竹野媛(たかのひめ)/日本の神々の話

20150805

『記紀』伝承によると、丹波大縣主の娘で九代開化の妃になった女性がいる。竹野媛(たかのひめ)とよばれる女性である。比古由牟須美命(ひこゆむすみ のみこと)を生んだ
『古事記』は、旦波(たんば)の大縣主(おおあがたぬし)、名由碁理(ゆごり)の女、竹野比賣(たかのひめ)とする。
『日本書記』は丹波の竹野媛(たかのひめ)とだけする。

また、垂仁天皇の皇后狭穂(さほ)姫が兄狭穂彦の謀反(むほん)に連座して自殺する前に,後宮にいれることを進言した丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)の5人の娘の一人も、この名である。

こういう説がある。
竹野媛は『魏志倭人伝』に出てくる「台与(とよ)」だという。
『勘注系図』という丹波の系譜によると、建諸隅命(たけもろずみ)を『一云、丹波縣主由碁理命(たんばあがたぬしゆごりのみこと)』としている。
『勘注系図』は建諸隅命を由碁理としている。
また『勘注系図』の注記は、建諸隅命が開化に仕え、丹波の与謝郡(よさのこおり)を割いて、竹野姫(たかのひめ)の屯倉(みやけ)を置いたとする。
屯倉とは天皇や皇族の直轄領であるから、この竹野姫は開化の妃になった「たかのひめ」と考えて間違いはない。
この注記からも建諸隅命は由碁理と考えてよい。
建諸隅命の別名を竹野別(たかのわけ)とする。したがって竹野姫という名は、その父親の名に由来する。本来の名は天豊姫である。
『勘注系図』では、一説に卑弥呼とする宇那比姫の二世代後に、卑弥呼と同じ、大倭姫という大和王権の女王の名を持つ女性が登場する。この人の亦の名を天豊姫命という。
天豊姫の天は、この一族に付けられる姓のようなものであるから、名前は豊(とよ)である。これは『魏志倭人伝』の台与(とよ)に通じる。
というのが、この説の根拠である。

それでは、『魏志倭人伝』の台与(とよ)とはどういう人物なのか。
『魏志倭人伝』には、こう書かれている。
女王卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。邪馬壹國[10]の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。正始8年(248年)に邪馬壹國と狗奴国間の紛争の報告を受け、同年倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政は、檄文をもって壹與を諭した。ただし張政の派遣は、正始4年の朝貢の返しとして6年に出された詔によるものである。

「台与」は「臺與」の代用。臺與の表記・読みについては異説が多く、普通は「台与」を用いる。



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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは


ううん、何か、無理していますね。今だって、同名の人は沢山いるのですから、当時だって、同じ名前があっても不思議とは思いませんし、そもそも、この説を唱えている人って、邪馬台国は丹波にあると言う説のようですし。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
まあ、確定していない話の場合、できるだけ
色々な説に耳を傾けようとしているものですから(笑)
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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