笹井地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・旭町自治会

20160604

5月15日(日)に行われた、旭町自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
歴史クラブから3名がガイドとして参加し、私も1ケ所をガイドしました。今回は他に地域の方でとても歴史に詳しい方を一人お願いしました。
旭町自治会では第三回目の開催となります。
今回のコースは「笹井地区」です。
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バス停「グリーンハイツ」⇒笹井ダム⇒笹井白髭神社⇒北野家⇒日光脇往還と根岸

 狭山市水富地区にある笹井は、市の中央部を西から兼北へ向って流れる入間川の左岸の河岸段丘に開けた場所にあります。
 大別すると、沖積層の低地と洪積層の台地になります。
・低地は入間川の水の恵みを受けた豊穣な土地で、昔より多くの人々が住み、いろいろな文化が芽生え発展しました。
・台地も太古の縄文時代より集落が形成されて人が住みはじめました。
 現在それらが多くの遺跡として残っております。

バス停「グリーンハイツ」から入間川の河原に出て、しばらく河原の道を歩いてた。
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【笹井ダム(堰)】
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外秩父山地を源流(主として名栗渓谷の水)として、東へ向かつて流れる入間川lが飯能市から入間市を抜け狭山市に入つてくる入り口の部分をせき止めて作られた堰です。
 この堰は江戸時代以前に作られたと考えられる水田用水の取水のためのものであります。そして(上流から下流を見て)左岸の笹井村、根岸村、上広瀬村、下広瀬村に用水を送っていたので堰の普請はこれらの村々が共同で行っていたと考えられます。また、右岸では堰を取水口とした赤間川(新河岸川の源)が流れています。笹井ダムと呼ばれる現在の堰は、昭和12年(1937)の災害復興工事として着手し、同14年6月に完成し、下流の広範囲の水田を潤しています。
 しかし、このダムも昭和22年(1947)のカスリン台風でダムの-部が破壊され、流出家屋13戸、倒壊家屋1戸、半壊家屋6戸、床上浸水20戸、床下浸水80戸、流失田畑3.32ヘクタール、冠水田畑69.3ヘクタールという大被害を出しました。そしてさらに追い打ちをかけるように昭和24年(1949)8月31日~9月1日にかけてのキティ台風とそれに続く大洪水のためにわずか数mを残して堤防が決壊しました。そのため、水冨村、柏原村、入間川町、奥富村の水田を潅漑する機能を失いました。
 その後、水富村を中心とする関係町村は笹井ダムの早期復興を願い、その工事の着手を県と国に働きかけました。このエ事は昭和27年4月にようやく完成し、関係町村は苗代づくりを前に安堵の胸をなでおろしたということです。
 今ではダムの周辺は風光が美しく堤には桜も植えられ、魚釣りに訪れる人も多く、水辺に棲む鳥も観察できます。戦後の一時期、西武鉄道が遊園地としてポートを浮かべていたこともあります。ダムのすぐ下には明治の初め頃までは、対岸の入間市黒須とを結ぶ渡船が行なわれ賑わっていました。渡船場跡と言われる所も今では往時を偲ぶのみです。
 ごく最近では、環境に配慮した魚道などの設備が整えられました。

