狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/北入曽村・南入曽村

20160317

3月8日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。

今回の説明は、塩崎さん、和光さん、横山さん。

まず明治末期の入間村(北入曽、南入曽、水野)付近の地図に色付けして、当時の道路と川を判りやすくしたものを載せておきます。
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北入曽村の新編武蔵風土記稿記事
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コースは、入曽駅⇒入間村100年碑⇒粕谷新道⇒天王山・八雲神社跡⇒常泉寺⇒井戸神さま⇒観音堂・七曲井⇒入間野神社⇒夢地蔵

入曽駅から歩きはじめ、Aコープ入曽店の前にある「入間村100年」碑をみる。

【入間村100年碑】
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旧入間村役場跡
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【粕谷新道】
Aコープ入曽店の前から、踏切を渡って粕谷新道を行く。
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不老川を渡る。
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権現道(寺街道)に出る。
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【天王山・八雲神社跡】
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大きな欅の木と小川家の文久2年(1862)百番観音巡礼供養塔と三面馬頭観音があり。
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町屋街道と飯能街道の分岐点を確認しながら進み、寺子屋をしていたという田口家を過ぎる。
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県道狭山所沢線に出て、常泉寺に。

【常泉寺】
当寺は蔵王山観音院常泉寺といい、宗派は真言宗智山派で、本尊は木造釈迦如来坐像です。本寺は日高市にある聖天院です。創建は不明ですが当寺が所蔵する「当山沿革史考」によれば、天正年間(1573~92)には存在したとあります。その後元禄2年(1689)3月、権大僧都法印教海)が荒廃した当寺を再興拡張したところから中興の祖と仰がれています。またこの時、七曲井から観音堂だけを残して現在地へ移転しました。
正徳2年(1712)8月、権大僧都法印伝海の時に聖天院の末寺になりました。明治18年(1885)の火災により本堂、庫裡、山門などを焼失しましたが、飯能の宝泉寺の本堂を90円で買い受け、明治20年に再建されたといわれています。解体した資材は飯能の小岩井から名栗川・入間川を筏で下り入間川町で陸揚げされたとの言い伝えがあります。
寺宝の木造愛染(あいぜん)明王坐像は獅子冠を戴く6皆の姿をしており、市内では珍しい仏像
です。
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住職さんが本堂の拝観を赦してくれた。
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ご本尊
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豪華な装飾
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胎蔵界曼荼羅
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金剛界曼荼羅
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祖師堂
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境内の石仏です。
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○日待供養塔
 この石仏は文字塔で、庚申日待・弁天日待・大黒日待の3つを1つの石塔に刻んだ珍しい日待
 供養塔。全高181cmで、文政(ぶんせい)3年(1820)に建てられた。
正面に青面金剛を表す種子「ウン」と庚申塔の文字が刻まれているところから、石仏の分類上は庚申塔として扱っています。
右側面に大黒天、左側面に弁財天と北入曽村惣村中、台座正面に大きく日待講中と刻まれてい ることから、北入曽村の日待講の人々が建てたことが分かります。
これらの銘文から見て分かるのは、本来の日待信仰からかけ離れて、庚申の日には庚申日待、 己巳(つちのとみ)の日には弁天日待、甲子(きのえね)の日には大黒日待というように、単な る節目(せちにち)に飲食をともにする親睦のための集団になっていたことです。
古代から太陽と月は信仰の対象とされてきました。日待とは近隣の同信者が特定の日に集まり 一夜を眠らずにこもって明かし、日の出を待って太陽を拝むことです。
市内には庚申日待や弁天日待などの供養塔が数多く建てられていますが、「日待供養」とのみ刻 まれたものは、南入曽の金剛院境内にある元禄6年(1693)の舟形光背地蔵菩薩像ただ1基のみ確 認されている。
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○廻国供養塔
角柱の台座の上に丸彫の半蜘扶坐像の地蔵菩薩を乗せた石仏は全高208cmで、角柱に彫られた銘文から願主の安心(あんじん)という僧侶または行者(ぎょうじや)が、全国66ケ所の霊場に大乗妙典を納経する大願が成就したのを記念して建てられたもの。
常泉寺住職の法印敵慶(しょうけい)の指導で万人講中と北入曽村の講中の人々が協力してお金を出し合い、国家の安穏、万民の安楽、五穀豊穣を願って元文2年(1807)2月に建てたと思 われる廻国供養塔で、納経巡拝供養塔の1種です。
発願主が僧侶や行者なのは廻国供養が多くの日数と労苦を伴い、並々ならぬ信仰心を必要とするためです。造立に当たって村人が金銭的な援助をするのは、人一倍信仰心がありながら廻国
できない村人が供養に参加したいという気持ちの表れといえます。
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常泉寺のすぐ近くに「井戸神さま」があり。

