狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/篠井村(笹井)-後半

20151019

10月13日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」の続きです。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は岸野さん、野口さんと池田さん。

「笹井の冨士浅間神社」と横の「土屋家墓所」のあと訪ねたのが白髭神社です。

【笹井・白髭神社】
『新編武蔵風土記稿』には、ごく簡単に載っている。
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社号標
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「戦災の跡地」の表示もあり。
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古記録がないため、由緒は明らかでありませんが、伝承としては、古くより笹井村の氏神として崇敬され、文明19年(1487)聖護院29代門跡道興准后が関東方面巡錫じゅんしゃくの折、当社の別当寺観音堂に滞在し、当社を拝礼し、御神木銀杏を手植えされたと伝えられています。しかし、この御神木は明治11年9月13日の暴風により倒れたため、現在は若木が植えられています。
 明治5年、社格制定の折、村社となり明治の一村一社の法令により、明治45年3月26日に、字愛宕にあった愛宕神社、字仲居にあった神明社、字八木上にあった鹿島神社を合祀し、大正元年8月24日字東川端にあった愛宕神社を合祀しました。
 昭和20年5月25日戦禍にあい、文政8年(1825)に再建された拝殿及び社務所(建立年代不詳)を焼失し、社務所は昭和22年ごろ再建され、拝殿は昭和41年氏子一同の浄財をもって再建されました。
 元旦祭及び春祭、秋祭に狭山市指定無形文化財「笹井豊年足踊り」が奉納されています。

鳥居
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境内は広々としている。
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手水舎
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拝殿
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神明造りの破風に棟木が突き出ているのが面白い。
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拝殿から奏上門を望む。
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主祭神:猿田彦命、武内宿禰
合祀神:愛宕大神、神明大神、鹿島大神

奏上門
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奏上門には、空襲の焼け跡が残っています。空襲による被害を受けた地区として、記憶にとどめるため、残してある。
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当神社を含む笹井地区が爆撃を受けたのは、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)5月25日の夜11時頃から26日の未明のことです。東京方面に向かって来たB29爆撃機500機の内1機が、迷って笹井地区に向かって飛んできました。
笹井ダムの向こう岸の黒須地区と笹井地区に焼夷弾5,000発が投下されました。この5,000発は黒須と笹井の20倍の広さを焼きつくす量だといわれています。いかに集中的に投下されたかが分ると思います。
笹井ダムから白髪神社を中心にしたこの一帯は火の海となり、焼失家屋や羅災者は多数を数え、死者13人、被災世帯69戸に達しました。その時の焼夷弾により当神社も拝殿と社務所を焼失しました。幸いにも本殿は無事で、本殿前の奏上門の破風を焦がしただけで類焼を免れました。この炭化した黒い破風がその時の名残です。

地元の人は本殿が助かったのは神様のおかげといっています。今でも毎年、笹井の俳句の会の
人達によって戦災の記憶を忘れないようにとの強い思いから、戦災の俳句が作られています。これ
らの俳句は神社境内に掲示されています。
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新しい俳句
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境内にある「土屋家稲荷神社」
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鳥居の笠木が面白い。
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芭蕉の句碑が、鳥居の近くにあり。
「武蔵野や一寸ほどの鹿の声」
出典は『俳諧当世男(いまやうをとこ)』。 延宝3年(1675年)、芭蕉32歳の時の句。
此の句の碑は珍しいそうだ。
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【薬王寺・薬師堂】
『新編武蔵風土記稿』の記述
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現在の薬師堂に行く途中に、以前薬師堂があった場所を教わった。
「立ち入り禁止」の札のところから上がる石段の上にあった。
左側に、辨天社のあった位置に「弁財天」の石碑が立っている。
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薬王寺・薬師堂の案内標から入ります。
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これが、現在の薬師堂
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開山・役小角から数えて、第52世の澁谷操氏から説明をいただいた。
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その中から抜粋して載せておきます。

○薬王寺紀元
所在地:狭山市大字笹井二五七五各地
管理者:第五十二世 澁谷操
本 尊 :不動明王立像
由 緒: 『新編武蔵風土記塙』の記述と同じ

○薬王寺
 現在、薬師堂は澁谷家の屋敷内にあるが、もとは笹井2553番地の小高い山林中にあり、間口五間、奥行2間半、須弥壇が三尺四方の豪華な建物であったといわれる。
 澁谷家所蔵、天保6年(1835)の笹井付近の古地図によると、薬王寺の境内は、百メートルくらい離れた薬師堂から弁天社、それから入間川の河岸まで続く長い参道、渕上の澁谷家墓地までの広範囲であり、往時の薬王寺の勢カが観音堂の配下とはいえ、相当偉大なものであったことを知ることができる。
 また、当寺の歴史がいかに古いかは、同家に残された第四十七世岱忍〔天保8年(1837)十月十九日寂〕が書かれた縁起と法脈によって知ることができる。なお、同家の墓地にある歴代の墓石がこれを証明している。(墓石は恐らく法脈を書いた岱忍が天保時代に整理して建立したものと思われるが、当時は確実な資料があり、これによって墓碑が挙られたのであろう。)

現在の薬師堂に安置されていたのは下記。
・本尊の薬師如来と脇侍の日光菩薩、月光菩薩
・それを守る十二神将
廻るようになっていて、今年の干支「未」にあたる「波夷羅(はいら)神将」が手前に来ている。
・役小角像
・尊師堂内合合祀社は、弁才天社、雷神社、太子様、天神社。
・弁才天坐像
・聖徳太子像

