横須賀「記念館三笠」・走水湾・観音崎・久里浜「ペリー公園・記念館」

20160601

5月11日に、歴史クラブ春季定例見学会で、横須賀から久里浜までを見学して回りました。
コースは、記念館三笠⇒ポートマーケット⇒走水湾・走水神社⇒観音崎公園⇒久里浜ペリー公園・ペリー記念館。

【記念館三笠】
朝7時に狭山市を出発、参加者は45名。観光バスで圏央道、東名高速、横浜横須賀道路を経由して、最初の目的地が記念館三笠。

団体は、1時間のプログラムということで、前半30分はビデオと説明を受けて、後半30分が自由見学。
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戦艦三笠は、大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦として英国で建造。奈良県にある三笠山(若草山)にちなんで命名された。船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。同型艦に敷島、初瀬、朝日。
1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊維を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した。
1923年(大正12年)9月1日関東大震災により破換、同20日廃艦。
保存運動により1925年(大正14年)構須実に記念艦として保存決定。
第2次大戦の終戦後は物資不足などで金属類や甲板木材などが盗まれるなどして荒廃し、その後、進駐軍によりダンスホールや後部主砲塔があった場所にはま水族館が設置された。
現在は、防衛省が所管し神奈川県境須賀市の三笠公園に記念艦として保存され、現存している。
艦級 :敷島型(四番藍)
排水量:15′140トン(常備)
全幅 :23.2m
機関 :15,000馬力
航続距離:10ノットで7,000海里
兵装 :主砲40口径30.5糎連装砲2基4門
対水雷艇砲:40口径7.6糎単装砲20門
魚雷発射管:45糎発射管4門
舷側 :9インチ(229mm)
就役 :1902年3月1日
全長 :131.7m
吃水 :8.3m
最大速力:18ノット
乗員 :860名
副砲 :40口径15.2糎単装砲14門
47ミリ単装砲:16基
装甲 :KC(クルップ)鋼
甲板 :3インチ(76mm)

説明を受けた後、時間が少ないので駆け回った(笑)
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東郷連合艦隊司令長官は、各司令長官、幕僚を従えて参内し、海戦の経過を奏上した。
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日本海海戦の結果、日本は強国ロシアとの講和が成立した。
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秋山真之
日露戦争では、連合艦隊作戦主任参謀。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公。愛読しました。
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秋山真之の手紙
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「三笠艦橋の図」
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戦艦「三笠」
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三笠の艦主飾り
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東郷平八郎
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東郷元帥の自筆書
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27日6時21分、秋山真之の電文
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
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27日13時55分「皇國興廃此ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」とのZ旗が旗艦三笠の艦橋に掲揚された。
Z旗の本来の意味は「もう後が無い」である。
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「旗艦三笠」
バルチック艦隊を目前に敵前大回頭を行い、激しい砲撃を受けながら満を持して一斉砲撃を開始する直前の三笠。
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砲兵
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電信室
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47ミリ単装砲
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長官室
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三笠神社
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上甲板に出ました。船尾側。
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猿島がきれいに見える。
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島内からは縄文時代の土器や弥生時代の土器・人骨が出土し、また日蓮にまつわる伝説が残るなど、古くから人々に親しまれた島である。
幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年(弘化4年)に江戸幕府により国内初の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。実際に本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り、日本では数少ないフランドル積みが見られる。国の史跡に指定されている。
映画『天空の城ラピュタ』を連想させるとして人気を集めており、『仮面ライダー』の撮影ではショッカーの基地があるとされたことでも知られている。
三笠桟橋(三笠公園内)より船で10分。船は、3月〜11月は毎日運航、12月〜2月は土日祝日のみ運航。

黒船騒ぎのときの、川越藩士の日誌を読むと、しきりにこの島が出てくる。
今回は駄目だったが、ぜひ渡りたい所だ。

主砲40口径30.5糎連装砲
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船首に向かう。
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最上艦橋からの眺め
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最上艦橋の伝声管
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操舵室に伝声管が降りている。
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前方主砲
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もう時間が迫り、出口に急ぐ。
時間が、まったく足りなかった。済まないことでした。
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外に出て、改めて全景を。
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昼食・休憩・買い物場所の、すぐ近くの「ポートマーケット」に移動。
風が強い。
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【ポートマーケット】
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ここで、お土産を買い、お弁当を買ってフードコートで食べたり、海軍カレーを食べたりした。

