堀兼神社

20160326

鎮座地:狭山市大字堀兼2220-1
参拝日:2011年、11月16日、2012年10月11日、2015年10月20日

社号標
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由緒:
当神社は江戸時代まで「浅間宮」と呼ばれていましたが、幕末の慶應4年(1868)から明治元年(1868)の神仏分離令の関係で神社であることを強調するため、明治4年(1871)に「浅間神社」と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。
その後、明治39年(1906)の勅令による神社合祀令によって、近郷の小さな神社が次々と合祀され、明治42年(1909)に「堀兼神社」と再度改められ現在に至っています。
 当神社の創建は社伝によると、日本武尊が蝦夷征伐から帰る途中、この地に立ち寄ったところ、土地の人たちが水不足で大変苦しんでいることを知り、何とか救おうと富士山を遥拝して井戸を掘らせ、漸く水を得ることができました。そこで土地の人たちがそれを記念して、浅間宮をお祀りしたのが始まりといわれています。
 しかし、この辺りは江戸時代の前期に新田が開発されるまで、人が住んだ形跡が全くないそうで、史実としての創建は江戸時代前期の慶安3年(1650)です。
 この地の領主松平伊豆守信綱公が新田開発事業を進めるにあたって、入植者の長寿と子孫繁栄、そして松平家の武運長久を願って家臣の長谷川源左衛門に命じて社殿を建立させました。
 本殿の裏に建立年月日である「慶安三庚寅天五月吉祥日」と建立の趣旨「浅間宮の御加護の下に入植者の長寿と子孫の繁栄を願う処としてお社一屋を建て奉ります」を刻んだ剣先を上にした形の石の棟札が建っています。

正面入り口
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一の鳥居
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この鳥居の横に、嘉永元年(1848)の舗石供養塔があるが、富士講の供養塔となっている。
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手水舎
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鉢は、寛政年間(1789~)のもの。
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二の鳥居
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二の鳥居をくぐると随身門。
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随身門及び二神像
 随身門とは左右に衣冠束帯で武器を携えた神像が安置されている神社の門のことで、神域と俗世界の境界に建てられています。
 この随身門は「単層入母屋造りの八脚門」という建築様式で、柱の間が三間、そのうち出入り口が一戸であるところから、「三間一戸の八脚門」と呼ばれています。
 間口が7m弱、奥行きが4mほどです。いつ頃建てられたかは分っていませんが、幕末の万延元年(1860)に8両2分の費用をかけて神像を塗り替えたという記録があることから、1800年代の前半には建てられていたと考えられています。正式な随身門としての形式を備えた市内唯一の建築物で文化的価値が高く、昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。
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この二神像は随身と呼ばれ、神域を守り祭神が外出するときには護衛として付き従います。
向かって左を矢大臣、右を左大臣といい、正式にはそれぞれ「豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)」「奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)」といいます。「豊」は豊作や多産を、「奇(くし)」はめでたい兆しを意味する言葉です。
『古事記』では、天石門別神(あめのいわとわけがみ)という名で登場。
高天原の宮殿の門を守る神でしたが、天孫降臨の時、天照大神の命令で瓊瓊杵尊に従って降臨しました。
『古語拾遺』では、天照大神が岩戸から新殿に遷座したあと「豊磐間戸命と櫛磐間戸命の二神に殿の門を守衛させた」とあり、「両神は天太玉命の子である」という。
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随身門を抜けると、社殿に上がる石段。
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狛犬は石段の途中と、上がりきった所の二組あり。
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社殿
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主祭神は富士浅間大社から勧請した木花咲耶姫命です。
記紀の神話では、この神は山の神々の元締めである大山祇神の娘で、瓊瓊杵尊の妃でもあります。
また、瓊瓊杵尊に不義を疑われ、身の潔白を証明するために産室に火をかけて三人の神子(みこ)を産んだという気性の激しさが、美しいけれどもいつ噴火するかわからない激しい富士山の神に相応しいということで、富士山を祀る富士浅間大社の祭神になったということです。
富士山はその豊富な伏流水のため、あるいは火と水がつきものということからか水の神としても尊崇され、農業神つまり作神として特に関東地方の農民層に厚く信仰され、したがって明治時代まではどこの村にも浅間宮が祀られていました。
しかし、神社合祀令で多くの浅間神社が郷社や村社に合祀されたことにより、現在ではそれぞれの合祀先で末社、摂社として祀られています。

