狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/水野村・南入曽村

20160225

2月9日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。

今回の説明は、横山さんと和光さん。

まず明治末期の入間村(北入曽、南入曽、水野)付近の地図に色付けして、当時の道路と川を判りやすくしたものを載せておきます。
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これは北入曽・南入曽・水野の関係が分かる現在の地図。
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水野村の新編武蔵風土記稿記事
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南入曽村の新編武蔵風土記稿記事
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入間地区は、広大な武蔵野台地の中央部に位置し、6000万年前に、青梅から流れ出た「古多摩川」が形成した、扇状地と言われる。この古多摩川は地殻変動によって流れを南方に変え、現在は東京都内を東に向かって流れている。地形は、中央部が東西に長い帯状の低地をなし、七曲の井戸付近は海抜72m、幅は約1,500mである。この帯状低地の北寄りを不老川(としとらずがわ)が西から東へ向かって流れているが、これは古多摩川の名残り川である。
北入曽・南入曽・水野の集落は何れもこの帯状低地内にある。地質を見ると、地表の一番上部はうすい黒色土、その下が厚さ約1mの赤色をした立川ローム層である。このローム層は火山灰の堆積したもので、乾燥すると風によって舞い上がる特徴がある。このローム層の下は厚い砂礫層で、古多摩川の河床であったことを裏付けている。なお砂礫層の厚さは、南小学校で20mを測定している。このローム層と砂礫層は水を通し易い。入間地区に水田が無いこと、不老川が雨の少ない冬に水枯れ現象を起こすのも、この地質の為である。

この水平な台地は武蔵野台地の中でも高燥で、小名で、堀兼井と言われるほどの乏水地域にあり、この上を南北に所沢道(入間路・鎌倉街道)が、東西には幾通りもの、新河岸街道が走り、それに沿うように不老川が流れ、道は中心地で交わり、この交通の要所を中心に道沿いに人々の生活が営まれ、神社・寺院が配置され人々の生活の歴史が造られてきた。

この日は、入曽駅前に集合、まずは南入曽村と水野村の境道を行く。水野村は東西に長く、全域は無理なので、この日は入曽駅から東の部分のみとした。
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【水野村の誕生】
寛文5年(1665)、川越城主松平輝網(信綱の子)が鹿狩りに出かけた。その時、野先案内人を勤めたのが堀金村の名主牛久保金左衛門であった。
堀金の浅間神社で休息した輝網公は、西南に展開する原野を見て新田取立ての旨仰せ付けられた。金左衛門は堀金村の名主を娘婿に譲り、当時20歳の嫡子牛右衛門忠元と水野の新田開発にあたった。南入曽村など近隣村の二男や三男たちと共に原野を切り開いた。
名付け親は郡奉行安松金石衛門で、藤原俊成の古歌『むさし野に堀兼の井もあるものを嬉しく水の近付けにけり』より、水野村と命名し、翌寛文6年(1666)正式に川越藩領水野村が誕生した。

水野村のあらまし:
開発から3年間は年貢が免除されていたが、4年目の寛文9年(1669)には年貢を納めるようになり、天和2年(1682)326石、貞享5年(1688)428石、元禄5年(1692)の水野村明細帳には戸数81軒、人口431人内男222名女209名、馬39頭、竪堀井戸10ケ所、206町9反6畝14歩、石高は679石と10年間で2倍になっている。
地割は、間口20間(36m)奥行き250~300間(450~540m)ぐらいに区切られ、北端が屋敷、それに続く南に長い畑、南端が雑木林、また屋敷の裏には竹を植えた。