【井戸神さま】
 水天とは水を支配する神で水神(すいじん)ともいいます。水禍の難を除き適度な水の恵みをもたらす神として信仰され、農村では作神、漁村では水難除けと豊漁の神様。
市内には「水神」「水神宮」「水天宮」「水祖神」などの文字を刻むものが13基ある。
ここの水天は高さ32cm、幅30cmの楕円型の小さな自然石に文字を刻んだもので、安政7年(1860)3月に建てられた。
左下の銘文に「井戸組中」とあり、1つの井戸を共同使用している家々が井戸神さまとして祀ったことが分かる。ここから南入曽にかけては水神が2基、井戸神さまとして祀られており、いずれも10軒ぐらいで共有していたようです。
武蔵野台地の北端に位置する入曽や堀兼一帯は古来、堀兼の井や逃げ水の伝説を残すところで、用水はおろか飲料水にも困り水の確保に大変な苦労を要したところで、水野には「逃水」という地名が残っています。
開発に当たっては井戸掘りに非常な技術を要したと同時に水をいかに大切にしたかが、この水天
の井戸神さまからも想像できる。
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【野々宮神社】
 当神社の創建は古記録がないため不明だが、社家の伝承によれば奈良時代の創建と伝えられている。社家は大和朝廷の命をうけて倭姫(やまとひめ)を奉斎し、入間路の警備と七曲井の管理に当たったといわれている。
 本社は伊勢市倭姫宮で、戦前は神宮に列せられており、学問の神様・縁結びの神様。
当神社に伝えられる棟札には建仁2年(1202)3月、天正2年(1574)8月、宝永3年(1706)4月のものがあり、この時期には存在していたことが分る。明治40年(1907)に蔵王神社、八雲神社、愛宕神社、稲荷神社、神明社が合祀され、村社となった。

社号標
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正面の鳥居は伊豆石で出来た明神鳥居で文政10年(1827)6月の銘がある。
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二の鳥居
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手水舎
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社殿
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ご祭神は倭姫命。

西側の入口には天保6年(1835)に建てられた高さが196cmの神明鳥居があり。
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境内社は、蔵王神社、八雲神社、愛宕神社、稲荷神社、神明社があり。
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社殿右側の竹林の中にも境内社あり。
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左側は八雲神社と稲荷神社、右側は不明。
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野々宮神社を出てすぐ、山吹に似た花で、花が大きくふっくらした、良い花が咲いていた。
この記事をいつも読んでくださっている方から花の名前を教えていただきました。(2016.3.21)
「雲南黄梅」だそうです。

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【観音堂】
常泉寺観音堂ですが、古記録はなく創建は不明ですが、常泉寺の「当山沿革史考」によると創建は建 仁2年(1202)と伝えられています。常泉寺は以前この地にありましたが、観音堂だけを残して 元禄2年(1689)に現在地へ移転しました。
当堂の本尊は寄木造りの木造聖観世音菩薩坐像で、昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文 化財・彫刻として指定されています。
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境内の石仏
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○普門晶供養塔
天保14年(1843)に建てられた全高194cm、台座高86cmの普門品供養塔。普門晶供養塔は法華経のうち観世音菩薩普門晶(一般的に観音経といわれるもの)を一定回数唱えたことを記念して建てたもの。
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○橋念仏供養塔
 この浮彫勢至菩薩を主尊とした全高が126cm、台座高は32cmの石仏は橋念仏供養塔。橋供養塔は橋を架けたときに橋の完成を祝うとともに、神仏の加護によってその橋の永続を願い、道や橋を通って村に入り込もうとする悪霊を祓う目的で建てられました。
この橋供養塔に彫られた銘文から、寛保2年(1742)2月に常泉寺の住職である倣慶(しょうけい)の指導で、北入曽村の念仏講と近隣の村の助力により建てられたことが分かります。
観音堂の前の道は昔の鎌倉街道・上道(かみつみち)であり、左側を流れている不老川に架けられた入曽橋の供養塔と思われます。
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【七曲井】
 七曲井は昭和24年(1949)2月22日に埼玉県指定文化財・史跡として指定された。この井戸は武蔵野台地にある古代の井戸で堀兼の井の遺構として価値が高いもの。かってこの地は字掘難井(あざほりかねのい)と呼ばれ、この井戸の状況を良くいい表している。
この井戸の発掘調査は昭和45年(1970)に実施され復元された。
井戸に降りる道筋は、入口が北側にあり、上線部では階段状をなし中央部では稲妻形に曲がり、底近くでは螺旋状(らせんじょう)となっていることが分かりました。その形から名前が七曲井になったといわれている。
「ほりかねの井」を最初に詠んだのは平安時代前期の女流歌人伊勢であり、清少納言の「枕草子」にも全国の著名な井戸の第1位に「ほりかねのい」を挙げています。これらの文献からもこの井戸は、平安時代にはすでに存在していたといえます。
また延長5年(927)に完成した「延書式」によると「諸国の駅路には果物の実る木を植え、旅人に休息の場を与えるとともに、飲み水のないところには井戸をほりなさい」とあります。この七曲井の脇を通る道が古代は入間路、中世は鎌倉街道であったことを考えると、遅くとも9世紀後半から10世紀前半にかけて武蔵国府の手により掘られたと考えられる。
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七曲井水神
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【入間野神社】
 当神社は、建久(けんきゆう)2年(1191)の創建と伝えられています。社伝によると旧号を国井神社、後に御嶽大権現と称した。
徳川家康より天正19年(1591)に社領を賜り、慶安(けいあん)2年(1649)には3代将軍徳川家光より、「金剛院 御嶽権現領」として10石の朱印地を賜った。
明治元年(1868)の神仏分離に伴い御嶽神社と改称し、明治40年(1907)に浅間神社、神明社、天神社、稲荷神社を合祀して入間野神社と再度改称した。