【走水湾】
ポートマーケットから10分ほどバスで走り、「横須賀美術館」の駐車場にバスを置いてもらい、そこから歩いて10分ほどで、「走水神社」に到着。
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走水神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


走水神社境内の見晴台から走水湾が眺められる。
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この日は天気が悪くて、眺望が効かなかったが、下見のときには晴れていたので、対岸の房総半島がこのように良く見えた。
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走水湾は、古代東海道の港であった。
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奈良時代・平安時代は、律令制度(中央政権的な統治制度)によって、日本は、大和・山城・摂津・河内・和泉の「畿内五乱と、東海道・栗山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の「七道」の、「五畿七道(こきしちどう)」という行政区画に分けられていた。
宝亀2年([1)以前の「乗海道」のルートは下記となっていた。(平安遷都:794年)
足柄峠一坂本駅(南足柄市関本)一小田原市高田(足下国府説)一小総駅(小田原市国府津)一箕輪駅(推定地・平塚市域)一平塚市四之宮一某駅(藤沢?)一鎌倉郡衛一業駅(葉山?)一横須賀市走水一上総国(富津崎)
宝亀2年(771)以降は、「下総道」が「中路に準ずる」となり、乗海道・東山道と同等の主要国遵に格上げ。
更に従来東山道に位置づけられていた武蔵国が東海道に編入された。

江戸時代を偲ぶ:旗山台場
走水湾に向かって左袖が、御所ケ崎であり、籏山崎とも呼ばれる。
川越藩は相模国に分領を持っていたため、沿岸警備を担当していた。
異国船来航:
明和8年(1771)にはハンガリーから、安永7年(1778)にロシア船が来航。寛政4年(1792)には、ロシア使節が大黒屋幸太夫を護送して根室に来航、 通商を要求。
文化5年(1808)イギリス軍艦
文政元年(1818)~文政7年(1810) イギリス3回来航、通商を要求。
文化7年(1810)会津藩に相模浦賀辺、白河藩に安房・上総の海防を命じる。川越藩は相模沿岸警備の任を解かれる。
文政3年(1820)川越藩は浦賀奉行助役を命じられる。
(この間、色々なゴタコタがあるが省略)
天保13年(1842)相模国海防を川越藩に、房総の海防を忍藩に命じる。
天保14年(1843)観音崎台場が川越藩に引き渡され、警備の第一陣が川越を出発。
旗山台場は走水湾の、海に向かつて左袖にあたる。
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嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航、川越藩警備につ<。
嘉永6年(1853)川越藩は相模海岸警備を免除、品川第一台場の警備を命じられる。
嘉永7年(1854)ペリーが再び来航。川越藩内から多数の人足が動員さる。以降、川越藩は品川第-、第二、第五台場を警備。
観音崎台場は、その後も第二次大戦終戦まで東京湾警護の要塞として使われた。
現在、「砲台跡」として見られる場所は幾つかあるが、「旗山台場跡」は未だ公開されていないので入れない。
2015年9月に「走水低砲台ガイドツアー(試行)」(25名参加)があったので、数年以内には公開される可能性があると思われる。

【観音崎公園】
走水湾から、バスでほんのちょっと移動すれば「観音崎公園」である。
ここで、東京湾の素晴らしい眺めを楽しんでもらうつもりだったが、あいにくの天気。雨は上がったものの曇天で、ものすごい風。
しかし、あえてしばらく眺めてもらった(汗)

この辺は「たたら浜」です。
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海は風で荒れている。
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晴れていれば、このように船舶とか、対岸の房総半島が見えて、絶景です。
(下見のときの写真)
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この辺にも、色々と史跡がある。再度来訪しなくては。
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【ペリー公園・ペリー記念館】
所在地:神奈川県横須賀市久里浜7-14

