日本橋から板橋まで(その二)/中山道

20160422

4月16日に歩いたもので、東大農学部正門の前で、旧白山通りになり、すぐの喫茶店で「ハチ公カレー」を食べながら休憩したあと、また歩き出しました。

花みずきが咲きだしていました。
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しばらく行くと、それぞれ八百屋お七にゆかりのある、右に大円寺があり、左に園乗寺があります。
先に大円寺に入りました。
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大円寺は曹洞宗の寺院。慶長2年(1597年)に神田に創建し、文京区の白山神社にほど近い現在地には慶安2年(1649年)に移転してきた。
幕末の砲術家である高島秋帆(1798-1866年)の墓があり、国指定史跡となっている。境内に八百屋お七由縁のほうろく地蔵がある。

入るとすぐに「ほうろく地蔵」があります。
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当寺は、3500人が亡くなったという天和の大火(1683年)の火元である。この時の八百屋お七についての有名な俗説は、「八百屋の娘のお七は天和の大火で家族と焼け出され、避難先の寺(近くの円乗院や吉祥寺などの説あり)で寺の小姓と恋仲となる。やがて再建された自宅に戻ったお七は、再び火事になれば想い人に会えるかもと自宅に放火し、火刑に処された」という筋立てのもので、歌舞伎や浄瑠璃や浮世絵などの題材となった。ただし、話の粗筋には結構バリエーションがあり、また実際にわかっているのは、お七という娘が放火の罪で処刑されたことだけである。
境内には、八百屋お七を供養するため1719年に建てられたほうろく地蔵がある。この地蔵は、お七のために熱したホウロク(浅い素焼きの土鍋)をかぶって焦熱の苦しみを受けているとのことで、首から上の病気平癒に霊験ありといい、祠の前には願いを記したホウロクが多く納められている。

ほうろく地蔵
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ここの住職さんが絵が達者だそうで、絵馬がどれも味のあるものだ。
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そして、私が踊りあがって喜んだのは、地蔵堂の前に三体もの庚申塔があったのだ。
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延宝3年(1675)造立の、三面に猿を配した三猿庚申塔。
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元文5年(1740)造立の、剣人型青面金剛庚申塔。
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青面金剛像や邪鬼は傷みが激しい。
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台座の三猿は、動きがあって面白い。
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天明4年(1784)造立の、剣人型青面金剛庚申塔。
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青面金剛の像が明確で力強い。
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特にショケラが、腰巻一つなのがはっきりとわかり、「半裸の女人」としては今まで沢山の庚申塔データの中で最高だ。
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境内は、この句碑が語っているように、とても良い感じだ。
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本堂
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高島秋帆の墓にお参りする。
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寛政10年(1798年)、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。
その後、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。
しかし、翌天保13年(1842年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者名は本間弘武で、秋帆は監修)。慶応2年(1866年)、69歳で死去した。

墓地の前には花がさたくさん咲き乱れていた。
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墓石
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花を楽しみながら立ち去った。
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中山道を挟み反対側の園乗寺に向かう。
「浄真寺または於七坂」を下ったところが園乗寺。
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園乗寺入り口にある「お七地蔵」
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本堂
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園乗寺入り口にあった「八百屋お七の墓」の説明。
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お七のお墓は3体並んであり、真ん中の石が処刑された当時に寺の住職が供養のため建てたもので、右側は歌舞伎役者岩井半四郎建立したもの、左側は近所の有志が270回忌の供養に建立したもの。
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ただし、八百屋お七のことを調べたときにWikipediaでは墓のことをこう述べた記事もあった。
円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓である。これがお七の墓とされて、後年に歌舞伎役者の五代目岩井半四郎がお七の墓として墓石を追加している。しかし、矢野公和はこれに疑問を呈している。単なる死罪ですら死体は俵に入れて本所回向院の千住の寮に埋めるに留まるが、その死罪よりも重罪である火刑者が墓に葬られることは許されるはずも無いと矢野は指摘している。仮に家族がこっそり弔うにしても、寺に堂々と墓石を立てることはありえない。また、お七の命日を3月29日とする資料は逆に墓碑を根拠としたものであろうとも指摘されている[1](お七の刑死後数年で発行された天和笑委集ではお七の命日を3月28日としている)。

八百屋お七の墓の横にも庚申塔があるのを発見(嬉)

天明4年(1784)造立の、剣人型青面金剛庚申塔。
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像はちょっと損傷が目立つ。
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邪鬼がいい出来だ。
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園乗寺から中山道に戻り、ちょっと歩くと「白山上」の交差点。
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やはり、好きな白山神社に寄ることにした。
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このお宮は、東京十社巡りで既に参拝している。
その記事を読む


また、このお宮には「白旗桜」という珍しい桜があります。
その記事を読む


この日、手水舎の上の白旗桜に、まだ花が残っていた。
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境内には、鮮やかに咲いたツツジもあった。
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「白山上」の交差点に戻って、歩き出すとすぐに東洋大学の正門。
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迫力ある入り口です。
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気持ち良く歩いていく。
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現在の大きな白山通りと合流。
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「千石」駅の前を通過。
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前方右側に、JR巣鴨駅の建物。やっと巣鴨まで来たぞ!
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JRの陸橋を通過。
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「おばあちゃんの原宿」が近いので、一気に人通りが増える(笑)
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江戸六地蔵の真性寺
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さあ、おばあちゃんの原宿・地蔵通りです。この通りが旧中山道。
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高岩寺・とげぬき地蔵尊
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境内の広場で一休み。
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菜の花に蝶々が。
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本堂
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「洗い観音」
巣鴨とげ抜き地蔵尊といえば、この観音様をタオルでこする光景が必ず放映されます。なんと、とげぬき地蔵は非公開で、これは「洗い観音」だそうです(笑)
御本尊のとげ抜き地蔵尊や、とげ抜き地蔵尊にまつわるお話しよりも、こちらの観音様のほうが有名みたいです。 
檀家の屋根屋喜平次が明暦の大火 ( 1657年 ) で亡くなった妻の供養のために寄進した聖観世音菩薩像は、永年に渡って使われたタワシで顔が磨り減ってしまい、平成四年に二代目の観音様に替わりました。
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洗うためにすごい行列です。
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まだまだ板橋まで歩くわけですが、次の記事とします。

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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

なるほど、旧白山通りには中々、良いお寺があるのですね。白山通りや本郷通りはよく通るのですが、旧白山通りはほとんど通らないので、全く知りませんでした。その内、行ってみたいと思います。また、ボタンの花が咲いていたのですね。

私も長い間、洗い観音がとげ抜き地蔵だと思っていました。それが間違っていたことを知ったのは20年位、前だと思います。この洗い観音、8時半頃に行けば、並んでいる人はほとんどいません。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
旧白山通りは、なかなか楽しかったですね。
それからちょっと入りこんでいっても
良いところがありそうです。
matsumoさんがうらやましいですね。
都内の名所に朝早く行けるのですから。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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