倶利伽羅峠

20150806

場所:富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町

前の記事「埴生(はにゅう)護国八幡宮」で書いたように、私とカミさんの先祖両方が倶利伽羅峠の合戦に参加していた可能性があるとわかったので、ちょうど良い機会と娘二人も引き連れて倶利伽羅峠に行ったわけです。
娘二人は、全然関心は無さそうだったが(笑)

8月2日の午前、埴生(はにゅう)護国八幡宮から車で峠を上っていきました。
ただし、この日も猛暑日。毎年この時期に帰省していますが、今までで一番暑い夏です。午後には金沢で色々と行きたいところもあるため、立ち寄るのは芭蕉の句碑があり、平家軍の本陣であった「猿ケ馬場」だけとしました。

倶利伽羅峠の戦いについては、WIKIPEDIAの記事を転載しておきます。
倶利伽羅峠の戦い、または砺波山の戦いは、平安時代末期の寿永2年5月11日(1183年6月2日)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。

治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。

だが5月9日明け方、加賀国より軍を進め般若野(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて戦況不利に陥り、平盛俊軍は退却してしまった(般若野の戦い)。

一旦後退した平家軍は、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い、今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませた。

平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。

この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。

案内図
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埴生(はにゅう)護国八幡宮から上っていくと、碑が多数立っている所に出たので車を停めた。
右手が登って来た道で、左からも上がってくる道あり。
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「塔の橋」の碑
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塔の橋は、倶利伽羅峠の戦いの際、平行盛(清盛の次男で重盛の同母弟基盛の子)が陣を置き、源氏軍と対峙した場所です。
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この地は、古来より矢立まで三町程を馬の背のような険しいところでした。旅人も大変難儀しましたが、前田利長が高岡に行くようになり、北国街道が整備されました。
このことは、前田利長について勉強したときに書いてありましたね。
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そこからちょっと行くと、芭蕉の句碑あり。
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「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」であった。
この句は金沢に入る前に作られたそうだが、おくのほそ道には金沢から小松に行く途中の句として載せられている。
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碑の裏にも句が刻んであった。
「くりからのほととぎすなく夢の跡」
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家に帰ってから調べると、この句は、小矢部市の元市長である故松本正雄氏のもので、この芭蕉の句碑は松本正雄氏が建てたものだそうだ。
故松本正雄氏は、東大土木工学科卒業ということもあり、「文化的価値を持ち、地域の人々に親しまれ、愛される建物を作りたい」ということで、小矢部市の公共建築を新築する際に、西洋風の有名な建物を真似て建築して、これらをメルヘン建築と命名しています。
イギリスの国会議事堂、ウェストミンスター寺院、フランスのヴェルサイユ宮殿、ドイツのハイデルベルクの古城、アメリカのボストン公会堂、東京大学安田講堂などを模した建物で、当時私の娘たちも幼なかったこともあり、見物に行ったことがあります。

そこからの、日本海側、石動(いするぎ)方面の眺め。
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ねむの木が咲いていた。
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そこから少しで、いよいよ猿ケ馬場に到着。
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広いので、ちょっとずつ車を移動しながら見ていきました。

まずあったのが芭蕉の句碑。
ここには、二つ句碑があるのがわかっていましたが、これは新しいものの方。
「義仲の 寝覚の山か 月かなし」
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裏面には、詩のようなものが刻まれており、良いなと思い家に帰ってから調べたが、由来がわからない。
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道路を挟み反対側には、北陸路での芭蕉の句一覧が掲示されていた。
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源平倶利伽羅合戦、平家本陣跡
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ここで軍議をしたとあり、大岩のテーブルを置いてある。
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その場所の道路沿いに「芭蕉塚」があり。
「「義仲の 寝覚の山か 月かなし」が刻まれている。
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芭蕉は、義仲にどういう想いをよせていたのか・・・・・・・・
芭蕉は、晩年しばしば義仲寺にお参りし、元禄7年(1694年)10月12日午前4時ごろ逝去し、14日の深夜、芭蕉の遺言通り義仲の墓の隣に埋葬されました。

有名な「火牛の計」の像
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絵巻
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WIKIpediaから:
『源平盛衰記』には、この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、そして尾に松明をくくりつけるというもので、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである。この方法であれば、尻をあぶられてたまらない牛は前方に猛突進するというのは、実際に上手くいくかどうかはともかく、理屈としてはあっている。

すぐ近くに句碑あり。
「月冴えて 牛の谺は 八百年」津田三郎
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津田三郎氏は小矢部市の開業医であったようである

展望台で休む。
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カミさんの故郷、福光の方向を望む。
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トイレの表示が恰好よかった(笑)
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平為盛の塚の表示あり、行ってみる。
平 為盛(たいら の ためもり、生没年不詳)は平安時代末期の武将。平清盛の異母弟平頼盛の次男。
『源平盛衰記』には、寿永2年(1183年)5月12日、倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲の部将樋口兼光に首をはねられ討死したと記されている。が、それ以降も生き延びたという異論もあり。
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まずあったのは、大きな供養塔。
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その後ろに、平為盛の塚はあった。
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これで、倶利伽羅峠の探索は終え、お昼は家族お気に入りの、金沢二十一世紀美術館にあるレストランで取る予定なので、金沢市内に一目散、向かいました。



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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

銀河英雄伝説や太閤記等を読むと、武器や武具等がほぼ同じ場合、人数の多い方が勝つようですね。特に、相手の2倍以上あるのが良いようです。一方、味方が少ない場合は、相手の油断を誘うとか、夜襲とかが必要で、桶狭間の戦いなんて最たるものですが、この木曽義仲も同様のようですね。ただし、義仲は京都に行ってからの行動がまずかったので、現在は朝敵と言うか、人気がほとんどありませんが。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
信州、北陸では義仲のほうが人気があるようです。
鎌倉幕府とは、あまり関係が無く、
負けた方に同情する国民性でしょうね。
狭山市も、義仲の子、義高が追われてきて、
この地で討たれたせいで、わりと義仲びいきですね。
京都に初めて入ったので、失敗しましたね。
義経の失敗も受けて、頼朝はうまくやりました。
頼朝が最初に入っていれば、頼朝も失敗したと思います。
何しろ公家は武士を犬くらいにしか思っていませんでしたからね。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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