浦賀にも、もちろん色々な史跡はあるのだが、大型バスでの旅行となると、まったくバスを停める場所が無くて断念。
浦賀を通り越して、久里浜に移動しました。

黒船来航
 嘉永6年(1853)に浦賀に来航したペリーのアメリカ艦隊は、太平の世にあった日本社会に大きな衝撃を与えた話は有名ですが、実はそれ以前からアメリカ、ロシア、イギリス、オランダ、フランスの船が様々な形で日本近海に現れ、江戸幕府はその対応に苦慮せざるを得なくなりました。
 黒船という通称は16世紀に始まったそうです。当時交易していたポルトガルの貿易船が船体をタールで黒く塗っていたために中国船と区別して呼ばれていたのが、19世紀に入って通称を求めて頻繁に出没するアメリカやイギリスの船も同じように呼ばれるようになったと、物の本に書いてありました。
嘉永6年6月 ペリー 久里浜に上陸
 6月9日、ペリーは浦賀沖に停泊した軍艦4隻の威圧を背景に、米大統領フィルモアからの国書の受け取りを要請しました。幕府は当初、長崎での対応に持ち込もうとしましたが、ペリーの強圧に屈し、浦賀の隣の入り江である久里浜に急設の応接所を設け、浦賀奉行であった戸田氏榮(うじひで)と井上弘道を「日本の最高司令官」としてペリーと会見させ、「日本皇帝(将軍)」宛ての国手を受け取りました。
ペリー側は約400人の完全武装の兵を率いて久里浜に上陸しました。それに対して日本側は500人ないし700人の騎馬組・大砲租・徒歩組・弓矢組で武装していたということです。
 江戸幕府は寛政3年(1791)に、外国船が来航したときの処置方針を定め、全国に通知しました。同4年には沿岸に領地のある諸藩に対して書庸を厳重にするよう命じました。川越藩は相模の国(現神奈川県)に分領を持っていたため、本格的に沿岸書備を担当することになりました。
 松平大和守家の相州領は、前橋藩時代の明和年間(1764一}1772)に1万5千石余あったという記録が残っているそうです。また、天明4年(1784)の藩領の書き上げによると川越藩の相州領は計52か村。この内直接海浜に面していた領地は三浦都と淘綾部におよそ7千300石でありました。
 こうした相州領が松平大和守蒙に引き継がれてきた理由は不明だそうですが、『前橋市史』では寛延2年(1749)に姫路から前橋に入封した松平大和寺家が、旧藩主だった酒井家の所領を引き継いだためと推測しています。相州領を持つ川越藩松平大和守家では、7代目から11代目までの5代に渡り、江戸湾の海防問題に取り組みました。

ペリー公園
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説明板
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ペリー上陸記念碑
ペリーの久里浜上陸後47年を経た1900年(明治33年)10月、かつてペリー艦隊に少尉候補生として乗り込んでいたレスター・ビアズリー(Lester A. Beardslee)退役海軍少将が久里浜を訪れた。47年ぶりに久里浜を訪れたビアズリーは、ペリー来航を記念する事物が全く無いことに落胆した。ビアズリーは米友協会主宰の歓迎会の席などで、ペリー上陸を記念する事物が久里浜に全く無いことを遺憾とする意見を表明した。ビアズリーの意見に感銘した米友協会はさっそくペリー上陸記念碑の建設を決定する。米友協会は久里浜の現地見分や募金の呼びかけなど記念碑の建設に尽力し、碑文の揮毫は伊藤博文に依頼した。
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ペリー記念館
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風見鶏ならぬ、風見「黒船」
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玄関にある、ペリー提督と戸田伊豆守の銅像
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一階ホールに、1853年にやってきた4艘の黒船のジオラマあり。
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旗艦蒸気船「サスケハナ号」
乗組員数300名
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蒸気船「ミシシッピー号」
乗組員数268名
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帆船「サラトガ号」
乗組員数210名
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帆船「プリマス号」
乗組員数210名
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久里浜付近の陸地
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遠く、富士山も見えている。
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二階には、色々なものが展示されている。
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1854年 当初予定されていた浦賀の応接所を描いた絵巻物
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1853年7月14日 ペリー上陸直前を描いた絵巻物
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黒船来航の様子を伝える記録
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瓦版と庶民の目
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ペリーと乗組員たちを描いた絵巻物
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三浦半島の模型
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これで、この日の予定を全て終了。
満足して帰途につきました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

ペリー記念館に行かれたのですね。写真を見た限りでは、結構、好意的な感じですね。

先日、ペリーが書いた文章を読んだのですが、日本人をものすごくバカにしたと言うか、白人特有の優越意識みたいなのが顕著過ぎて、読んでいて腹がたちました。と言っても、日本の方も引き延ばし作戦で、頑張っていましたが。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
白人の、こういう蔑視は仕方ないでしょうね。
当時は・・・・・
いまでもそういう傾向は大いにありますね。
なんとかしたいと思います。
どうしてアメリカに、あんなに尻尾を振るのかな、
と思います。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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