【元浅間神社跡・水野の庚申塔】
元浅間神社跡碑と庚申塔が並んで立つ。
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浅間社は、創建は不明だが、新村成立の早い時期に水野村の鎮守様として村の中央に祀られた。名主の牛久保家が堀金村から移り住んだ事と関連があると思われる。明治40年(1907)入間野神社へ合祀され、『元村社浅間神社乃跡』と刻まれた石碑がある。
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庚申塔は、天明2年造立、一面六臂の青面金剛像・塔身に二童子・二邪鬼・二鶏、台座に三猿像
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【高札場】
風土記に「村の東よりにあり」と記されている高札場は、当時の道の交差から判断して、「月見野交差点」ではないかと推定される。
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当時の道を偲ばせる道あり。
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【新田開発】
先に川越城主松平輝網の命によって新田開発が行われたことは説明したが、其の地割はこのようなものだった。
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それがそのまま残っているところ。
この道を挟んで両側36mが地割り。
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今でも、地割りの中にお墓がある。
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ここは、古多摩川の河原だった場所なので、出てくる石は皆丸い。
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一軒の家の地割りを住宅地に開発したので、このように帯状に宅地が並んでいるところがあった。
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豪農だということを偲ばせる家が多い。
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【牛窪家本家】
牛久保金左衛門から続く新田開発を主導した、現牛窪家は健在です。
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【水野新田開発由来看板】
消防署の前に立つ。
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【八幡社】
開拓の責任者で名主の牛久保忠元が自分の敷地内に寛文6年(1666)8月石造の八幡宮を建立した。小高い八幡宮からは正面に富士山と水野村が一望できる。
貞享元年(1684)北入曽村ほか5ケ村から秣場が狭まるとの訴訟が出されたが、「八幡社が祀ってあるのは村として成り立っている」として、訴状は避けられた。

ということで、水野の人にとっては大恩ある八幡様なのだが、行ってみたら大変な藪の中であった。
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参道の石段も埋もれていたが、天明2年(1782)の石柱が確認できた。
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八幡社
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八幡宮の石碑
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変電所の間を行く。
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【牛窪家墓所】
牛久保家屋敷裏の畑の一画に、初代金左衛門から9代忠助までの笠付角柱型墓石が並んでいる。
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初代寛忠の墓
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二代忠元
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四代寛伴(水野姓を賜る)
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奇特者忠助:
牛久保家4代忠助寛伴のこと。日頃から村民を教輸して農業に心を用いた功より、天明2年(1782)川越城主松平大和守より黄金若干と苗字帯刀を許され水野の性を名乗った。また牛久保家墓地にある墓石の裏面には『筆子門弟200余人』とあり、歴代名主の中でも傑出した人物と思われる。

