狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/篠井村(笹井)-前半

20151017

10月13日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は岸野さん、野口さんと池田さん。

朝9:00にファミレス「とんでん」駐車場に集合。ここからスタートしました。

篠井村全体の記事
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【土屋昌吉屋敷跡】
『新編武蔵風土記稿』では、昌吉を「昌言」と誤って書いている。
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原本からの最初の翻刻である明治十七年の内務省版では、四箇所共に「昌言」、-方「寛政譜」は「昌言」はなく、該当する名は「昌吉」のみ。法名も稿は「全桂」、譜は「全柱」とあり、実際の墓石に刻まれた法名からは「全柱」が正しい。
推定するに、原本であるくずし字本から翻刻する際、稿で誤訳がおこりそのまま、現在の千秋社版および雄山閣版に引き継がれたと思われる。風土記稿の内務省版は随分と手早く翻刻したらしく至るところに誤訳があることで有名であり、その校訂のためもあり雄山閣版が出来たわけであるが、それでも誤りが相当内在するということであろう。

場所は、笹井保育所の東側の一角である。
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【宗源寺】
所在地:狭山市笹井2丁目17番8号
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法流は大本山永平寺、大本山総持寺です。本寺は昔関東三ヶ寺の1つと言われた龍穏寺です。当寺には古記録はありませんが、伝承として寺となる以前は宗源庵という草庵があり、弘法大師作の地蔵菩薩像が安置されていたとのことです。
 開基については、文禄・慶長年間(1592年~1615年)当時の領主徳川家の臣・土屋三郎右衛門尉昌吉、土屋治左衛門の2家によって、堂宇が建立され、本寺第16世鶴峯聚孫禅師によって開山されました。その後本寺20世撫州春道禅師(正保3年(1646年)7月25日入寂)が初専任となったので副開祖とされています。
 本尊である木造宝冠釈迦如来坐像は、市指定文化財です。

『新編武蔵風土記稿』の記述
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山門前に石仏あり。
真ん中は狭山市で一番古い、寛文13年(1673)の阿弥陀如来。
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本堂
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土屋家墓所
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中央(下の写真では左側)にあるのが、開基の土屋昌吉の墓。後ろに子孫の墓が並びます。
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土屋昌吉の墓石に「宗源院」と刻まれており、宗源寺は土屋昌吉の戒名から命名したことがわかる。
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『寛政譜』による、土屋昌吉について:
勝頼につかふ。天正十年武田家没落ののち山林に潜居す。この時東照宮甲斐國にご進發ありて、武田家の諸士をして、をのゝその舊里にかへらしめたまふにより、昌吉もまた舊領の他にかへる。八月北条左衛門大夫綱成甲斐國三坂峠を越、黒駒に出張するのとき、昌吉いまだ御麾下に列せずといへども、綱成が兵とたたかひ大草左近某をうちとり、いた手を員ふ。鳥居彦右衛門元忠このことぞ言上せしかば、めされてつかへたてまつり、二十二日甲斐國成田のうち五十貫文井上のうち十八貫文の地もとのごとく宛行はるぺきむね、大久保新十郎忠隣奉る所の御朱印を下され、十一年閏正月十四日本領の御朱印を賜ふ。十二年長久手の役に供奉し、首級を得たり。十八年小田原陣のときしたがひ奉り、のち采地をあらためられ、武蔵國高麗多摩上総國園長柄三部のうちにをいて四百十石餘をたまふ。十九年九戸一授のとき陸奥國岩手澤まで雇従す。慶長五年七月十一日
※鳥居彦右衛門元忠:伏見の戦で城と共に討ち死にした鳥居元忠である。

【野菊の墓ロケ地】
これは、さる旧家で醤油の醸造などをしていた家だが、映画「野菊の墓」のロケに使用されたお宅だそうです。
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それから白山神社に向かって歩いていると、見事なアケビの垣根のお宅がありました。
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【根笹井】
『新編武蔵風土記稿』の記述
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村民仁右衛門が宅は、滝不動を南に下った地点が想定され、『入間郡誌(大正元年)』に「村の中央に清水湧き出す井あり。村民之を愛せかば村名となると伝ふ。その泉尚存す」とあり。

候補地その一
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候補地その二
手前の井戸がそうだと想定されている。
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【白山神社】
入り口には何の表示もなく、野道を入った林の中にひっそりと鎮座している。
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中には、朽ちかけているが彫刻が立派な社殿が納まっていた。
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【滝不動】
『新編武蔵風土記稿』の記述
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役小角が不動明王を彫刻しも安置したところで、観音堂の故地であり、下に瀧があることから、この地を「瀧ケ谷」という。

