堀兼ウォーク/地域連携活動・狭山台自治会連合会

20151101

狭山台自治会連合会では、月に二回ウォーキング活動をしていますが、10月24日(土)に元気プラザから堀兼神社までウォーキングをするので、堀兼神社で説明をして欲しいとの依頼があり、一緒にウォーキングをして、堀兼神社・堀兼の井の説明をしました。

元気プラザの体育館に集合。
今日はガイドがあるということで、通常よりもずいぶんと多くて28名の参加でした。

まずはストレッチをして準備体操です。
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参加者はピンクの帽子で、よく目立ちます(笑)
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堀兼神社に到着。
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ちょっと休憩してから、説明をしました。
ここには、大きく分けて三つの史跡があるので、三人で説明をしました。

【堀兼神社】
所在地:狭山市大字堀兼2220-1

堀兼神社入り口(鳥居から)
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1.由緒
当神社は江戸時代まで「浅間宮」と呼ばれていましたが、明治初期の神仏分離令の関係で神社であることを強調するため、明治4年(1871)に「浅間神社」と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。その後、明治39年(1906)の勅令による神社合祀令によって、近郷の小さな神社が次々と合祀され、明治42年(1909)に「堀兼神社」と再度改められ現在に至っています。
 当神社の創建は社伝によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷(えみし)征伐から帰る途中、この地に立ち寄ったところ、土地の人たちが水不足で大変苦しんでいることを知り、何とか救おうと富士山を遥拝して井戸を掘らせ、漸く水を得ることができました。そこで土地の人たちがそれを記念して、浅間宮をお祀りしたのが始まりといわれています。

 この地の領主松平伊豆守信綱公が新田開発事業を進めるにあたって、入植者の長寿と子孫繁栄、そして松平家の武運長久を願って家臣の長谷川源左衛門に命じて社殿を建立させました。

江戸後期の文化文政(1804~1830)の頃に刊行された「武蔵野話(むさしやわ)」という本に「堀兼の井戸」の記事が載っており、その挿絵を見ると、鎌倉街道沿いに、堀兼神社、富士塚、堀兼ねの井が描かれていて、江戸時代から現在まで変わらない姿であることがわかります。
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武蔵野話:
初篇は文化12年(1815)刊、序文によれば斎藤鶴磯が所沢に寓居する間、閑をみつけては周辺に足を延ばし、叢の祠や、古い社寺を訪ね、或は旧家に伝わる古器や旧記を見たことを筆書し刊行している。
続編は文政10年(1827)刊、老齢に達していて門人岡部静斎の校訂で上梓となった。

斎藤鶴磯(さいとうかくき):
1752-1828 江戸時代中期-後期の儒者。
宝暦2年生まれ。江戸の人。武蔵(むさし)所沢(埼玉県)にすみ,武蔵野の歴史地理に関する先駆的研究書「武蔵野話」をあらわした。


随身門
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 随身門とは左右に衣冠束帯で武器を携えた神像が安置されている神社の門のことで、神域と俗世界の境界に建てられています。
 この随身門は「単層入母屋造りの八脚門」という建築様式で、柱の間が三間、そのうち出入り口が一戸であるところから、「三間一戸の八脚門」と呼ばれています。
 間口が7m弱、奥行きが4mほどです。いつ頃建てられたかは分っていませんが、幕末の万延元年(1860)に8両2分の費用をかけて神像を塗り替えたという記録があることから、1800年代の前半には建てられていたと考えられています。正式な随身門としての形式を備えた市内唯一の建築物で文化的価値が高く、昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。
ここに安置されている二神像は随身と呼ばれ、神域を守り祭神が外出するときには護衛として付き従います。
向かって左を矢大臣、右を左大臣といい、正式にはそれぞれ「豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)」「奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)」といいます。「豊」は豊作や多産を、「奇(くし)」はめでたい兆しを意味する言葉です。
『古事記』では、天石門別神(あめのいわとわけがみ)という名で登場。
高天原の宮殿の門を守る神でしたが、天孫降臨の時、天照大神の命令で瓊瓊杵尊に従って降臨しました。
『古語拾遺』では、天照大神が岩戸から新殿に遷座したあと「豊磐間戸命と櫛磐間戸命の二神に殿の門を守衛させた」とあり、「両神は天太玉命の子である」という。

本殿は、富士塚の上に建てられている。
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富士塚は富士山に登れない老人や子供でも、これに登って富士山を拝めば富士山に登ったのと同じご利益があるという信仰から、多くの村々で村人たちが力を合わせて土砂を積み上げて築きました。
特に女性は、富士山に登れるようになったのは明治5年であり、それまでの富士山は女人禁制でした。
現在残っている富士塚は、東京都は191、埼玉県は577と言われています。
狭山市には、私が確認している富士塚跡で、10ケ所あります。

富士塚の上り口にある「浅間神社」
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そこから上っていくと五合目に「小御嶽神社」があります。
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「小御嶽」というのは、現在の富士山の場所に、一番最初にあった山の名前。
実際の富士山にも、五合目に「小御嶽神社」がある。
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本殿
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主祭神は富士浅間大社(ふじせんげんたいしや)から勧請(かんじょう)した木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。
 記紀の神話では、この神は山の神々の元締めである「大山祇神(おおやまずみのかみ)」の娘で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃(きさき)でもあります。
 また、瓊瓊杵尊に不義を疑われ、身の潔白を証明するために産室に火をかけて三人の神子(みこ)を産んだという気性の激しさが、美しいけれどもいつ噴火するかわからない激しい富士山の神に相応しいということで、富士山を祀る富士浅間大社の祭神になったということです。
 富士山はその豊富な伏流水のため、あるいは火と水がつきものということからか水の神としても尊崇され、農業神つまり作神として特に関東地方の農民層に厚く信仰され、したがって明治時代まではどこの村にも浅間宮が祀られていました。