【不老川(としとらずがわ)】
不老川・水無川、色々な名で呼ばれるが、この川沿いに村は成立した。
冬季には枯渇する、水の乏しい川なので、こう呼ばれた。

小川(こかわ)との合流点に出た。
小川については後述。
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しばらく不老川沿いに歩く。
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御嶽信仰のしるしあり。
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【山王様】
不老川にかけられた山王橋を渡った右手に山王様を祀った社があり、由来碑が建てられ、又天明3年当時の名主小野田四郎右衛門が村人や水野村の人達のために発願してかけた石橋の橋桁が置かれている。山王様は寛文11年入曽村の有志が村の息災を顛って勧請したもので、神徳は山王塚と言う地名を生み更に山王橋と言う橋の名を産んだ。昭和51年に至り小中学校の校名に山王が冠せられた。
昭和30年頃山王橋の架け替え時、天明3年小野田四郎右衛門の文字の彫られた桁が外され露座の状態に置かれていた。昭和の終わり頃から大型車も通れる改修が行われると同時に右岸にあった山王様の移転要請が出され。関係者の努力で、平成2年5月現在地への遷座と新山王橋が出来た。
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ここでは、山王信仰と庚申信仰が習合したかたちになっている。
山王さま(大山祇神)が靑面金剛のかたちをとり、山王様のお使いは猿なので、三猿も違和感はない。
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小野田四郎右衛門の文字の彫られた桁が、お堂の後ろに置かれている。
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小川(こかわ)の流れが民家の間に確認できる。
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「山王塚市民緑地」として、貴重な雑木林が保存されている。
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【下水野の地裁尊(化け地蔵)】
この地蔵菩薩は浮き彫りの立像で、連立された貞享2年(1685)は水野村が新田として開発されてから20年目にあたります。両面には同村の開発に直接携わったと思われる48人の名前が刻まれています。
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このお地蔵は願掛けの時に縄を縛り、願いがかなったらほどいてやると言う、庶民の素朴な信仰のかたちがあると云われているが、現在では願掛けをする人が居ないようで、あまり縄がかかっているのを見なくなった。
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【入曽用水跡(小川 こかわ)】
入曽用水は狭山丘陵から流れ出る水を集めた、林川が北入曽で不老川と合流しますが、その手 前から分水して南入曽へと流され、かっては南入曽村の人々にとってはかけがえのない生活用 水でした。当時の人達は親しみをもって、入曽用水を「小川」、不老川を「大川」と呼んでいたようです。この用水がいつ頃、開削されたのかは不明ですが、天正6年に筑前守が出した触書によると、「用水の堀を崩した者は厳罰に処す」と記されているので、16世紀後半には存在したと思われる。寛文6年に開発された水野新田は、開発当時井戸は10ケ所しかなく、生活用水を賄うのには困難が伴いました。そこで水野村は延宝2年、南入曽村に入曽用水の分水を願い出たのですが、しかし、大変貴重な水を分けることは南入曽村にとっても死活問題でした。
そんな事情により、水野村への分水が許可されたのは、24年後の元禄12年でした。
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残っている「こかわ」を探しました。
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【金剛院内造立石造物】
多摩郡成木村安楽寺 (現青梅市成木)の末で、維新以前は御嶽神社(現入間野神社)の別当寺でありました。創立年代は不詳でありますが、天文2年(1533年)深悦沙門が中興し、慶安2年(1649年)十石の朱印状を付せられました。
天保4年及び明治38年11月に火災にあい、四脚門と土蔵を残して全焼しましたが、翌年仮本堂を建て、昭和32年大改装を行いました。境内には薬師堂・地蔵堂があり廃堂としましたが、これらの堂は院よりも古いといわれています。
寺宝の木造地蔵菩薩立像は、市指定文化財です。

*光明真言読誦供養塔
裏側から来たので、すぐに浮き彫りの大日如来を主尊とする石塔が目に入る。文久2年(1862)に建てられたもの。正面上部に光明真言を円形に配置し、その下に大日如来を配している。
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*四脚門
正面に回り、四脚門から入る。
安永10年(1781)建立。当院で最も古い建物。
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*本堂
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*庚申塔
この庚申塔は、浮き彫りの青面金剛を主尊として天明2年(1782)に金剛院2世法印寛慶の指導のもと、南入曽村の人々と名主の小野田四郎右衛門により国家の安穏、五穀豊穣、万民の安楽を願って建てられた。
主尊が一面四臂、二邪鬼、左右に童子、台座に三猿でなく四夜叉を従え、陀羅尼集経の中の「靑面金剛呪法」に比較的忠実に造立されている。
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以上で、この日の予定を終了。
入曽駅近くのレストランで昼食を食べながら、参加者懇談。
解散となりました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

なるほど、道とか、畑とか、古いものが結構、残っているのですね。先日、私の家の辺りの地図で、最新のものと昭和16年のものを比較して見ましたが、こちらは、かなり昔に道路整備が行われたようで、結構、異なっていました。

「しばられ地蔵」って、地下鉄「茗荷谷駅」近くの「林泉寺」に安置されていますが、ここのはものすごい数の縄を巻かれていますので、こちらは、信じている人が多いのでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
この企画は、案内人が今でも痕跡が残っている
所を探して案内しているのです。
全体的に云えば、あまり残っていませんね。

今年、茗荷谷の辺に行く計画があるので、
その時には、そこの「縛られ地蔵」をぜひ見たいと思います。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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