入り口は狭くて分かりにくい。
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小路を抜けて、吃驚した。あまりに広々としていた。
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2013年に歴史講座で訪ねたときには、鬱蒼とした森のなかにあった、その時の写真。
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現在の状態
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滝は水量が豊富。
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滝不動
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【笹井の冨士浅間神社】
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狭山市史によれば、本神社は大正14(1925)年、 笹井富士講により建立されたもの。

表の参道から入ろうととしたが、すごい藪で入るのはあきらめた。
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烏坂を上がり、裏から入っていく。
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富士塚があり。
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中心にある最も大きな石碑には「大祖参神霊」とある。
裏面に「大正14年6月1日建設」とある。
日立講である。
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富士塚の構成要素は、ほとんど失われ、「小御嶽大神」碑があったのみ。
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歌の彫られた石碑あり。
「冨士の山教のごとく あらたにぞまつり  おこのふ千代よろずよも」と、なんとか読んだ。
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【土屋家墓所】
富士塚の隣に、もう一つの土屋家墓所がある。
先に宗源寺で土屋昌吉家墓所を見たが、こちらは「土屋正久家墓所」である。
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『寛政譜』による、土屋正久について:
父・次左衛門正家は、武田信玄をよび勝頼につかふ。天正三年長篠合戦のとき討死す。年四十。
土屋正久、父と同じく武田家につかへ、勝頼没落のゝち、めされて東照宮につかへたてまつり、天正十一年間正月十四日甲斐國の本領國衛の内二十三貫文の地相違あるぺからざるのむね御朱印を下さる。のち、采地を武蔵圃高麗郡の内に移さる。文禄元年肥前國名護屋に供奉し、慶長五年台徳院殿、眞田安房守昌幸がこもれる信濃國上田城を攻めたまふのとき、したがひたてまつり、寛永四年八月二十一日死す。年六十二 法名善正。(今の呈譜全勝)武蔵國高麗郡篠井村宗源寺に葬る。のち正英に至るまで葬地とす。

土屋正久家は、寛政譜に「のち正英(四代目)にいたるまで宗源寺を葬地とす」とあり、葬地が宗源寺から離れた鳥坂の富士浅間神社脇墓所にいつ頃、移されたかは不明である。
次ぎに示すように宗源寺との繋がりは浅いことが理由の-端かも知れない。五代目忠英以降の墓所は江戸市ヶ谷長延寺にあり、明治初年に纏められた「旧旗下相知行調」などの資料を見ると、幕末時点の当主清之丞は、甲府勤番としている。また、甲府橘小路に居宅があることが、山梨県庁公開の絵地図で判る。

また、最初に挙げた『新編武蔵風土記稿』の記述に「土屋勘右衛門」とあるが、誤りで土屋勘左衛門正次のこと。
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土屋勘左衛門正次は、笹井土屋正久家初代の源三正久の嫡男(次男)で二代目。寛永十年では四百石の知行高。寛永四年遺跡を継いだ後、大番に列する。承応二年、大坂御金奉行に転じ萬治二年十二月二日卒。(参照:寛政譜)
勘右衛門は誤り。我々が教材とする「稿」の原本「浄書本」は、原則寛永前の文書を古文書として書写(くずし字)し、本文は楷書で清書している。浄書本では「勘右衛門」である。「稿」草本の元であった各村々の「書上帳」から「浄書本」への転写の際に「勘右衛門」と誤ったか或いは「書上帳」が誤っていたかの何れかであろう。
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烏坂を下って、白髭神社に向かいます。
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

よくわからなかいのですが、原本(と言っても、何世代かの写本だとは思いますが)からの最初の翻刻と書いてありますが、原本は崩し字の漢文で書かれていて、それを読みやすい形にしたのが、明治十七年の内務省版「新編武蔵風土記稿」と言うことなのでしょうか。また、「寛政譜」と言うのは、新編武蔵風土記稿とは別な本のことですよね。明治になるまで、原本が残っていたのであれば、それは伝わっていないのでしょうか。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
「寛政譜」は、新編武蔵風土記稿とは別な本です。
新編武蔵風土記稿は、将軍に上梓した原本が「紅葉山文庫」
として江戸城に置かれ、それが明治になり皇居に置かれ、
「内閣文庫」となり、現在は国立公文書館で公開されています。
ですから、翻刻されたものと比較対照させることが可能です。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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