義高は自分にふりかかる難を逃れるため、父義仲の生まれ故郷の武蔵国・男衾群(おぶすまぐん)の大蔵館へ、そして生まれ故郷の信州木曽へ落ち延びる途中、入間河原の八丁の渡しで追いつかれ、追手(おって)の藤内光澄(とうないみつずみ)によって1184年に討たれました。しかし、対岸の広瀬まで逃げ延びて地蔵尊の陰に隠れ、一時難を逃れたという言い伝えもあります。 こうして、義仲の家系は断絶しました、享年12歳。
義高の死を知った大姫(おおひめ)は嘆き悲しみ病床に伏してしまいます。母の北条政子(ほうじょうまさこ)は義高を討ったために大姫が病(やまい)になったと怒り、義高を討った郎従(ろうじゅう)の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、光澄は晒し首(さらしくび)にされました。
清水八幡の創建年月は不明ですが、頼朝の妻の北条政子が関与したとの伝承(でんしょう)が残っています。それは政子が壮麗(そうれい)な社殿を造営して神田(しんでん)まで寄進したというもので、応永9年(1402年)8月の大洪水ですべてが流されてしまうまで、隆盛を誇ったといわれています。現在の本殿は昭和34年10月の建立で、そこには永享(えいきょう)2年(1430年)銘の赤間川(あかまがわ)で見つかった石祠(せきし)が安置されています。この石祠の出土地(しゅつどち)をかつての清水八幡宮の鎮座地(ちんざち)として遷座(せんざ)しました。
義仲の妻の山吹姫は嵐山(らんざん)に班渓寺(はんけいじ)を建立して夫・義仲と息子の義高の菩提(ぼだい)を弔(とむら)いました、この寺には山吹姫の墓と伝えられている五輪塔(ごりんとう)と位牌(いはい)が安置されています。

社殿
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【諏訪神社】
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・ 御祭神:タケミナカタノ命(大国主命の二男 武力に優れた神様で武士の信仰が多い)
・ 初めて建てられた時代:古い記録がなく不明であるが、鎌倉時代、或いは戦国時代後期 甲斐武田氏の家臣等が諏訪大社の御魂を勧請したとも伝わる。
・ 社殿:木造切り妻造り 出入り口は妻入り 現社殿は昭和36年に改修。
屋根の鬼瓦と野地板に「四つ割菱」武田菱ともいう が見える。
・ お諏訪さまナスとっかえ:「狭山市無形民俗文化財」平成9年6月2日指定。
8月の第4土・日、地域の夏祭りと併せて行われる。
ナスを神社に奉納して代わりに神前に供えられているナスを持ち帰って食べると一年中病気をしないといわれる風習。起源はわからない。ナスの毒消し効果が信じられた。
・ 神事:神主の祝詞奏上、玉串奉納。氏子の役員等の玉串奉納と拝礼。30分ほどで終り、かっては本殿でナスとっかえが行われたが、数年前からナスとっかえの代わりに「厄除茄子」が販売されている。
茄子3本入厄除札付で200円。現在でもまれにナスとっかいをされる信者もいる。
・ 茄子御輿と子供神輿:祭りの初日だけ、午後3時頃から上諏訪地区の子供会による茄子神輿と子供神輿が地区内を練り歩き無病息災を祈願する。
・ 「ナスとっかい」にまつわる伝説:昔この神社の裏に底なしの沼があって、ある夏の暑い日、村人が沼の前を通りがかると、急に水飛沫が立って大蛇が現れて暴れ狂った。驚いた村人は持っていた鎌と採ったばかりのナスの入った籠を投げ出して家に逃げ帰った。これを聞いた村の若い者が大蛇を退治しようと沼へ駆けつけると、空になった籠が浮かんでいるだけだった。しばらく経ったある日、村人の夢枕に龍神が現れ、「私は沼に住む龍神だが、村人が投げ込んだナスを食べたところ夏病が治った。これからは諏訪の大神に仕えるつもりだ」と言った。それ以来、夏病(暑さが原因の食欲不振、全身の倦怠感、下痢・疫病など)退散のために神社にナスを供えるようになった。
龍神が住んでいた沼は残っていない。神社の南側の道を行くと、左手の斜面の下に湧水があり、「水祖神」と刻まれた石の祠が祀られている。


【慈眼寺】
本堂の前は、カンカン照りなので、境内の隅の木蔭で説明。
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本堂
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宗派:曹洞宗 高祖:道元、太祖:螢山 本山:永平寺(福井県)、 総持寺(横浜市)
山号:妙智山  ご本尊:木造聖観音菩薩坐像 像高46㎝、台座込み96㎝
創建:650~660年前(室町時代の中頃)より前、この地に阿弥陀如来をご本尊とする草葺きの阿弥陀堂があったと伝わる。
略歴:500年ほど前(大永年間)に、瑞泉院(入間市木蓮寺)の第三世一樹存松が阿弥陀堂をこの地から現在の入間川2丁目の「子ノ神付近」に移して曹洞宗のお寺を建たと伝えられる。江戸時代の慶安 2年 徳川三代将軍家光から10石の寺領を保証する朱印状を賜る。幕末の慶応元年火災に遭い、しばらく仮本堂でお勤めする。明治17年この地に戻り本堂等を建立。
所蔵文化財・石仏
☆木造阿弥陀如来立像:木造阿弥陀如来立像(阿弥陀如来の立ち姿)
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☆丸彫地蔵菩薩立像
☆結界石を兼ねた三界万霊等
☆廻国供養塔
☆六地蔵

所蔵の円空仏を見せていただいた。
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これで予定を終了し、自治会の皆さんは懇親会ということなので、ガイドの私たちは別途昼食を食べながら懇談後、帰途につきました。
後日、とても好評だったので今後もお願いしたいとのお話をいただき、ホッとしています。


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コメント

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四季歩さん、こんにちは

好評で、再依頼のこと、良かったですね!

綿貫家の話、面白いですね! 江戸時代の井戸は、地面を真っ直ぐ、掘るのが大変だったようで、1つ掘るのも大変だったのでしょうね。

それにしても、結局、大名家への貸し倒れで倒産ですか。ううん、大部分の大名家はその後は華族になったのでしょうが、商家は無視されてしまったのですね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
こういう、かなりの階層がリセットされる
時代の大きな変化は、必要だと思いますよね。
戦争ではなくて、なにかそういうことが
あればいいですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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