公開講座「水野の新田開発について」

20151220

平成27年(2015)12月6日(日)に、さやま市民大学学園祭参加行事として、歴史クラブが開催しました。
講師は権田恒夫氏にお願いしました。
151220kouza01.jpg


151220kouza02.jpg

(講師と講演風景の写真は、川田等さん撮影)

私は、法事のため富山県に帰省していたので、この記事は配布された説明資料と、当日投影したパワーポイント資料からの写真で作成しています。
(パワーポイントは佐藤芳子さんと池田守さんのデータから作成されました)

【はじめに】
 来年(2016年)は、水野村350周年の記念の歳に当たる。狭山市大字水野の成り立ちを中心に新田開発について話を進める。松平信綱の野火止や柳沢吉保の三富の開拓は広く知られるが、水野村については『新編武蔵風土記稿』に僅かな記述があるだけである。川越藩領の武蔵野の開発は9か村に分けられそれぞれ引受人が決められ、不老川を遡り今福村・中福村・堀金村・水野村へと南下する。水野村は川越藩領の南端に位置したので、開発は東進し三富へと続けられた。それでは、享保2年(1717)、牛久保家の第2代の牛右衛門忠元が紀述した由緒書「覚」を中心に水野村の開発を見ていく。

堀金村の開発
151220kouza03.jpg


牛久保家由緒書「覚」
151220kouza04.jpg


151220kouza05.jpg


【1.牛久保家の系譜】
 狭山市大字水野3番地の牛窪家は2町歩余りの農地を所有し、開発名主の風格を今に伝える。残された由緒書「覚」によると、出自は三河国宝飯郡牛久保村(愛知県豊川市牛久保)で、地名から牛久保姓を名乗るようになった。その後、浪々の身となり、高祖父・右馬之丞の時、武蔵国桶川宿(桶川市)に居を移す。そして、慶長6年(1606)、藤倉大膳の招介で大塚村(川越市)に移住する。その時、右馬之丞の嫡子で、牛右衛門の曽祖父・新兵衛も大塚村へ移った。慶長18年(1613)、新右衛門の嫡子・次郎右衛門は大塚新田に移り名主役を仰せ付かる。承応元年(1752)、今福村に移り住み、名主役を勤める。甥の金左衛門は堀金村(堀兼村)に居を構え、名主役を勤める。金左衛門は水野に転居、水野村牛久保家の初代となる。

【2.開発以前】
 水野村が位置する武蔵野は「草地」「芝地」と呼ばれ、草が一面に生い茂った原野であった。表土は関東ローム層の赤土のため地味が悪く、明暦年間(1655~1658)になっても開発されず、周辺村々の入会地として利用され、周辺農民の秣場(まぐさば)として川越藩の野高200石の-部であった。
151220kouza06.jpg


【3.開発の経緯】
 寛文5年(1665)、川越城主松平甲斐守輝綱が鷹狩に出掛けた折、野先案内人を勤めたのが堀金村の牛久保金左衛門であった。浅間大権現(現堀兼神社)で休憩を取った折、輝綱は一面に見える原野を見てこの地を開発しようと考え、同6年(1666)本格的に原野の開発を始める。金左衛門は当時20歳の嫡子牛右衛門と共に都奉行安松金右衛門吉政の技術的な援助を受け、原野の開発を進めた。南入曽村の百姓や川越藩内の次・三男が入植し、居屋敷を建て、開発に従事した。
 そして・『千載和歌集』にある藤原俊成の和歌「むさし野の 堀金の井も あるものを うれしや水の近付きにけり」をなぞらえて、村名を水野村と名付けられた。開発当初、屋敷はわずか81軒であった。
151220kouza07.jpg


【4.入会地論争】
 寛文6年(1666)7月25日、天領と旗本領31か村から訴えられるが、これは水野の地が入会地として利用されていた野銭場であり、境界がはっきりしていなかったからである。しかし、松平輝綱が幕府要職こあった関係で訴えは却下される。そして、貞享元年(1684)、北入曽村、黒須村、田中村、三ツ木村、風下村の5か村が訴え出たが、またも退けられる。その時、有力な証拠になったのが牛久保家の勧請した八幡宮である。現在、石詞・八幡宮は、牛久保家の雑木林の小さな建物に鎮座する。
151220kouza08.jpg


