小石川散策(2)

20160613

6月7日(火)に歴史クラブの行事で廻りました。
前回の記事で、文京シビックセンター25階展望台⇒源覚寺(こんにゃく閻魔)⇒善光寺坂⇒伝通院まで述べて、それから昼食・休憩をした後の分です。
徳川慶喜終焉の地⇒切支丹屋敷跡⇒深光寺(滝沢馬琴墓)⇒林泉寺(縛られ地蔵)⇒小石川植物園までが残りのコースとなります。

春日通りを横切って、「安藤坂」を下って安藤坂交差点で「巻石通り」を行きます。金冨小学校の前を通りこしたら、右手に「新坂」があり、それを上がりきったところが「徳川慶喜終焉の地」です。

新坂
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【④徳川慶喜終焉の地】
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徳川幕府最後の将軍 徳川慶喜(1837~1913)は、水戸徳川藩主斉昭の七男として、小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。
一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍に就任。翌年、大政を奉還したが、鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後、恭順の意を表し、水戸にて謹慎の後、駿府に隠棲した。明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901)この地に移り住んだ。
慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。
説明板とイチョウの大木がある。
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すぐ横が谷になっていて、丸ノ内線が走っている。
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また「巻石通り」に戻り、称名寺の手前の「荒木坂」を上がる。
荒木坂の途中の説明板で、神田上水の開渠の部分に水質を保つため蓋をしたが、その石蓋を「巻石」と言うと知った。
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これは嘉永7年の「東都小石川繪図」だが、「アラキザカ」、これから訪ねる「キリシタンザカ」、「深光寺」、「林泉寺(シハラレ地蔵)」がわかる。
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【⑤切支丹屋敷跡】
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島原の乱(1637~1638)の5年後、イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に漂着、すぐに江戸送りとなり伝馬町の牢に入れられた。その後、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建て収容したのが切支丹屋敷の起こりである。
寛政4年(1792)の宗門改役の廃止まで続き、鎖国禁教政策の下で、宣教師や信者を収容した。
宝永5年(1708)イタリアの宣教師ヨハン・シドッチが屋久島に渡来し、切支丹屋敷に入れられた。
徳川6代将軍家宣に仕えた新井白石はシドッチを尋問し、『西洋紀聞』にまとめられた。
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蛙坂
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この坂を下りきると、丸ノ内線の高架下。
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そこから「茗荷坂」を上がりかけ、拓殖大学の門の向かいに深光寺がある。

【⑥深光寺(滝沢馬琴の墓)】
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急坂を上り切った本堂の左手前に、馬琴の墓がある。馬琴は江戸後期の戯作者で、超大作『南総里見八犬伝』で名高い。強情で偏執的な性格が補いしてか人に仕えては失敗し、寡婦お百に婿入りして戯作に打ちこんだ。晩年は失明したが、息子の嫁お路に代筆させて、28年がかりで『八犬伝』106冊を完成させた。享年82歳。

本堂
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滝沢馬琴の墓
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そこからほんのちょっと上がったところが林泉寺だが、全面改装中でまったく中に入れず、下見のときにあきらめて帰りかけたら、近所の人が教えてくれた。
縛られ地蔵だけ、脇のほうから参拝できるようになっていた。
しかし入り口には何も表示が無いので、初めて来た人は見つけることが出来ないと思う。

【⑦林泉寺(縛られ地蔵)】
しばり地蔵ともいわれている地蔵は伊藤半兵衛長光が両親の供養のために寄進した物であり、33世林泉寺住職江田和雄和尚によると「寺社奉行が町民の不満対策のために地蔵を縛らせることで解消させようとした」と推測している。願掛けのために地蔵を縛り、願いが叶ったらほどくと言われていると『江戸砂子』に書かれている。
「大岡政談」の話にある「縛られ地蔵」は、現在の葛飾区東水元「南蔵院」にあり、これとは別。
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ここから丸ノ内線の高架下まで戻り、「藤坂」を上がると春日通り。
そこから、気持ちのいい桜並木の坂「播磨坂」を下る。
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【⑧小石川植物園】
元々は東京大学が開設した施設ではなく、江戸幕府によって開園された小石川御薬園であった。幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である。その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが「小石川養生所」であり、 山本周五郎の連作短編小説『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督作品の『赤ひげ』は、養生所を舞台とした医師の物語である。
のちに、養生所は江戸時代の七分積金をもとにした東京市養育院の設立(明治5年)につながった。なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として享保20年に甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行った所としても有名である。
その後、明治期に入り、東京大学が1877年に開設されると、同大学理科大学(現・理学部)の附属施設となり、広く一般植物などを多種揃えた植物学の研究施設として生まれ変わった。
同時に、一般にも公開されるようになった。
1897年には本郷キャンパスにあった植物学教室が小石川植物園内に移転し、講義棟も建設され、植物学に関する講義も行われることになった(1934年に植物学教室は本郷に再移転)。
1998年より、現在のように大学院理学系研究科の附属施設となった。理学部→理学系研究科の附属施設ということもあり、毎年5月に理学系研究科・理学部の学生・教職員交歓会が開催されている。