笹井のメタセコイアの化石林・‥笹井堰下
 メタセコイアはスギの仲間ですが、スギが常緑の針兼樹であるのに対して、冬には集を落とす落椚柵です。メタセコイアの化石は昭和16年(1941)、和歌山県下の新生代第4紀の地層からはじめて見つかりました。その後、同種のものが岐阜県や大阪府などからも発見されています。現在、アメリカの西海岸に生息しているセコイアスギ(樹高100m直径10mに成長)と似ているが葉のつき方や球果のつき方が違っていることやアメリカ産のヌマスギとも異なつた特徴を持つことから、学名をメタセコイア、和名をアケボノスギと名づけられました。この種は今から170万年前ぐらいには絶滅したと考えられていました。
 昭和20年(1945)に中国の四川省で森林調査をしていた王戦と言う林務官が、それまで化石としてしか知られていなかった自生のメタセコイアを見つけ「生きている化石」として世界的な話題となりました。
 昭和49年(1974)の8月末、笹井堰下の入間川は大型台風に伴う出水で河原の堆積物が広範囲にわたりえぐり取られ河床が露出しました。この露出したところより樹の大株を見つけたのは、笹井在住の今板隆二・志村直治の両氏です。昭和50年(1975)2月埼玉大学の堀口高吉教授を団長とす尋化石林調査団が様々の調査を行ない多くのことが分かりました。
 メタセコイアについて言えば株の残っているもの18株、株の中心は無いが根だけ残っているもの9株、根の痕跡だけのもの2株で合計29株でした。さらに同じ地層の中からメタセコイアの球果、ハンノキの種子、オオバタグルミの種子、エゴノギの種子などが発見されました。
 しかし、現在では土砂に埋没したり、風化、流出などでほとんど見られません。(1株を掘り出して、広瀬1丁目の今宿遺跡公園に展示してあります。)
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発掘当時の写真
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これは、智光山公園にあるメタセコイア
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笹井で発掘されたアケボノゾウの発掘の説明もありました。
アケボノゾウは、いまから170万年~70万年前に生息していたゾウの仲間です。体高は1.5メートル~1.8メートル、体重は2トン~3トンと推定され、アジア(インド)ゾウより小柄だったといわれていますが、長いキバをもっていました。
 その生息地域は東アジア、インドなどですが、日本が大陸と地続きなっていた時期に、日本へ移住してきたと考えられています。日本では大正4年(1915)に石川県で発見されて以来各地で発掘され、カントウゾウ、スギヤマゾウ、アカシゾウなどと同じ種類のゾウと考えられています。
 アケボノゾウは、入間川流域の6カ所で体化石(たいかせき・体の一部が化石となったもの)が、2カ所で足跡化石が発掘されています。このうち狭山市では、昭和50年(1975)に大臼歯(だいきゅうし)、肩甲骨(けんこうこつ)などが、昭和60年(1985)には肋骨ろっこつ、大腿骨だいたいこつ、肩甲骨など、ほぼ1頭分にあたる58点の化石骨が発掘されました。ほぼ全身の骨格化石の発掘は、狭山市笹井のものが全国で初めてです。

一番上が臼歯
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発掘の写真。
右下の川に足跡の化石があるのがわかる。
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アケボノゾウの化石
これは発掘を行った長瀞の自然博物館にある本物。狭山市博物館には、このレプリカがある。
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足跡の化石
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それから、珍しい「サンドパイプ」を説明者の橋本さんが見せてくださった。
【蛇糞石(じゃふん石・じゃくそ石)】別名サンドパパイプ
アナジャコ、カニなどの巣穴のあとに砂などが入って出来る…生痕化石
鉄を含んでいて、ずっしりと重い。なるほど入間川から良質な砂鉄が採れたという話ですからね。
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【笹井白髭神社】
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 白鬚は旧笹井村の総統守で、集神は猿田彦命(きるたひこのみこと)です。猿田彦命は天孫降臨の神話でその先導役の神と言われています。
 同社の創立は伝承によると、室町時代中期の文明18年(1486)に聖議院門跡の道興准后(どうこうじゆこう)が笹井観音堂を訪れ4、5日逗留したときに、当社を参拝したと言われています(古記録を失っているため創立年代は不明です)。
 笹井は中世以前に開かれた集落(白鬚神社より150mぐらい離れた所に奈良・平安時代の大きな集落跡が発見されています。)であると考えられるので、その創立はかなり古いと考えられます。

