鎌倉権五郎景政/日本の神々の話

20160303

私は、鎌倉御霊神社の祭神として参拝した。

(以下、主としてWikipediaによる)
鎌倉景政(かまくらかげまさ/平 景政(たいらのかげまさ))は、平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景正とも書く。

略歴:
父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。

16歳の頃、後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍した景政が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。
鎌倉権五郎景政は、源義家に従い後三年の役に出陣し、目に矢をうけながらも勇敢に戦った。
その矢を抜こうとした三浦為継が、景政の顔に足をかけたため、「足で顔を踏むとは何事か!」と叱責したと伝えられている。
戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。

長治年間(1104年 - 1106年)相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発して、永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。

子の景継は、長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和2年(1182年)2月8日条には、その孫として長江義景の名が記されている。

なお明治28年(1895年)に九代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内 暫』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められている。ただし実在の鎌倉景政からはその名を借りるのみであることは言うまでもない。

*上杉謙信の先祖でもある。
上杉謙信は、もともと長尾景虎という名であったが、小田原北条に追われ落ちてきた上杉憲政の養子となり、上杉の苗字と「関東管領」の職を受け継いだ。
長尾家の故地は、鎌倉駅近くの横浜市栄区長尾台と言う地域にある「長尾城跡」だという。
長尾城もまた、鎌倉権五郎景政が築いた城であり、長尾家は鎌倉権五郎景政の子孫だという。

『絵本写宝袋武者尽』の鎌倉権五郎景政。
目を射られた姿が描かれている。
160303kamakuragon.jpg


私は、2014年9月18日の鎌倉御霊神社・例大祭に出掛け、「湯立神楽」、「面掛け行列」を見た。

その記事を読む


(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは。

矢で射られて片目を失う話って、確か、三国志演義にもありましたね。また、伊達政宗も矢で射られて片目になったと言う話でしたし。

日本の戦国時代の話ですが、戦いで最も死亡率の高い武器の第1位は弓矢だそうですので、死なないまでも、矢で怪我をする人って多かったのでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
私なんか意気地なしだから、
目に矢がささった時点で、泣きわめいて
ショック死でしょうね(笑)

昔の武士には、とんでもない人が
居たものだと思います。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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