氷川神社&富士塚/狭山市

20151224

所在地:狭山市青柳東馬智屋敷475

入り口
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社号標
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 当神社の創建や由緒は古い記録が全く残っていないために不明です。
明治45年の「神社由緒調書」にもこうした記録がなく、わずかに現在の社殿は明治14年(1881)12月に再建されたと記されているのみです。 さいたま市大宮の武蔵一宮・氷川神社から分祀されたもので、大宮の氷川神社は由緒、規模、歴史など超一級で、武運の守護神として武士の崇拝が篤かったといわれますので、当社も武士の崇拝を受けたと思われます。

朱色の両部鳥居
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参道には桜の樹が植えられている。
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石灯籠が二組あるが、最初の一組は慶應2年(1866)奉納のもの。
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掲示板があり、また石灯籠があり。
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二組も慶應2年(1866)奉納のもの。
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こちらの台座には、狛犬が彫られている。
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二の鳥居(?)
笠木が巨大化したような感じのものだ。
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手水舎
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入母屋造りの拝殿
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社額
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本殿は拝殿と離れている。
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拝殿から本殿にかかる朱色の橋。
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当初は、拝殿から石の間に降りて、また石段と階段を上がり本殿に渡っていたことがわかる。
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流れ造りの本殿
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本殿背面
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ご祭神は素箋鳴尊(すさのおのみこと)。

神紋は「右三つ巴」
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神楽殿
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境内社として明治40年(1907)に青柳下にあった第六天神社、稲荷神社を合祀している。

第六天神社
ご祭神:両足尊(おもだるのみこと)、惶根神(かしこねのみこと)
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前に色々な奉納物が置かれていた。
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第六天神社というのは、珍しいのでここで説明しておきます。
特徴:
元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代の(面足命・惶根命)に祭神を変更した。

『日本民俗学 No.127』によると、『新編武蔵国風土記稿』、『新編相模国風土記稿』、『増訂・豆州志稿』によれば、「第六天神社」は江戸時代末までは関東を中心に多く存在したが、前述の神仏分離によって改称あるいは他の神社に合祀や相殿、末社となり、祠のようなものも数えれば現在でも300余社あるものの、宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている。
鵜ノ木には、独立神社としてあり、現在も講が活動しています。
さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社が、現在も活発に活動しています。

第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが、西日本では皆無となっている。これは戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためという。

第六天魔王とは
仏教では、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)、また十界(六道の上に声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を加えたもの)といった世界観がある。
このうち、六道の地獄から人間までは欲望に捉われた世界、つまり欲界という。しかし天上界では細部に分けられ、上に行くほど欲を離れ、物質的な色界・そして精神的な無色界(これを三界という)がある。
ただし、天上界の中でも人間界に近い下部の6つの天は、依然として欲望に束縛される世界であるため三界の中の欲界に含まれ、これを六欲天という。
第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。
六欲天を上から記載すると次の通りとなる。
他化自在天(たけじざいてん)、化楽天(けらくてん)、兜率天(とそつてん)、夜摩天(やまてん)、忉利天(とうりてん)、四大王衆天(しだいおうしゅてん)。

境内社・稲荷神社
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中に朱塗りの木の社殿あり。
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境内の石仏としては、参道入り口鳥居前に庚申塔があります。
全高が100・5cm、台座高は9cmの-面大骨の浮彫青面金剛を刻んだ庚申塔。
銘文によると元文5年(1740)庚申(かのえさる)3月19日に上青柳村の馬知屋敷の庚申講中世話人代表の豊泉氏他21名と、馬智屋敷組の高橋吉右衛門ほか11名により建てられたもの。
足の不自由な人にご利益があるという言い伝えがある。
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【富士塚】
昭和42年(1967)に東脇の道路改修が行われた際、富士塚と富士嶽神社が移転された。

