長髄彦(ながすねひこ)/日本の神々の話

20151028

まず、「長髄彦」が神なのかどうなのかということだが、記紀神話に登場している人物である。そして、神武天皇の東征の際に歯向かっで負けた側なので、貶められているということもある。
一方で、建御名方命と同人物とする説があるので、取り上げています。

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。

記紀神話での内容は次のようなものである。
神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で長髄彦が迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。
その後、迂回して熊野から上陸した神武天皇と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。

長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。  

登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世に武将として台頭した織田家(後に織田信長を輩出)や伊達家が長髄彦の子孫であると言われている。

長髄彦は饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。
旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

ここに、とても興味深い説を見つけ、私は共感している。
神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、後者は前者の叔父となる)ということになる。
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝の時代に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。


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コメント

No title

なるほど、これによると、九州にも大和にも、ほぼ同時に、天下ったと言う訳ですね。そして、同族争いが起きと言うことになりますね。

そう言えば、以前にどこかの展覧会で、神武天皇を描いた絵があり、そこでは、金色の鳥が光を放っていましたが、そう言うことだったのですね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
天下ったとい言い方は、実際は「渡来してきた」
ということだと思います。
それが新羅系とか高句麗系とかということもあると思いますし。
南方からも来ていますからね。

神武天皇と金色の鳥の絵は、多いですよね。
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