小石川散策(1)

20160612

6月7日(火)に歴史クラブの行事で廻りました。

西武新宿線、山手線、丸ノ内線を経由して「後楽園」駅で降り、スタートしました。
コースは、文京シビックセンター25階展望台⇒源覚寺(こんにゃく閻魔)⇒善光寺坂⇒伝通院⇒昼食・休憩⇒徳川慶喜終焉の地⇒切支丹屋敷跡⇒深光寺(滝沢馬琴墓)⇒林泉寺(縛られ地蔵)⇒小石川植物園⇒茗荷谷駅
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【①文京シビックセンター25階展望台】
文京シビックセンター25階の東・西・北側は、展望ラウンジとして公開されています。展望ラウンジの高さは、地上約105メートル。文京区内にある東京大学、小石川植物園はもとより、東側には東京スカイツリー、西側には新宿副都心と富士山、北側には筑波山等を望む大パノラマが広がります。
また、この階に展望レストラン(椿山荘)があり、リーズナブルで季節にマッチした美味しい料理なので、気に入っています。
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後楽園遊園地ジェットコースターの向こうに東京タワーの先端が見える。(下見のときの写真)
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スカイツリー(下見のときの写真)
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春日通り
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これから行く伝通院の山門と小石川植物園。
この日は天気が悪くて、見通しが悪い。
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足元の小石川後楽園。
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今が見ごろの花菖蒲園には人が多い。
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下見に来た5月18日には、まだ富士山がなんとか見えた。
新宿超高層ビル群の左に、うっすらと見える。
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次の目的地に向かうのに、春日通りを横切るが、そこからの文京シビックセンター。
(下見のときの写真)
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【②源覚寺(こんにゃく閻魔)】
寛永元年(1624年) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された浄土宗の寺。
当寺院の別称にもなっている「こんにゃくえんま像」は、鎌倉時代、運慶派の仏師の作と推定される、像高100.4センチの木造閻魔王坐像である。像内に寛文12年(1672年)の修理銘がある。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのは、以下のような伝説がある。
宝暦年間(1751年-1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたという。以来この閻魔王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。
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閻魔堂
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たしかに、閻魔像の右側の眼が黄色く濁っている。
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毘沙門天(小石川七福神)
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塩地蔵尊
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汎太平洋の鐘
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鐘はサイパンの悲哀を今日も幾多の弾痕として留めます。
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私の富山の義父はもう亡くなりましたが、ホテルニューオータニ本館の設計に携わった人です。戦争中は南方に従軍したそうで、家族には何も語らなかったそうですが、私は近所の人から、「何も食べる者が無くて、飢えて皆座り込んでいた。そこにやってくるトカゲや蝶々が食料だった」と語っていたと聞きました。
骨と皮だけになって帰国したが、身体を壊したので、私が結婚したころはほとんど病院に居た。
家族には、私が聞いたことを話しました。

南洋群島物故者慰霊像
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本堂のご本尊は阿弥陀如来像です。
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【善光寺坂】
ここは、当初予定に無く、伝通院に向かう道筋として通っただけです。
そこにあった説明板を撮って、帰ってから読んで、芭蕉の句碑があったのがわかったので、後日また訪ねたので、それを載せておきます。
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坂の名前の由来である善光寺は省略して、「沢蔵司稲荷・慈眼院」に参拝。
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手水舎
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手水舎の4面の彫刻は素晴らしかった。
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拝殿
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向拝蟇股のところに、漆喰で狐の彫刻は珍しい。
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神紋も「包み抱き稲に宝珠」で珍しい。
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芭蕉句碑
戸田權太夫亭にて「一しぐれ 礫や降て 小石川」
延宝5年(1677年)、芭蕉34歳の時の作。この年に芭蕉は俳諧宗匠として立机したらしい。
戸田権太夫は芭蕉と同郷の伊賀上野の人で、壱岐坂の中程に邸があったそうだ。
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沢蔵司稲荷は、他にもいろいろ良い物があるので、後日記事にします。

沢蔵司の魂が宿っているという椋の老木。
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【③伝通院】
慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は久松俊勝菩提寺の安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。
家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師(慈昌)の言上を受け、伝通院の建立を決めた。慶長13年(1608年)9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧廓山(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。

善光寺坂を上がりきると、伝通院。
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山門
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葵の紋があり。
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山門の前の石柱
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本堂
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本堂内
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ご本尊の阿弥陀如来像
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本堂の向かって右にある「如是我聞」碑
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ここの墓地には、多くの有名人の墓があり。
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於大の方(家康の生母)の墓
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千姫の墓
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藤井紋太夫の墓
この日、見つけられなかったが、水戸光圀の重大な関係者ということで、あきらめられず後日再訪してお参りした。

藤井紋太夫は、旗本荒尾家の4男として生まれ、その明晰さを惜しまれてのことだろう、伯母である水戸家の老女藤井の養子となる。
14才のときに、水戸家書楼で働いていたとき、光圀が何気なくつぶやいた「それにしても師が欲しい」に、滅びた明国からの亡命者を雇ったら、と進言する。
のちに朱瞬水を光圀の師として迎えるきっかけとなり、紋太夫は光圀にその明晰さから重用され、水戸家家老にまでなる。
しかし、その紋太夫が主君光圀に刺殺されるのである。
光圀が隠居してから、江戸城ほかで何やら変事があり光圀が調べると、水戸家三代目藩主は光圀の兄の子を養子に迎えたのだが、(光圀にはちゃんと子が居て、そのことについても大きなドラマがある)、その藩主を将軍にしようという企みがあった。
光圀が紋太夫に詰問すると、光圀の勤王思想を信奉するあまり、それをつき進めて、水戸藩主を将軍に据えてのち「大政奉還」をするのだ、と考えていることがわかった。
それでやむなく、光圀は紋太夫を自分の手で刺殺したのである。

前回に懲りて、戒名をもとに探した結果、無縁仏が集められた一角にて探しあてることが出来た。
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清河八郎の墓
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佐藤春夫の墓
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柴田錬三郎の墓も分かりにくかった。
最初「柴田」で探したが、わからないので、戒名で探したら、卒塔婆に書かれていて、ようやくわかった。
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斎藤家之墓となっている。
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画家橋本明治の墓
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これで墓参は終り、「お休み處」で休憩しようと寄ったら、「お大の方の像」と「徳川家康産着の鎧」が置いてあった。
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このあと、伝通院門前のレストランで昼食。
休憩してから、午後の部となりますが、続きは次回記事とします。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

行かれた経路だと、「小石川七福神」の8ヶ所の内、半分はカバーできる感じですね。すなわち、源覚寺、伝通院の前の福聚院、深光寺、深光寺のすぐそばの徳雲寺ですが。

そう言えば、夏には伝通院で朝顔市が、そして、そこから源覚寺までの一帯で、それに伴う地域祭りが開かれます。昨年、一昨年は琵琶の弾き語りもありましたし。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
文京朝顔市・ほおづき市、知りませんでした。
今年も琵琶の演奏があるなら、ぜひとも
行きたいと思います。
7月後半みたいですね。
注意して見ています。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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