白鬚大明神の絵姿
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奏上門の戦火跡
 白鬚神社附近一帯は太平洋戦争中の昭和20年(1945)5月26日米国軍のB29爆撃機による空‡削こ遭い死者13人、被災世帯69戸という大被害を出しました。(今坂柳二著覚書狭山戦災史に詳しい。)
 同社も拝殿と社務所を焼夷弾によって焼失しました。本殿前の奏上門は一部を焦がしただけで類焼を免れました。(このことを土地の古老は神の力のおかげであると言っています。)軒先の木の部分をよく見ると黒色になっている部分があります。これがそのときの名残です。
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笹井豊年足踊り
 笹井豊年足踊り(市指定文化財・昭和52年〔1977〕指定)は笹井囃子の演目の1つで毎年4月と10月の中旬に行われる白鬚神社の祭札に奉納されています。
 この囃子は江戸時代に川越藩主松平信綱の上覧を賜ったことから上覧囃子とも言われています。豊年足踊りは明治初期笹井の桜井藤太郎が苦心を重ねて創作したものです。演者が仰向けになって足を高くあげ、ヒヨットコとオカメの面を着け、さまざまな仕草を演じて見せるものです。近年は遠く海外公演にも出かけています。
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【笹井観音堂】
 滝不動の本尊笹井観音堂は、飛鳥時代に役小角(えんのおづぬ)により開かれたと害われています。二世長岳から二十世長尊の時代にかけて次第に衰微していきましたが、平安時代後期にそれを再興したのが近江の圏域寺(三井寺)の大僧正行尊です。行尊は皇室とも親交のあった高僧で、この地で不動明王を拝謁したが、背負ってきた十一面観音菩薩像を取り出し、堂舎を建てて安置したと害われています。行幸が笹井観音堂二十一世に擬せられ、しかも中興開山とされるのはこうした事情によるためです。また、本尊が不動明王から十一面観音菩薩像になり、観音堂と呼ばれるようになつたのもこの時からであると考えられます。
 笹井観音堂は本山派修験聖議院末二十八院の-つで、中世から江戸時代に当地方にあって多くの山伏を配下に治め絶大な権力を有していたと言われています。(高麗郡、多摩郡、入間郡一帯の行事職であった。)
 笹井観音堂は高祖役小角よりはじまり現在で60世良勝氏となっています。
 また、観音堂の西方にあり薬師如来を本尊とする薬王寺がありました。観音堂の寺務を補佐する執事職を代々務めておりました。現在52世で渋谷操氏となっております。

長い参道の入り口
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昔の写真
長い参道で、現在観音堂の前を横切っている県道も存在しない。
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現在の当主の説明をお聞きすることができた。
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現在の観音堂
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内部
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役小角像
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徳川家康像
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不動明王坐像
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【映画「野菊の墓」のロケ地:北野家】
長い塀に固まれた北野家住宅は作り醤油の家、以前は煉瓦の煙突があつた。映画「野菊の墓」のロケ地として使われました。
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【宗源寺】
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 宗源寺は曹洞宗の寺院で寺伝によると、かつて宗源庵という草庵があり、木造の地蔵菩薩億が安置されていたといわれています。
 開基は江戸時代の笹井村に180石余りの知行地を持っていた旗本土屋昌吉と同じく100石を領していた土屋正久の両人です。開山は宗源寺の本寺である越生町龍穏寺(りゆうおんじ)の16世鶴峰(かくほう)禅師で、開山の年代は文禄…慶長年間(1592~1615)です。
本尊は木造宝冠(ほうかん)釈迦如来坐像です。尊顔は微笑みを浮かべ、わずかに口元から白い歯をのぞかせています。そのため微笑釈迦牢尼仏とか歯仏(しぶつ)といわれています。
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 その他、当寺二世である撫州禅師の木造撫州禅師椅像があります。それは当寺で正保3年(1646)7月に没した龍穏寺20世です。
 木造釈迦如来像はかつての本尊で宗源寺4世の嶺州(ふくしゆう)禅師の時代に寄進されたものといわれています。