151220kouza09.jpg


【5.開発の様子】
 村作りは既存の村と境界を決めることから始められ、未開発地と開発地の境に印を付け、杭を打ち、村境とした。藤沢村から堀金村までの南入曽村境(裏通り)に道路を作り、松の木を植えて目印とした。そして、未開発地の境(表通り)に道路(野際街道)を作り、村境とした。野際街道沿いに杉を植える予定であったが、植林は実現しなかった。道路に沿って-軒分約2町歩(約2ha)の短冊形の土地(縦約20聞(約36m)、横約330間(約600m)に分け、ウツギを植えて畑境を決め、地割(じわり)した。
南入曽村境の道路に面して屋敷、次に畑地、一手奥に原野を置き、畑の真ん中に耕作道を通した。その後、残された原野にクヌギやコナラなどの雑木を植え、落ち葉を堆肥に小枝を薪に利用した。後に畦畔茶も植えている。
151220kouza10.jpg


151220kouza11.jpg


【6.開発後】
開発当初から寛文8年まで3か年は鍬下年季として年末は免除された。
講演では、詳細な石高とか内訳の説明があったが、ここでは数字は省略する。
最初の10年間、川越藩は検見取りしていたが、生産が安定すると定免取りになった。
宝永2年(1705)、柳沢吉保は甲府に転封したが、後に支配する代官の細田伊左衛門も検地を行っていない。

 寛延2年(1749)の『武州入間郡水野村明細書上帳』で、畑反別や内訳はわかる。(数字は省略)
151220kouza12.jpg


主に大麦、小麦、粟、稗、陸稲、芋、蕪、大根を栽培し、小豆、蕎麦、胡麻、芥子も少し作っている。「土地悪敷く」大豆は作付出来なかったが、糠灰、下肥、厩肥などを利用し地味を豊かにしようと努力している。
人口は男222人・女207人合計431人、家数は85軒(名主1軒、本百姓83軒、宮守一軒)、馬を39疋飼っていた。

 水野村の農民にとって生活用水の確保は大切であった。10か所のお助け井戸を掘ってもらい、8軒で1つの共同井戸を使用した(名主家は、1軒で-つの井戸)。
井戸は15mから20mも掘らねばならなかった。
掘った赤土や砂礫層が崩れないよう、太い松材で井桁を組んで井戸を仕上げた。

寛文6年(1666)開拓当初からの牛窪家井戸
151220kouza13.jpg


その後、下水野の18軒は南入曽村の入曽用水(小川=こかわ)から分水させてもらい、用水路を引いた。
入曽用水(こかわ)の跡
151220kouza14.jpg


生産性の乏しい土地での生活は苦しく、逃亡する者も出ている。そこで、精神的な拠り所としたのは地蔵尊や庚申塔などの石仏であった。開発20年後の貞享3年(1686)、下水野の農民45名は地蔵菩薩を祀っている(俗称化け地蔵)。

化け地蔵 貞享2年(1685)
151220kouza15.jpg


庚申塔 天明2年(1782)
151220kouza16.jpg


村内に檀那寺や共同墓地がなく、畑に個人墓地を造った。
151220kouza17.jpg


村の鎮守として富士浅間神社を勧請し、富士塚に祀っている。
水野 元村社浅間宮の跡碑
151220kouza18.jpg


【おわりに】
 狭山市水野の先人が営々と築き上げて来た歴史を再確認することができた。これから、循環型農業を大切にし、武蔵野の原風景が未来に引き継がれることを希望する。
現在、「里山」と言う言葉が一般に流布するようになった。管理された雑木林が後世まで残って欲しい。
明治34年(1901)刊行の国木田独歩著『武蔵野』は、雑木林の美しさを日本人に広く教えた。
伝統的な農村風景は、景色を見る人たちに落ち着きと安らぎを与えてくれる。田畑は水の循環を安定させ、熱さを和らげてくれる。伝統的な暮らしと結びついた畑や周囲の雑木林を「里山」と呼ぶ。里山は食料や燃料、生活に使う道具を得るために地形や自然の恵みを利用してきた。現在、里山の環境が失われつつある。


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「狭山市の歴史を訪ねる」記事一覧に飛ぶ



スポンサーサイト

コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

新田開発って、やはり、農村の人口が増えてきたからなのでしょうね。土地は長子相続だったでしょうし、分家して、土地を分けてしまえば、貧乏になってしまうでしょうし。勿論、それ以外に、耕している土地が狭すぎて、もっと耕してまともな生活をしたいと言うこともあったと思いますが。

それにしても昨今の状況だと、田圃を放棄した遊休地も増えてきたとか。いよいよ、農業の会社化も行わねばならなくなるかもと思っています。そうなると、コルホーズとかソホーズとかになるのでしょうか。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
新田開発は、藩の財政がひっ迫してきたからです。
川越藩の場合は、松平信綱が藩主になってから、
新田開発に力を注いでいます。
幕府も、この頃家康が残した財産を使い果たして、
改革をはじめています。
非公開コメント
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop