狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/堀兼地区-1(堀金村・中新田・上赤坂村)

20160417

4月12日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明は、井上さん、堀田さん、川田さん。

この日のルートは、入曽駅⇒堀兼神社⇒堀兼、上赤坂ふるさと緑の景観地⇒上赤坂の弁財天と庚申塔⇒堀兼地区の新田開発⇒堀兼公民館⇒光英寺⇒鷹場標示石⇒馬頭観音⇒丸山弁財天⇒新狭山駅

堀兼地区の概要:
堀兼地区は狭山市の南東部に位置し、東三ツ木、加佐志、青柳、中新田、掘兼、上赤坂からなり、面積は狭山市の約24%を占め、その1/3が農地です。
(1)成り立ち
  堀兼地区は昭和29年(1954年)の市制以前は堀兼村と称していました。堀兼村の誕生は明治22年(1989年)4月、前年に公布された市制・町村制に基づいて発足しました。従って、堀兼村の誕生以前は、堀金→堀兼(明治20年以降)、東三ツ木、加佐志、青柳、中新田、上赤坂はそれぞれ独立した村でした。これらの村を大別すると、堀兼、中新田、上赤坂は川越五代城主松平伊豆守信網の開発計画により誕生した新田村であり、東三ツ木、加佐志、青柳の三か村は 江戸時代以前から在った旧村である。
(2)道と川
  この堀兼地区には、堀兼神社の前を通る南北の道は、往古、鎌倉(源頼朝)と信頼関係のあった川越(太郎重頼)および戦いのあった東≡ツ木との閏を、政治・軍事用として利用された鎌倉街道(上道の指道で堀兼道とも称す)があり、一方、乗西の道は江戸時代、入間地区などから中新田や堀兼を通って川越へ向かった商業用の新河岸街道が在ります。

下の地図は明治14年(1881年)測図です。★印の道路は旧鎌倉街道(上道)の脇道(堀兼道)と言われています。鎌倉街道は本来直線道路だと言われていますが、一部曲がっている所があります。何らかの都合で直線部が無<なったのでないかと言われています。往古、この鎌倉街道は鎌倉と川越間の往復や東≡ツ木の合戦時には、鎌倉武士が往来したのでないかと言われています。
・南北:
鎌倉街道★印[上道の脇道一堀兼道(堀兼一加佐志一東三ツ木一川越)、もう一つ東三ツ木一城山砦。
草刈街道●印(青柳一堀兼(草刈橋)一上赤坂)
・東西:
新河岸街道(入間地区一堀兼一中新田一川越)
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下は現在の地図
主な新設道路
・南北:東京狭山線(所沢堀兼狭山線:R126)の新設
・東西:
旧新河岸街道脇の川越入間緑(R8)の新設
東三ツ木一青柳(青下)-川越の直線道路の新設
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また、川は小流であるが、南に不老川、北に不老川に合流する久保川(新編武蔵風土起稿では不老川、川越市史全図では窪川と記載)が流れており、集落は街道や川に沿って形成されている。

堀金村の新編武蔵風土記稿記事
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中新田と上赤坂村の新編武蔵風土記稿記事
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この日は、9:20に入曽駅東口改札前に集合し市内循環バス乗り、堀兼神社に到着。

【堀兼神社】
元浅間神社、明治41年、42年に各村の神社を合祀して堀兼神社となります。境内には稲荷社、牛頭天王社、天満宮、下浅間社が祀られています。石段を上る途中には溶岩があり、右からの登り口には1合目、途中の5合目に小御嶽神社があります。また、境内に富士山登拝した氏子が持ち帰ったと思われるバラモミの切り株があります。
 堀兼道(鎌倉街道枝道) (西武新宿線新所沢駅の南で、鎌倉街道上道本道から狭山市堀兼に向かい堀兼道といわれる枝道が分岐していました。堀兼道は狭山市堀兼神社を越えて三ツ木原の古戦場址の手前で狭山市柏原の城山砦方面に向かう道筋と川越市上戸の河越氏館方面へ向かう道筋に更に分かれていました)
 随身門 (新編武蔵風土記稿によると仁王門―市内唯一の随身門で建立の時期は定かでありません。万延元年《1860》神像を塗り替えたという記録があります。 明治42年神像塗り替え 大正14年草ぶき屋根を銅板葺  向かって左 豊磐間戸命《とよいわまどのみこと》右 奇磐間戸命 《くしいわまどのみこと》)  
境内にある石仏群 (寛文9年の庚申塔  延宝5年の庚申塔  安永10年の庚申塔《文字塔》  嘉永7年の出羽三山供養塔  元文5年の馬頭観音)
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堀兼神社の詳細については、既に記事があります。
その記事を読む


ただ、バラモミについては今回、初めて知りました。
富士山登拝した氏子が持ち帰ったと思われるバラモミの切り株と石碑
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再植樹したバラモミ
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ここには、「堀兼の井」もあるのですが、この日の参加者は既に見ているので省略しました。
データは揃っているので、後日にアップします。

それから、この神社は富士塚の上に設けられた浅間社だったのですが、ここから富士山がよく見えた証しとして、富士の名が付く字名がたくさんあったことでわかります。
傑作なのは、ここの富士塚のために富士山が見えないので「富士隠し」という字名があった。
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【堀兼、上赤坂ふるさと緑の景観地】
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身近な緑が姿を消しつつある中で、この地域が「ふるさと緑の景観地」に指定されました。畑作地帯の中に典型的な武蔵野の雑木林としての景観をとどめています。
ふるさと緑の景観地 (狭山市堀兼・上赤坂ふるさと緑の景観地は、狭山市の南東部にあり、川越市と所沢市の行政界に接する畑作地帯の中にある大規模な平地林です。コナラ、イヌシデ、クヌギ、アカマツ、エゴノキ等から構成される武蔵野の面影を残す雑木林です。この地域の植生は、コナラ群落が大部分を占め、その他はシラカシ等の常緑樹林とコナラ・イヌシデ等の落葉樹林からなる混交林、スギ・ヒノキ群落などとなっています。
鳥類はツバメ、シジュウカラなど、両生類・爬虫類・哺乳類はアマガエル、カナヘビ、アズマモグラ、昆虫類はノコギリクワガタ、サトキマダラヒカゲなどが確認されています。)

東京・狭山線沿いの「アグレッシブ元気村」農産物直売所で休憩 
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また、しばらく林の中を歩く。
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【上赤坂の弁財天と庚申塔】
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上赤坂弁財天:
  旧堀金村と上赤坂村の村境に弁財天と庚申塔が並んで鎮座しています。近くに不老川が流れ、普段は水が乏しいのですが、いったん雨が降り出すと一面水浸しになり、村人は水で苦労したことが多く、水の恵みを受けたく弁財天の石塔をたてたのでしょうか。
弁財天の像容は、8臂と琵琶を弾く2臂が一般的です。しかし、上赤坂の2臂の弁財天は頭に鳥居を載せて宝剣と宝珠はもっていますが、琵琶はもっていません。元禄13年《1700》の造立です。台座には波の上を走る帆掛け船が刻まれています。新河岸川の水運の無事を願ってではないでしょうか。

庚申塔:
元文5年(1740)造立の青面金剛庚申塔で、日月瑞雲があり、一面六臂で、本手は合掌、他の四手は三叉矛・法輪・弓・矢を持ち、一邪鬼を踏み、台座に三猿があり。

【堀兼地区の新田開発】
 堀兼地区のうち堀兼、中新田、上赤坂の畑一面は、今は青々とした野菜畑が広がっていますが、往古はこの一帯宏大な原野で、承応年間から開拓民によって開発された所です。
○新田開発の経緯
 新田開発に毒手したのは慶安2年(1649年)、開発を命じたには松平伊豆守信綱で、信綱が広大な武蔵野の開発を決意したのは、年貢の増収を図ることで、藩の財政を少しでも豊かにすることに有りました。その候補地として堀兼、中新田などの一体が選ばれました。この地の選ばれた理由の-つは、城主松平伊豆守信綱が老中であり、幕府より川越藩の-部として公認されていた為でもあった。信綱は新田の開発を決意すると、この広大な土地開発を担うだけの指導力と経済力のある人を探しました。
 開発総責任者として上奥富村の名主の次男であった志村次郎兵衛を選任し、各地区に開発引受人を選任しました。
堀兼村:南大塚村の宮崎兵石衛門
中新田村:三河国の尾崎三左衛門
上赤坂村:島伊左衛門(辞退)一村田某
こうして承応年間(1652年~1654年)になると、開発予定地には近隣の村々から次男・三男が次々に入植し、本格的に開墾されていきました。
○新田の特徴
新田の特徴は土地区画が整然としている点にありました。入植者が与えられた土地は間口が約20問(約36m)、奥行きが約460闇(830m)前後で、短冊形の長方形でした。面積は3町歩(約3血a)前後でした。
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上赤坂の家並み、屋敷林の景観
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新田開発の名残を留めている長い短冊形の畑を通っていく。
畦畔茶がある。
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不老川を渡る。向うの橋が「草刈り橋」。
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反対側
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長い短冊形の畑を通っていく。
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この辺に「古多摩川」が流れていたという。出てくる石が皆川原石。
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【堀兼公民館】
手洗い休憩
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堀兼の碑
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【光英寺】
 光英寺の沿革については、数度の火災のため古い記録はありませんが、本堂裏にあります開山覚運和尚、中興開山栄俊の墓碑銘には、開山覚運は元禄7年(1694年)に亡くなっており、当寺の過去帳の最も古い年号としては、万治元年 (1658年)の記録があり、万治元年頃から元禄7年の間に創建されたのではないかと思われます。正式名称は堀兼山山王院光英寺で、宗派は真言宗(豊山派)です。
  新編武蔵風土記稿によると、堀兼地区には4つの寺がありましたが青柳地区の来光寺、加佐志地区の寶林寺、堀兼神社境内の心静院が明治初年に廃寺になって、光英寺だけが現存しています。

