狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/堀兼地区-2(青柳村)

20160526

5月10日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。

堀兼地区の二回目で、堀兼地区の概要については、前回の記事に載せてあります。

今回の説明は、堀田さん、井上さん、川田さん。

この日のルートは、来光寺跡⇒馬知屋敷跡⇒丸山稲荷神社⇒青柳の馬頭観音⇒せんちゃん地蔵⇒氷川神社(富士塚、庚申塔)⇒青柳集会場⇒青柳下区共同墓地⇒釈迦堂⇒青柳下富士浅間神社⇒弁財天坐像


『新編武蔵風土記稿』における、該当する部分
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明治14年作成の地図
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現在の地図
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新狭山駅南口からバスに乗り、「新屋敷」で下車。
バス停の付近はお茶畑。
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歩き出してすぐ、個人のバラ園に遭遇。素晴らしいです。
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【来光寺跡】
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来光寺由緒:
青柳778に建立されていたが、明治5年廃寺となる。
新義真言宗勝呂大智寺の末寺で、青柳山無量院と写し、恵光和尚が開山した寺と伝えられている。恵光和尚は寛文7年(1667年)に亡<なっている。
 なお 阿弥陀堂、大日堂は来光寺の持ちものでした。また 当寺が廃寺となったため、本尊の阿弥陀如来はじめ境内にあった墓石類は川越市大袋の東陽寺に納められた。来光寺跡は現在民家と畑になっている。

来光寺跡の前の道路は、当時「信者通り」と呼ばれていたそうです。
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【馬知屋敷跡】
所在地:東馬知屋敷、西馬知屋敷
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築城年:不明
城主:馬知木太郎
遺構:久保川沿いに屋敷があったと云われている。

【丸山稲荷神社】
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由緒:創立不詳。
古くから丸山地区の氏神として祀られている。
祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

社号標、鳥居
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社殿が置くに鎮座
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第六天神社と八坂神社が合祀されている。
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中には、やはり三つの社が祀られている。
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【青柳の馬頭観音】
所在地:狭山市青柳226付近
 この馬頭観音は高さ93cm、幅31cm、台座高22cmの一面六臂の浮彫立像で享保14年(1729)3月に建てられたものです。市内では2番目に古いもので、一番古いのは堀兼にある正徳元年(1711)の文字塔です。
 馬頭観音は観音菩薩の変化仏の一つで、六道のうち畜生道にあつて、ここに墜ちた衆生の救済にあたる仏とされています。
 江戸時代に入ると馬は物資の運搬や農耕に欠かせないものとなり、その像容から馬の供養仏として多く建てられるようになるとともに、道しるべの主尊ともなりました。
 市内には地蔵菩薩の204基に次いで、馬頭観音は135基確認されています。
 この馬頭観音には、発菩提と施主に入間郡青柳村丸山奥富氏と刻まれているので、奥富氏が先祖供養のために建てたと思われます。
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 この馬頭観音には特徴が2つあります。
(1)珍らしい文字を刻む
 特徴の1つ目は浮彫像の右斜め上に「うはっきゆう」という珍しい文字が刻んであります。この文字は本来「烏
八臼」と書かれるのですが、ここでは「鳥八旧」となっており、烏ではなく鳥に、臼が旧となっていますが、3つの文字を組み合わせたものです。なお、この3文字の組み合わせ方は数通りあります。
 「うはっきゆう」は室町時代未から江戸時代後期の墓標に見られ、曹洞宗や浄土宗関係の墓地に多いといわれますが、市内にはこの1基しかありません。
 それではこの不思議な文字の意味は何かということで、江戸時代から色々な説がありますが、現在のところ有力なものは久保常晴氏の説だといわれています。
 この説を要約すると「うはっきゆう」は梵字の「たん」を漢字で現したもので、この文字は滅罪(めつざい)成仏また吉祥成就などの意味を表すというもので、ここにある馬頭観音の銘文から考えると、この説が一番近いようです。
 なお入間郡の東部地域(富士見市、ふじみ野市、三芳町)の「うはっきゆう」調査によれば、富士見市の曹洞宗長谷寺には「うはっきゆう」を刻んだ墓碑が65基あるそうです。興味のある方は是非拝観してみて下さい。

「うはっきゆう」の文字
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(2)石 材
 特徴の2つ目は、この馬頭観音が約280年前に建てられ、覆屋(おおいや)が無いのに風化による像の傷みが少ないことです。頭上の馬頭は一部が欠けていますが銘文の彫りはしっかりしています。持物(じもつ)も右上の手に斧、右下の手に弓、左上の手に蓮華を持っているのが確認できます。何故この様に風化が少ないのでしょうか。
 それは江戸城修築時の残り石である伊豆石(いずいし)を使ったからだといわれています。伊豆石は硬く耐火性のある安山岩系の石で、伊豆半島の東海岸を中心に切り出されていました。
 しかし年代的に見て残り石ではないという説があります。
 青柳の馬頭観音が建てられたのは江戸城修築後約90年経っているので、残り石ではなくこれを建てるため新たに石を注文したと思われるというものです。
 丈夫な伊豆石は価格が高く誰でも使えるものではなく、名主級の裕福な家に限られていたと思われます。