本殿の裏に建立年月日である「慶安三庚寅(かのえとら)天五月吉祥日」と建立の趣旨「浅間宮の御加護の下(もと)に入植者の長寿と子孫の繁栄を願う処としてお社一屋を建て奉ります」を刻んだ剣先(けんさき)を上にした形の石の棟札が建っています。
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続いて、堀兼の井の説明に移ります。
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【堀兼之井】
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この堀兼之井は昭和36年(1961)9月1日に埼玉県指定文化財・旧跡に指定されました。
堀兼之井は日本武尊が東征のおり、水がなくて苦しむ住民を救うため富士山を拝んで掘ったものと伝えられています。
この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる掘り難いの「ほりかねの井」の1つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることになります。
「ほりかねの井」の文献初登場は、9世紀末に伊勢が詠んだ「いかでかと思ふこころは堀かねの井よりも猶ぞ探さまされる」の1首です。
また平安時代に清少納言が著した「枕草子」には、「井はほりかねの井、玉ノ井、走り井は逢坂なるが、をかしきなり」という有名な文があります。
どちらも「ほりかねの井」が何処にあるのかを示していないので、それが何処にあるのか、古くから論じられてきました。

都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。
神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようです。
江戸後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」を見ても、「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地
に残っており、どれを本当の場所とするかは定めがたいとあります。

井戸の傍らには、2基の石碑があります。

左奥にあるのは川越藩主の秋元喬知が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。
書かれている碑文は漢文ですが、現代訳にすると「この凹んだ地形の所がいわゆる堀兼の井の遺跡である。しかし長い年月の間にその由来が判らなくなるのを恐れるので、石の井桁をくぼみの中に置き、石碑にそのことを刻んでその傍らに建て、以って後世の参考に備える次第である。里人の言い伝えによると、この土地は、地を掘ってもなかなか水を得難いので、そのようにいうわけで、つまり兼ねとは難いという意味で、兼を難に通じていう次第であると思うが、ことの正否は、良く判らず、只世間の説に従うだけである」と刻まれています。
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手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明の漢詩が
刻まれています。
漢詩を現代訳にすると「この遺跡の井戸は昔から堀兼の井と呼ばれて来ているが、一体誰が名付
けたのであろうか?  今ここを訪ねて見ると、石の井戸側は青々と苔に埋もれ、水の滑れた井戸が昔を語り顔に残っていることである。伝えいう所によれば、その昔かの日本武尊が東征の際、水に因っていた住民のために大変に骨を折られ、井戸をお撮りになった跡ということで、つまり恩沢を後世に残して、多くの人々を救われた遺跡である」と刻まれています。
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【堀兼神社の石仏群】
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ここに3基の庚申塔がありますが、庚申信仰は中国から伝来した道教の教えで、三戸(さんし)という体内に住んでいる虫が、60日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の夜、体内から抜け出し天に昇り、天帝にその人の罪科を報告して寿命を縮めるというものです。
そこで庚申の晩は、三戸が抜け出さないように寝ないで過ごす庚申待ちという習慣が生まれました。
江戸時代に入ると、当初は静かに長寿を願っていましたが、そのうち飲食をともにして農作業の情報交換などをはじめ、現当二世安楽や五穀豊穣を祈って夜を明かす信仰に変わっていきました。
そうした人達が信仰と団結の輪をより一層強いものにしようと、お金を出し合って庚申塔を建てたのです。
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(1)寛文9年の庚申塔
 右端の庚申塔は、小沢平左衛門尉(おざわへいざえもんのじょう)ほか10人の庚申信仰の同信者により寛文9年(1669)11月1日に建てられたもので、三猿が刻まれています。
尉というのは日本の律令制下における官職であり、「左衛門尉」などという官位がありました。
勝手に名乗ったのか、先祖がそうだったという伝承だったのか。

(2)延宝5年の庚申塔
左端の庚申塔は、寛文9年の庚申塔から8年後の延宝5年(1677)2月13日に建てられた2番目に古いもので、前者と同じように三猿が彫られています。
しかし、その違いは建てた人が田中仁左衛門、大野甚右衛門など、「尉」のつかない一般的な名前になっている点です。
このことは、江戸幕府が中世の土豪的色彩の強い農民を駆逐し、幕藩体制を確立したことを物語っています。

(3)自然石に「庚申碑」と刻む石塔
中央の文字塔は前の2基より110年程後の安永10年(1781)4月に建てられた庚申塔です。文字塔としては市内で最も古いもので、建てた人は銘文に彫られていないので分かりません。


これで、説明を終え、しばらく休憩した後、また元気プラザまで戻りました。
帰りには、権兼橋に寄って、その石仏を説明、近くの新田開発の模様も見ていただきました。


(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

おお、案内と解説、ご苦労様です!

堀兼神社、門が立派ですね! その割に、本殿は地味な感じです。

さて、ここ富士塚の上に建てられているとのことですが、講碑ありましたか。と言うのは、私が持っている関東の富士塚のほとんどが載っている本に載っていなかったもので。

堀兼之井、おそらく、わりと早い時期に枯れてしまったのでしょうね。












matsumoさん

富士講碑は、丸吉講のものがありました。
それで私も調べたら、丸吉講のリストには、
堀兼のは載っていないですね。
どうしてなのか、調べてみようと思います。
課題が見つかって、嬉しいです。

こちらは鎌倉街道の枝道に面しているのですが、
鎌倉街道の本道に面している「七曲りの井」は
綺麗に整備されていて、水もありますね。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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