撫州菩薩禅師堂
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掲額に「雹難消除」とある。これは当時雹の被害が多かったので、撫州禅師が亡くなるとき、「これからは私が龍となって、雹の被害は無くしてやる」と言い、それ以後票の被害が無くなったとか。
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 また境内には石仏として寛文13年(1673)道立の阿弥陀如来と享保4年(1719)連立の地蔵があります。
江戸時代に笹井村領主であった、旗本の土屋昌吉の養は宗源寺墓所に、土屋正久の基は笹井小学校校庭前の林の中、鳥坂の右手の富士浅間社の脇にあり、笹井地区の平穏と発展を願って静かに眠っています。
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【日光脇往還と根岸】
江戸より日光への道は、五街道の-つである「日光道中」、そして将軍社参の道である「日光御成道」がありました。家康・家光廟が祀られている日光山は幕府や各藩の大名・武士・町人・農民などに厚く尊崇され、多くの人が参詣しています。そのため、上記の街道以外にも日光への道は脇往還・裏街道があったと考えられます。
 ここで言う日光脇往還は、八王子千人同心が日光山火防の任の警備につく際に往来した道です。初めて八王子千人同心が日光山火防の勤番を命ぜられたのは慶安5年(1652)であり幕末の慶応4年(1868)まで続きました。何とこの街道が水富地区の根岸を通っていたのです。
 道順は八王子より拝島、箱根ヶ崎、扇町屋を経て根岸を通り、高萩、坂戸、松山、行田、館林、佐野、栃木、鹿沼、今市を通って日光へ到着しました。
 扇町屋村(入間市扇町屋)は戸数90軒が左右に軒を連ね3、8の日毎に市(いち)がたって賑わっていました。
 根岸村には根岸の渡がありました。(入間市黒須と狭山市根岸を結ぶ渡し)文化9年(1812)には渡船が始まりました。また、水の少ない季節には仮木橋を架けたと言われています。
 根岸は民家33軒が道の左右に軒を並べていましたが市の立つこともない小規模な宿駅で、御用を主体とした人馬や荷物の継ぎ送りが主な任務でした。
そのため問屋(現在の久下雅義宅)が設置され、上りは高萩村へ、下りは扇町屋へ継送されました。
 また、この時代は御用荷物などの継ぎ送りを手伝う人足と、馬を提供する「助郷の制度」もありました。寛文9年(1669)には笹井村と両広瀬村に幕府評定所より根岸村への『助郷の命』が下されました。命じられた村々はかなりの負担になりました。いつの世でもお上からの命令は領民にとってきついものです。

日光脇往還
明光寺門前、久下家の前。
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根岸の渡し
 根岸の渡しは、根岸村(狭山市)と黒須村(入間市)を結ぶ渡しで、中世から交通の要所でした。
 ここは、後北条氏(小田原の北条氏)の時代から北武蔵や上州に通じる道として重要でした。また、江戸時代は八王子から日光へ至る街道(日光脇往還)にあたり、交通の要でした。
 この渡しは、江戸時代後期の文化9年(1812)に高麗郡根岸村の組頭反四郎が渡船の権利を獲得しています。
 渇水の時期は橋を渡し、増水期には渡船を行い、その経費はすべて権利者が負担しました。渡船の運営は根岸村と黒須村で進められ、嘉永・安政・慶応年間まで続きました。
 古文書によれば、嘉永2年(1849)の船賃は、1人12文、人馬20文、橋銭は1人4文、人罵8文でした。しかし、渡船の収益が増加するに従い、権利をめぐる対立が激しくなりました。慶応4年(1868)には、根岸村に加え、上広瀬村・下広瀬村・笹井村が渡船運営に参画し、黒須村との間に訴訟が繰返されました。
 明治時代の未には6尺板を横に渡した長さ10間の木橋が架けられ、すでに船は使用していませんでした。橋を渡るのに人は1人1銭、車は2銭を徴収しましたが根岸と黒須の人は無料でした。
 また、筏(飯能上流で産する西川材を江戸へ運ぶためのもの)が通る時は番人が橋板をあげ賃銭をとっていました。
 大正9年(1920)に豊水橋が完成して木橋は廃止となりました。
 根岸の渡し跡は正確にはわかりませんが、ほぼ現在の豊水橋の所を渡っていたと考えられています。今は、河川改修等により渡し場の痕跡は全く残されていません。付近は、都市化・宅地化が進み入間川の水が静かに流れているのみです。

当日は、明光寺門前で説明し、近くのバス停からバスに乗って帰ったので、根岸の渡し跡には行きませんでした。
写真を載せておきます。
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(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

象の化石、これだけ揃っていれば、大したものですね。博物館等で見る古代象の化石って、大抵、歯だけとかが多いので本当かいな?と言う気分になりますが、これだけ立派に揃っていれば、象と言う感じがします。

メタセコイアの化石も大きくてすごいですね。昭和50年に発掘と言うことですが、この時代っだったら、もっと、きちんとした形で残しても良かったのではと思います。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
歴史史跡の保存の取り組みは、各自治体に寄って
ずいぶんと違いますね。
ちょっと歯がゆいところはありますが、
それだけ、私たちも頑張らねば、と思います。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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