社号標
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狛犬一組と一の鳥居
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狛犬一組と二の鳥居
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三の鳥居
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手水舎
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拝殿
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本殿
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ご祭神は大山祀命と木花耶姫命。
ご神体は天正6年(1578)に造られた全高59cmの石造丸彫りの本地仏である蔵王権現。

境内社の天神社
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「入曽の獅子舞」碑
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入曽の獅子舞は昭和54年(1979)3月27日に埼玉県指定文化財・無形民俗文化財として指定されました。
獅子舞は、25人で構成される勇壮闊達なもので、埼玉県西部地区を代表する獅子舞。
毎年10月第3土曜日・日曜日の両日にわたり金剛院と入間野神社に奉納されます。それは、金剛院が入間野神社の別当寺だったためで、神仏習合の様式を伝える珍しいもの。
1日目には金剛院で揃い獅子が行われ、前狂い、後狂いの全曲が舞われます。
2日目は、午後から金剛院の本堂で式が行われ、それに続いて庭で前狂いが奉納されます。その後、山門から行列をつくり入間野神社へと進み獅子舞の全曲が舞われます。
この獅子舞の起源は分かりませんが、当神社所蔵の獅子舞を描いた奉納絵馬に、宝暦8年(1758)9月当村中の年号があり、その起源は江戸時代中期までさかのぼると推察されます。
天狗の持つ軍配には「風雨和順五穀成就」の文字が書かれており、かっては、豊作と悪疫退散を願って村内を巡行したといわれています。
また日照り続きには、雨乞い祈願で舞ったとの伝承を残しています。

【夢地蔵】
所在地:狭山市南入曽539金剛院中央霊園内
 昔はここから600mほど西の南入曽にあった金剛院大日堂(現在の狭山モータースクール裏)脇の竹林を背にして入曽用水(小川)の傍に立っていました。
昭和40年代に大日堂が取り壊されたので、この地蔵菩薩は金剛院内に安置されていましたが、その後、長野県小諸市の湯ノ瀬温泉(長野新幹線・佐久平駅の北西約5kmの千曲川河畔)に移されました。そして平成11年(1999)4月に里帰りしてここに安置されたものです。
この地蔵菩薩の銘文によると、寛政7年超第正月13日に高倉村(現入間市)の山畑八左衛門(行年77歳)が、西国、坂東、秩父百番巡拝した供養塔として遺族が建てたものです。
八左衛門は「沙弥是三」とあるので僧形で巡拝したものと思われますが、八左衛門と金剛院との関係については分かりません。
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これで、全ての予定を終え、入曽駅近くのレストランで昼食を食べながら、参加者懇談。
解散となりました。

(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

井戸神様ですか。そう言えば、亡くなった父親が、井戸を埋めるときは井戸神様のタタリがあるので、お祓いをしてから行わねばならないと言う話をしていたのを思い出しました。

水関係の名前の神社と言えば、中央区にある「水天宮」が有名ですが、ここは安産の神様としての方が有名ですね。後は、文京区の「椿山荘」の側には「水神社」、東武鉄道「亀戸水神前駅」近くの「亀戸水神宮」があり、前者は神田川のすぐそば、後者は荒川のそばにあるところから考えると、洪水が起こらないように祈る神様なのでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
私の住んでいるところは、入間川のすぐそばなので、
「水天宮」、「水神」、「九頭竜大権現」が
たくさんあります。
かなり暴れていたみたいです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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