元護国寺の裏門を移したと伝えられる山門。
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本堂
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山門を入った左側に、立派な宝篋印塔あり。
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狭山の歴史学科石仏・文化財コース第1班(池田守、今野敞輔、山﨑茂、近藤彰男、山瀬和子、田島芳章)がまとめました『狭山市の宝篋印塔』から、この宝篋印塔の説明を転載しておきます。
・山門を潜って、左側の木立の中にある。竹林が三方を囲み雰囲気が良い。
・四メートル近い狭山市域屈指の宝篋印塔。台石を三段に高く積み上げた上に乗る。
・笠四面の隅飾りが大きく外に開く、江戸時代を下った塔の特徴を表わしている。
・上から順に、宝珠・上請花・九輪・請花・伏鉢・露盤・笠石・斗形・塔身・蓮台・返花坐・基礎・蓮台・敷茄子・返花坐・基壇・台坐・台石
・敷茄子に阿吽形獅子の浮き彫りが向かい合い、基壇に蓮の花を浮き彫りしている。しかし天明期造立と比較的新しいのに、塔身の蓮台が壊され、四面銘文が殆ど剥離している。石などで叩き剥がされたのだ。相当高いところにあるので子供の悪戯ではない。そうなると、明治初期の廃仏毀釈ということになるが、その凄まじかったことがあらためて思い知らされる。
・この塔は、硬く丈夫な石を使い全体にわたって彫が良い。造塔時は相当美しかっただろう。残念だが、これも先祖から伝えられた文化である。現代の我々が後代に伝える義務がある。

【鷹場標示石】
光英寺の近くにあり、見ることが出来た。
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尾張徳川家は寛永10年(1633)、将軍より江戸西方の地を鷹場として賜る。
承応元年(1652)、武蔵野を開発して新田とした松平信綱は、堀兼・上赤坂の2村を尾張家鷹場として寄進。
『徳川実記』によると、ほぼ2年に1回の割合で鷹狩りを実施。
享保元年(1716)、八代将軍吉宗により鷹場が再設置(返上は元禄6年=1693)。
翌2年5月、同家は再度江戸西方の地を鷹場として賜る。これを契機に、その範囲を示す標示杭を設置。堀兼村は2本、上赤坂・水野の両村は1本。

【馬頭観音】
  堀兼の集落も上赤坂の集落と同じように、道路に沿って北側に家が並び、その裏は屋敷林になっています。南側は短冊形の畑が並んでいます。堀兼の屋並みを見て、屋敷林の小路に入ると、個々に建立された墓地を見ることが出来ます。この墓地の片隅に狭山市で一番古い馬頭観音{正徳元年(1711年)}があります。

集落の中の曲がり角の、ここにその馬頭観音があった。
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屋敷林の小路から、それぞの墓地に入っていくようになっていて、その墓地にひっそりとあった。
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堀兼中学校の横を通って、新狭山ハイツまで行く。
堀兼中の農場が学校の横にあった。
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【丸山弁財天】
  武蔵野の原の、鎌倉街道のほとりに湧水があり、多くの旅人が渇を癒してよろこばれたのが、丸山の池であるといわれています。北條時頼が関東巡視の際、道に迷って渇を潤したのもこの池で、その時、時頼公が池のそばに弁財天をお祭りしたのがはじまりとされています。 寛政3年(1791)の正月に願主となり、武州青柳村丸山組中が石宮を建立して再興を計り、弁財天の祭典を正月の初巳の日と定めたとされています。
 池の水でお金を洗いますとその年の内にお金が倍額になるとの伝説があり、いつしか参詣する人達に「銭洗いの祭り」と呼ばれるようになって、その後、180年ほど経った明治の初期には、銭洗いの風習はなくなり、崇敬者が池に鯉や緋鯉・亀などを奉納して祈願するようになったとのことです。

新狭山ハイツの中にあり。
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池にはまったく水は無くなっている。
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弁財天
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由来を記した石碑
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以上で、この日の予定は終了。新狭山ハイツからバスで新狭山駅に出て、駅近くのレストランで昼食後、解散しました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

新田、何で短冊型にしたのでしょうね。普通に考えれば、長さ800mもあるものより、例えば、170×170mの正方形にした方が使いやすいと思うのですが。このようにした方が、水利とか、日の当たり方が平等になるとかの意味があったのでしょうか。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
与えられた面積が広大なのは、それだけ荒れた土地で
収穫があまり望めなかったからとか。
短冊型にしたのは、北宋の王安石の新田開発法を参考に
したとありますが、その狙いはあまり理解されていません。
ただ、燃料や肥料確保のため屋敷林も多く
必要としたので、しかも家の位置、屋敷林の位置を揃えさせるのに、
良かったような気がします。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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