社殿を廻って背後に行くと、由緒のところで述べた、「剣先を上にした形の石の棟札」がある。
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社殿と瑞垣の間の狭い所に立っているので、刻んだ文字を読むことは難しい。
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幸い、『堀兼神社社格昇進願』という文書に、石の棟札に刻まれている文が載っているので、それを載せておきます。
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社殿が建っているこの小高い丘は富士塚です。
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富士塚は富士山に登れない老人や子供でも、これに登って富士山を拝めば富士山に登ったのと同じご利益があるという信仰から、多くの村々で村人たちが力を合わせて土砂を積み上げて築きました。
特に女性は、富士山に登れるようになったのは明治5年であり、それまでの富士山は女人禁制でした。
この富士塚がいつ築かれかは分かりませんが、江戸後期の文化文政(1804~1830)の頃に刊行された「武蔵野話(むさしやわ)」という本に「堀兼の井戸」の記事が載っており、その挿絵にこの富士塚が描かれていますので、その頃までには築かれていたことになります。
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武蔵野話:
初篇は文化12年(1815)刊、序文によれば鶴磯が所沢に寓居する間、閑をみつけては周辺に足を延ばし、叢の祠や、古い社寺を訪ね、或は旧家に伝わる古器や旧記を見たことを筆書し刊行している。
続編は文政10年(1827)刊、老齢に達していて門人岡部静斎の校訂で上梓となった。
斎藤鶴磯(さいとうかくき):
1752-1828 江戸時代中期-後期の儒者。
宝暦2年生まれ。江戸の人。武蔵(むさし)所沢(埼玉県)にすみ,武蔵野の歴史地理に関する先駆的研究書「武蔵野話」をあらわした。

この辺りは冬の天気の良い日、西の方に富士山を望むことができます。そのため「富士見台」「富士見里」「富士見丘」など、富士の付く字(あざ)があります。興味深いのは、この神社の東4~500mの所に「富士隠(ふじがくれ)」という字があります。この富士塚が視界を遮って本物の富士山が見えないため、富士山が隠れたという奥ゆかしい言い回しで字の名を付けたものと思われます。

現在は富士塚とその周りが深い森になっているため、富士塚の頂上からは樹に視界を遮られていて、残念ながら富士山は見えない。

富士塚の名残を見ていきます。

社殿に向かって右下に境内社がある。

手水舎
鉢は明治3年のもの。
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下浅間神社の石碑と一合目の合目石があり、紛らわしいのだがこの境内社の社殿は日枝神社です。
ずっと下浅間神社だと思っていましたが、この間地元の方に教わりました。
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下浅間神社の石碑と一合目の合目石
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日枝神社社殿の中に、立派な本殿がある。
この日枝神社は、明治40年に大字芳野から合祀されたもの。
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本殿の彫刻が素晴らしい。
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左側面彫刻「温公瓶割り図」
中国、司馬温公が7歳のとき酒瓶の中に落ちた子供を、石を投げて瓶を割り、子供を助けた故事
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裏面彫刻「俵藤太秀郷の物語」
大ムカデを退治した俵藤太秀郷が湖の龍神からつり鐘をもらう物語。
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右側面彫刻「三兄弟の物語/中国二十四孝」
物語は、むかし中国に、田真、田広、田慶の三兄弟がおり、親が亡くなって後、遺産を三つに分けて分配したが、庭にある一本の紫荊樹(はなずおう)も三本に分けて分配しょうと夜間相談し、翌朝三人は、木を切ろうと木のもとに行ったところ、昨日まで栄えていた木が枯れてしまっていた。田真は、これを見て「草木にも心があり別けられるのを知りて枯れてしまったのであろう」と、三兄弟も人間として争い事をすべきでないことを悟り、木は別けずにおいたところ、紫荊樹は、また再び元の如く栄えたという物語である。
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登山路を上がる。
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五合目に小御嶽神社
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石組は富士山の溶岩を使用している。
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萬延元年(1860)に建立された石祠
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頂上
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下に降りて、神楽殿
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境内社に参拝。
参道の右側、神楽殿の近くにあるのを先に。
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「井上稲荷神社」
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三柱が祀られているようですが、わかったのは「牛頭天王」と「疱瘡大神」。
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続いて参道の左側、「堀兼の井」近くにあります。
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「金比羅大権現」と「天満宮」を合祀。
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脇にある説明によると、江戸時代の浅間宮の時代から境内社として天満宮が二社あったようで、もう一つの「天満宮」。
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続いて、境内にまとめて置かれている石仏群。
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寛文9年(1669)の三猿型庚申塔。
このタイプでは、市内で最も古い。
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天保4年(1833)の馬頭観音文字塔。
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安永10年(1781)の自然石に「庚申碑」
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嘉永7年(1854)の出羽三山供養塔
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延宝5年(1677)の三猿型庚申塔。
このタイプでは、市内で二番目に古い。
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ご神木が二本あり。

参道近くにあるご神木。
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堀兼の井近くにあるご神木。
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(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

木花咲耶姫って、姉妹2名で結婚する筈だったのが、姉はブスで帰されたと言う人ですよね。このため、花のように散ってしまうと言うことから、夫の方は永遠の命を授かれなかったと言う。と言うことで、何で木花咲耶姫が富士山の神様と思っていましたが、なるほど、そのようないわれがあったのですか。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
このあたりの話はとても面白いですよね。
天武天皇の指導のもと造られた古事記・日本書紀で、
その天皇の先祖にあたる「邇邇芸命」に、
「それは私の子ではないだろう、不義の子だろう」と
云わせるのですから(笑)
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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