「狭山博愛クリニック」でトイレ休憩
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【せんちゃん地蔵】
所在地:狭山市青柳414付近(久保川沿い)
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石橋供養塔(享保14年)。この近<の茶店を営む「せん松」というおじいさんが久保川の草刈をしていたした時にこの地蔵を掘り起こしたことから「せんちゃん地蔵」と呼ばれるようになった。
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傍に立っているのが「一石六地蔵(狭山市内で-基のみ)」
 元はどこに建てられていたのか分かりませんが、せんちやん地蔵の右側にあるのは、像が彫られている部分の高さが52cm、全高は99cmで、1石に6体の地蔵菩薩が刻まれており、正面に4体、右側に1体、左側に1体刻まれている浮彫立像の一石六地蔵です。
 右側に天明3年(1783)発卯(みずのとう)4月吉日建立、左側に武州入間郡青柳村 施主豊泉利左衛門と刻まれ、現当二世安楽と極楽往生を願って建てられたものです。
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【氷川神社】
所在地:狭山市青柳東馬智屋敷475
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氷川神社、境内の富士塚、入り口の庚申塔については、既に記事にしてあります。

その記事を読む


氷川神社の近くに、もう一つ庚申塔があります。
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元禄11年(1698)造立の、合掌型一面六臂青面金剛庚申塔です。
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【青柳集会場】
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   青柳集会場前にある「開祖修徳之碑」によると、三ツ木村を開拓した三ツ木勇石衛門の一子庄石衛門が新屋敷に一家を文禄4年(1595年)創立しており、この頃から開拓が行われたと言われている。
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次の目的地に向かい歩いていると、枝豆が実りはじめていた(笑)
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この辺が、地名「水久保」といい、唯一水田であったところ。
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【青柳下区共同墓地】
青中、青丸、青新地区の墓地は個人の開拓地内にあるが、青下地区は共同墓地です。
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青下地区54家の共同妻地(青柳下区長の岩田家墓地もあり)
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馬頭観音(寛延3年)、念仏供薫塔(正徳4年)
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無縁仏墓地に権大僧都法印際宗、青石塔婆などが安置されている。
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釈迦堂橋を渡って、釈迦堂に向かう。
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【釈迦堂】
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・本尊:釈迦如来立像(石造)。銘文:延宝6年11月28日
・利白和尚が亡<なる時に、故心(出家者)を呼び「自分が亡<なったら、釈迦如来像を彫った墓石に自分の名をつけ一心に祈れば願い事がかなう」と言って亡<なった。
・その100年後安永5年(1776年)百姓安石工門の妻が子供を老母に預けて亡くなった。老婆は困りこの地蔵を-心に祈ったら「墓石近くの井戸の水を乳房に付け、朝夕水を飲めば乳が出る」と言われ、この通りにしたら乳が出た。
これを聞いた人々の参詣者が増え、信者によって堂が建てられ大変賑わった。縁日には見世物小屋が建ら、賭場も開かれたそうです。

「釈迦堂由来記」碑
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釈迦堂を開けていただき、釈迦如来立像(石造)を拝観させていただいた。
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【青柳下富士浅間神社】
所在地:狭山市青柳974
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「築造大願成就」碑の背面記事から、明治13年に20年もの歳月をかけて完成した富士塚です。

上り口脇の石祠
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富士塚頂上の奥の院は、富士山溶岩で覆われている。
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祭神は、木花開耶姫命

富士塚の側面には、色々な石碑あり。
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塚の挟には、弓なりに曲がった自然石を利用した 「富士三十七度大願成就」 の碑や「廿七度大願成就」 の碑があります。これは登山記念として先達らが一定回数の登山を果たしたとき、これを記念して建てられた碑です。
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碑には 「御八海」 と刻まれていますが、①山中湖、②河口湖、③西湖、④精進湖、⑤本栖湖 (以上が富士五
湖)、⑥明見湖、⑦須津湖(浮島湖)、⑧芦ノ湖のことです。
また、碑には「御中道」と刻まれていますが、標高377mの富士山頂上を中心として半径4Kmほどのところから円を描くように一周する道、すなわち、吉田登山道の経ガ岳の麓の五合目あたりから一周する道のことで 「御中道巡り」と称しています。

「胎内元祖日行靑○」碑
「胎内」とは長谷川角行が修行し、そして入寂した富士山麓の人穴のことを指す。
富士塚の構成要素に「お胎内」があり、この碑は「お胎内」に代わるものと思われる。
「日行」は長谷川角行の後継者日行日玥(にちぎょうにちがん)のことと思われる。
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それから元禄5年(1692)造立の、三猿型庚申塔があります。両側の猿が横を向いた変わったかたちをしている。
(写真は以前に撮ったもの)
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【弁財天坐像】
天明5年、下青柳
久保川と村と密接な関係にあったことを示す。
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これで、この日の予定は全て終了。もう南大塚駅に近いので、歩いていき、駅の近くのお寿司屋さんで昼食。懇談して解散しました。

(了)


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コメント

No title

「ウハッキュウ」って言う言葉、初めて聞きましたが、墓に書かれているところをみると、やはり、死者に対する慰めとか、極楽に行くようにとか、ともかく、そう言う意味なのでしょうね。

調べてみると、都区内にあるお寺でも、結構、見かけるようですので、その内、行ってみようと思います。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
本来なら、この字にしても、梵字にしても、
理解できないものは、困ると言うべきなんでしょうけど。
その時代の社会そのものが、例えば農民の上には
問答無用で侍がふんぞり返っているし(笑)
理解できないことだらけなので、理解できないものを
有難がったかもしれないですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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