澁谷家にて安置されている薬王寺本尊の「不動明王立像」も拝観させていただきました。

以上全て写真を撮らせていただきましたが、ここでの公開は控えておきます。

製薬も行われていたそうで、当時の道具も保存されていた。
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薬師堂前に、薬王寺跡にあった石仏が安置されていた。
左から一里塚、馬頭観音、水神様、祈願地蔵三体
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澁谷家のお庭に、茶の木「栂尾」がありました。
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茶の木「栂尾」:
延暦二十四年(805)、最澄が唐からもたらし畿内周辺に薬用として栽培され、宮中にも官営茶園が設けられた。
嗜好用としては建久2年(1191)、明庵栄西が宋より茶種をもたらし九州に植えられたが、明恵が山城の                                                                        醍醐、宇治、きらに駿河、武蔵などにも広がった。

この日、時間の関係で澁谷家墓地の予定をカットしたが、池田さんから澁谷家墓地の写真を提供されたので載せておきます。
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【笹井堰】
薬師堂から、入間川の堤に出て、入間川沿いに笹井観音堂に向かいます。

入間川
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笹井堰
左側が、根岸のほうに分流させている堰
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『新編武蔵風土記塙』に記述あり。
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【笹井観音堂】
『新編武蔵風土記塙』の記述
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入間川近くの参道
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国道299号線の入り口
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現在の観音堂を管理している、篠井家当主のご厚意で観音堂を拝観させていただき、お話も伺いました。
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笹井観音堂は伊豆に流罪中の大宝2年(702)笹井を訪れた役小角を開祖とし、当時は滝音山と祢されました。
この後次第に衰退した滝音山は平安時代後期に園城寺(滋賀県)の行尊によって中興されました。この時十一面観世音菩薩像を安置したことから、以後観音堂とされました。
室町時代から戴国時代までは入間郡、高麗郡、多摩郡の54寺を触下に従えた京都聖護院を本山と仰ぐ修験道の大寺となり、天文21年(1552)聖護院門跡の御教書により青梅地方と高麗郡の聖護院支配の寺々を束ねる役に任じられました。
徳川幕府によって寺領を10石に減らされて観音堂は衰え、更に明治政府の太政官布告により修験道は廃止となり廃寺となりました。
現在の笹井観音堂は廃寺となった跡に建てられた小堂です。

大僧正行尊:
行尊(天喜3年(1055年)一長承4年2月5日(1135年3月21日))は、平安時代後期の天台宗の僧・歌人。平等院大僧正とも呼ばれる。
父は参議源基平。園城寺(三井寺)の明尊の下で出家、頼豪から密教を学び、覚円から濯頂を受けた。1070年(承久2年)頃より大峰山・葛城山・熊野などで修行し、修験者として知られた。
1116年(永久4年)、2代熊野三山検校に補任。熊野と大峰を結ぶ峰入りの作法としての順峰(熊野本宮から大峰・吉野へ抜ける行程)選定をおこなったという。1107年(嘉承2年)5月法眼に叙せられる。また、同年12月鳥羽天皇即位に伴いその護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現し、公家の崇敬も篤かった。のちに、園城寺の長吏に任じられ、1123年(保安4年)には天台座主となったが、延暦寺と園城寺との対立により6日で辞任している。1125年(天治2年)大僧正。その後、諸寺の別当を歴任する-方、衰退した園城寺を復興した。

回國雑記(かいこくざっき):
著者の道興准后は文明十八年(1486)六月から約一年東国への旅に出た。
この廻國雑記の旅程をみると、後の松尾芭蕉「奥の細道」、菅江真澄「菅江真澄遊覧記」に多大な影響を与えていることがわかる。
道興准后が笹井を訪れたときの武蔵野巡礼は、「半沢、霞の関、宗岡、堀兼の井、入間川、佐西、十玉坊、大石信濃守、上寺山、勝呂野寺、野火止塚、所沢、久米川、越年、正月の日々、浜崎」と廻っている。期間は約三ケ月とみられ、文明十九年二月の初めに一行は甲州路へと旅立っている。 当時の佐西観音堂は所沢付近にあったといわれる大塚の十玉坊と勢力範囲が接しており、配下寺院の争奪で紛争が絶えなかった。道興は笹井訪問の直後に、十玉坊を廻っていることから、状況確認のために訪れたと思われる。 後の時代、文禄三年(1594)には本山修験総本山の聖護院から裁定書が出ている。百年以上の長きに亘って両者間の紛争が絶えなかったことが判る。

観音堂
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内部
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かっての観音堂の写真がありました。
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安置されていたのは:
・本尊の十一面観世音菩薩像
・役小角像

徳川幕府の時代には、神君家康公への信仰を要求されたそうです。
・神君徳川家康公像
・篠井家伝家康公位牌

ご本尊を拝観させていただき、聖護院形式の荘厳な厨子の扉を閉じたところ。
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堂内に安置されていた仏像など全て写真を撮らせていただきましたが、ここでの公開は控えておきます。


今日は、澁谷家のご当主、篠井家のご当主のご厚意により、大変貴重なものを拝観させていただき、感激しました。


(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

隅田川七福神の1つとして、「白髭神社」あり、寿老人に擬せられているのですが、ここの祭神は猿田彦大神でした。同じ白髭神社と言っても御祭神が異なるのですね。

それにしても、米軍によるものすごい数の焼夷弾による都市攻撃、原爆投下と同じ位の残酷さだと思います。もし、アメリカが負けていたら、裁判の対象になったでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
大戦時、あまり機能の無かった狭山市でも
誤爆により被害が起こっていました。
シリアでも、アフガニスタンでも、
誤爆による市民の死者はずいぶんと出て
いるようです。
戦争は、絶対にいけませんね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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