氷川神社の富士塚:
 富士塚は浅間塚とも呼ばれています。富士塚の頂上に富士嶽神社と刻まれた高さ171cm、幅77cmの石碑があり、いわゆる霊山と生産神を表す文字塔が建てられています。富士信仰によって建てられた富士講碑です。
 富士信仰は秀麗な富士山を崇拝する山岳信仰で、長谷川角行東覚(書行藤覚)によって基礎が作られ伊藤伊兵衛(食行身禄・じきぎょうみろく)の活躍により庶民に普及し、盛んになったといわれています。
 富士山登拝の風習は関東一円に広まり多くの「富士講」が成立したようで、庶民の生活の向上により富士講が盛んになったことがうなずけます。

登り口の鳥居
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合目石
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四合目のところに富士講碑あり。
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 この富士講碑は明治10年(1877)に建てられたもので、建てた人は分かりませんが裏面の銘文に「村内五穀豊登」と刻まれていることから、青柳村の富士講によると思われ、豊かな実りを願って建てたと思われます。
 市内には45基の富士講碑が確認されていますが、このうち江戸時代のものは7基で、ほとんどが明治時代になってから建てられたものです。
江戸時代の富士講碑には「富士浅間宮」のように「宮」、明治以降は「富士嶽神社」のように「神社」と刻まれていて、これによりある程度時代の区分けができます。
富士山は相模の大山と並んで昔から生産神として崇められ、富士山登山は富士講代表による代参で、その他の講員は老若男女が参拝できる手近な富士塚から富士山を拝んでいました。

小御嶽神社碑
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小御嶽というのは、現在の富士山が出来る前に、その場所にあった山です。
本当の富士山の五合目に「小御嶽神社」があります。

烏帽子岩
本当の富士山の八号目にあり、食行身禄が入定した場所です。
氷川神社の烏帽子岩には、「角行霊神」と「食行霊神」が刻まれている。
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頂上にある「冨士嶽神社」碑
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「冨士嶽神社」碑は、富士山の溶岩の台座の上に安置され、左右に猿の石像があります。
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全高が137cmの富士講碑の左側には高さ52。皿、右側には高さ48c皿の猿の石像が建てられています。
一般的に猿の石像は猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀る神社に建てられていることが多く、また庚申塔にも三猿が見られます。
猿は富士信仰にも関連があって、富士講が造る富士塚に他の石像とともに猿の石像が建てられる場合が多くあります。
信仰の対象である富士山は孝安天皇庚申(かのえさる)の年に出現したと伝えられており、そのため60年に一度回ってくる庚申の年は御縁年といって盛大に祭典が行われ、多くの信者が登山していたといわれます。
 このことによって富士信仰の中に「猿」が登場したことが考えられます。

結果として、富士塚の構成要素の有無をみると、
九十九折の登山道・・・○
合目石・・・○
頂上の社殿、祠、又は碑・・・○
「小御嶽」がある・・・○
「烏帽子岩」がある・・・○
「お胎内」がある・・・×
山裾に社殿又は鳥居がある・・・○
富士山の溶岩・・・○
講社の石碑・・・○

ということで、ほぼ完全な姿で残っている素晴らしいものと言えます。
これからも、大事に保存していただきたいと思います。

(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

おっ、ついに富士塚を本格的に始められたのですね! ところで、頂上から富士山、見えましたか。昔の富士塚は頂上で遙拝することから、頂上から富士山が見えたようです。現在は、ビルができて見えないところが多いですが、例えば、下赤塚富士塚(東京都板橋区大門5)では、頂上に登ると、今でも富士山が見えます。

それにしても、氷川神社、色々なものが揃っている感じですね!

matsumoさん

コメントありがとうございます。
この富士塚から現在も富士が見えるかどうか、
確かめて無いですね。
写真を撮ったときには、見える天候では
ありませんでした。
今度、冬の間に、狭山市にある全部の富士塚を
廻ってみようと思います。
確実に富士が見える気候のときに。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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