義高ウォーク2016/ガイド・コース誘導

20160519

5月4日(水)に行われた、狭山まちづくりストの会企画の「義高ウォーク2016」に、歴史クラブ地域連携部会から7名がガイドとコース誘導をして支援しました。
その支援状況の写真も載せて紹介したいと思ったのですが、一部の方の写真しか入手できなかったので割愛しました。
ご了承のほど。

「義高ウォーク」は、狭山市駅前から、ほぼ鎌倉街道跡をたどって、嵐山大蔵館跡まで歩こうというもので、全行程を歩くと約27Kmになります。

昨年は、私は一参加者として、毛呂山歴史民俗資料館まで歩きました。
それを読んでいただけると、だいたいのコースの様子がわかっていただけます。

その記事を読む



今年のポスター
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沢山の参加者
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歩き出す前に準備運動
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スタッフは、義高と大姫のイラストのTシャツを着ました。
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歴史クラブから参加したスタッフは、割り当てられた場所で史跡の説明と、コース誘導をするため車で移動しました。私もそうです。
だから各場所での写真は撮れていません。昨年の写真や後日いただいた写真を利用しました。

駅前から「女影古戦場」までのコース
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駅前から歩きだして、最初のポイントは「清水八幡」です。

【清水八幡】
清水冠者源義高は、木曽義仲の嫡子であり、頼朝との和議のため義高は人質として、信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。
父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。
北条政子は義高の靈を慰めるため、この地に壮麗な社殿を建てたそうです。しかし入間川の氾濫により社殿は失われてしまいました。
永享2年(1430)に地元の人たちが神社の由来を刻んだ石祠を造り祭祀を続けていたが、その石祠も行方知れずになっていたところ、今から180年前に赤間川から石祠が発見され、地元の人たちの努力で現在の清水八幡が再建されたものです。

写真は昨年のもの。
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その後入間川を渡り、次のポイントは「影隠し地蔵」

【影隠し地蔵】
ここは、現在「奥州道交差点」と云い、昔から交通の要衝でした。
そこから鎌倉街道は信濃坂を上がりますが、そこにある「陰隠し地蔵」
清水義高が、その陰に隠れて一旦は難を逃れたという。

写真は昨年のもの。
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そこから、智光山公園の前を通り、しばらく歩いていくと、「日光脇往還」との交差点に出ますが、交差点の名前が「鎌倉街道」。(写真は昨年のもの)
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【日光脇往還】
八王子千人同心が日光東照宮の火の番警護を命じられ、八王子と日光東照宮の間を往復した。
狭山市では、根岸の渡しを通っています。(写真は昨年のもの)
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それから、いかにも「切り通し」らしい道を下っていくと、「鎌倉街道上道」碑があり、そこからしばらくあるいていくと「霞野神社」があり、「女影が原古戦場」となります。

【女影が原古戦場】
鎌倉幕府滅亡直後、いわゆる南北朝時代の建武二年(1335) 7月22日、鎌倉を追われ、信濃に潜んでいた鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児・高行が、鎌倉幕府再興のため、足利氏を倒そうと起こした「中先代の乱」で、ここ女影ケ原で高行軍は、尊氏の弟で執権・直義率いる足利軍と相対し、これを打ち破った。その古戦場跡がこの辺りになると言われている。
その時、足利軍は、大将の一人、直義の妻の兄・渋川義李を失うなど手痛い打撃を受け、その後の戦いにも影響を残します。北条高行軍は、この後、鎌倉街道上道であと三度ほど合戦をして打ち破り、ついに鎌倉に入ります。
鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子護良親王(前征夷大将軍)が幽閉されていたが、足利直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させている。

霞野神社を含む一帯が、女影が原古戦場といわれる。
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ここで、飲み物サービスがあり、休憩しながら説明を聞いてもらいました。
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それから、女影交差点を過ぎて、武蔵高萩駅の近くを過ぎると「旭ケ丘」住宅団地になります。
ここは戦前空軍士官学校の飛行場が設置され、戦後は大住宅団地となったため、鎌倉街道はまったくわからなくなってしまった。

旭ケ丘から西大家駅までのコース。
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ここでは、コースを間違いやすい三叉路やY字地点で、コース誘導を実施。

三叉路から正しいコースを気持ち良く歩いていく参加者。
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西大家駅横のコンビニで休憩。
ここでは街道の遺構が小川になっています!
こんな例は他には無いようで、珍しいとのことです。
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西大家駅横から毛呂山町歴史民俗資料館までのコース。
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ここから、コースは森戸橋を渡ってしばらく道なりに進んでいけばいいのですが、毛呂山町「市場」に入るところで、鎌倉街道旧道が残っているので、そこを誘導して、そのあとは参加者と一緒に歩きながら、要所で説明をしました。

【鎌倉街道旧道】
入り口は、雑草が繁茂していて、残念ながら歩ける状態ではない。
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ここは迂回してもらって、歩ける状態の道から歩いてもらった。
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それからしばらく歩いていくと、はっきりと鎌倉街道遺構がわかる場所に出る。

【鎌倉街道遺構】
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18年前に立てた毛呂山町の説明
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この説明のように、当時はこの説明の前が、大木が生えたものすごい藪であり、最初私がここを訪ねたときには、藪の中に無理やり入って行って、遺構らしきところを見たものだ。

それが、私が2011年にここを訪れた時にバッサリと木が切られていて、吃驚したものだ。
そのときの写真。
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現在の状態
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ここから、毛呂山町歴史民俗資料館までのコースは、とても気持ちのいい道で、大好きな道です。
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毛呂山町歴史民俗資料館に到着!!
ホッとしてしまい、写真を撮らなかった(汗)

昨年の写真を載せておきます(笑)
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無事に役目を終え、前庭で持参のお弁当にかぶりつき、団らんしながら休憩しました。
そして、嵐山に向かう参加者を送りだしてから、毛呂山町歴史民俗資料館の展示を見てから、帰途につきました。

(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

おお、ご苦労さまでした! 私はてっきり個人個人、あるいは、グループで歩くのかと思っていたら、そうではなくて、集団と言うか、全員、一緒に歩くのですね。それにしても、27kmですか。集団だと6~7時間、かかりそうですね。10km位ならばともかく、27kmだと結構、大変そうです。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
趣旨が、義高を偲んで歩こうということで、
単なるウォーキングではないので。
ただ、速い遅いの差はいかんともしがたく、
お昼ごろには、4つか5つのグループに分かれて、
だいぶ差が開きました。
27KM歩きとおした方は40名ほどだったようです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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