案内図
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本部建物
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ソメイヨシノ林
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カエデ並木
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精子発見したイチョウ
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傍のアジサイが咲き出していた。
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旧養生所に関しては、井戸が残っている。
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ハナショウブ
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旧東京医学校本館建物が見えるところまできた。
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ここで、私の好きな泉鏡花著「外科室」より、ここが登場する場面を紹介しておこう。
 数ふれば、はや九年前なり。高峰が其頃は未だ醫科大学に学生なりし砌(みぎり)なりき。一日予は渠とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅の花盛なりし。渠とともに手を携へ、芳草の間を出づ、入りつ、園内の公園なる池を巡りて、咲揃ひたる藤を見つ。
 歩を転じて彼處なる躑躅の丘に上らむとて、池に添ひつつ歩める時、彼方より来りたる、一群の観客あり。
・・・・・・・
中なる三人の婦人等は、一様に探張の涼傘(ひがさ)を指翳して、裾捌の音最冴(いとさや)かに、するすると練来れる、ト行違ひざま高峰は、思はず後を見返りたり。
「見たか。」
高峰は頷きぬ。「むゝ。」
かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されど唯赤かりしのみ。
・・・・・・・・
高峰はさも感じたる面色にて、「あゝ、眞の美の人を動かすことあの通りさ、君はお手のものだ、勉強し給へ。」
 予は畫師たるが故に動かされぬ。
行くこと数百歩、彼の樟(くすのき)の大樹の鬱蒼たる木の下蔭の、梢薄暗きあたりを行く藤色の衣の端を遠くよりちらとぞ見たる。

旧東京医学校本館建物は実に美しい。
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鳥ものんびりしている。
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次郎稲荷
小石川植物園のうちには太郎稲荷と次郎稲荷が祀られている。江戸時代からあった稲荷らしい。麻布の薬園をこの地に移した時、薬園内の稲荷も移しているので、どちらかが該当する可能性がある。江戸には数多くの稲荷があり、人々のありとあらゆる願いを引き受けていたが、養生所から下りて来る鍋割坂、通称・病人坂の近くに位置している太郎稲荷は、養生所には必要不可欠な存在であったろう。一方、次郎稲荷の方は、湧水地と思われる場所に置かれているので、湧水を守るために祀ったのかも知れない(湧水地に稲荷を祀った事例もある)。
また、御薬園は二つに分けて管理していたので、各々の区画に稲荷を祀ったとしてもおかしくはない。或は、御殿跡地の低地に幾つかの屋敷があった時期があり、屋敷稲荷として祀られた稲荷が、たまたま2社残った事も考えられるそうである。

時間の関係で、太郎稲荷には寄れなくて、次郎稲荷にだけお参りした。
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狐がずいぶんと怖い(笑)
狼みたいな感じだ。
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社殿と、その左にちゃんと狐穴がある。
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ツュンベリーの松
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関東大震災記念碑
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さきほどの「外科室」に登場している、「樟(くすのき)の大樹」
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これで、この日の予定を全て終了。
ここから、また播磨坂を上がって春日通りに出て、「茗荷谷」駅から帰宅した。

(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

林泉寺、工事中でしたか! でも、縛られ地蔵のみでも拝むことができて良かったですね。播磨坂は毎年、桜まつりが行われるのですが、その時は行ったことがありません。でも、播磨坂と言えば、私にとっては、大きなマンションの脇にある「極楽水」(弁財天)、そして、そのそばにある「宗慶寺」(壽老人)ですね。

小石川植物園にも行かれたのですね。以前は、今頃はここに花菖蒲の撮影に行っていたのですが、期待したより咲いていない感じですね。なお、植物園の出入口からだと、白山駅に行かれれば(15分位)、白山神社も行かれたのではと思いました。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
やはり七福神好きなmatsumoさんらしいですね(笑)
私は、まだ小石川七福神を廻っていないので、
そのうち回ります。
小石川植物園以上回れない時間だったのと、
白山駅ではなく茗荷谷から池袋に出たほうが、
帰途の乗り換えが一回少なくて済むからでした。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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