広瀬・根岸地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・鵜ノ木第七自治会

20160618

5月29日(日)に行われた、鵜ノ木第七自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
今回のコースは「広瀬・根岸地区」です。
コースは、本富士見橋(入間馬車鉄道)⇒本富士見橋⇒富士見橋架設記念碑⇒日暮らしの馬頭さん⇒廣瀬神社⇒入間馬車鉄道広瀬停車場⇒信立寺⇒広瀬浅間神社⇒清水宗徳の墓⇒明光寺⇒日光脇往還⇒根岸の渡し跡

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【本富士見橋(入間馬車鉄道)】
入間馬車鉄道は、埼玉県入間郡入間川町(項在の狭山刊と入間郡飯能町(現在の飯能市)を結んでいた馬車鉄道で、明治34(1901)年5月~大正6(1917)年12月までの16年間、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の開通前、鉄道の存在しなかつた飯能地区と、南北に伸びる川越鉄道(現在の西武新宿線)とを連絡する鉄道系交通幾関として重要な役割を果たしました。
(概要)
川越鉄道の入間川駅(現狭山市駅)の西口から北麓を回り込むように新たに鉄道用に造られた馬車新道(現在の狭山市駅から市民会館へ向かう道路の七夕通りの交差点まで)を走ったのち、入間川町の中心街(ほぼ三百戸の街並み)を経て、入間川を本富士見僑付近で渡り、水富村(項在の広瀬・根岸・笹井地区)をひたすら西進して飯能町の中心部に至っていました。
(停車場などの路線データ)
 全線で13の停車場がありました。停車場の位置は公表れた正確な記録が残っていないが、当時の経営者家族、株主、付近の古老など百人近い人々から聞取り調査した結果、ほぼ確定しています。
 入間川駅発着所-菅原一諏訪下-河原宿-広瀬-根岸-笹井-八木(はちぎ)-野田-岩沢一双栁-前田-飯能発着所。
(入間馬車鉄道の歴史)
当馬車鉄道敷設の契機になったのは、明治28年に開通した川越鉄道です。鉄道路線がなかった埼玉県西部地域が、この開通でようやく鉄道の恩恵を受けることが期待されました。しかし、同鉄道は南北に伸びる路線であり、直接的に恩恵を受けるのは所沢・入間川町・川越町などに限られた地域のみで、同鉄道の路線から大きく外れた飯能町方面からは、昔ながらの馬・馬車・大八車、数少ない人力車をもつて旅客や貨物を運ぶしかありませんでした。そこで川越鉄道を補助する東西の路線として、入間川駅を起点とする馬車鉄道が計画されたのです。入間馬車鉄道(株)はこのような期待のもと株主約2百名、資本金6万円(現在価値=2億4千3百万円)で発足しました。
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【本富士見橋】
「富士見橋架設記念碑」 
広瀬側本富士見橋たもと

刻文:
文化の進展は交通の利便に待つこと甚だ多く 交通の利便は橋梁の完備に関わること極めて大なり。然るに往年入間川飯能道は完全なる橋梁なく入間の奔流に交通を遮断させらるること屡(しばし)なりき。上広瀬の人清水宗徳氏夙(つと) に之を憂い明治八年官許を得て徴料広瀬渡船橋を榮し後 同族下邑登代作氏之に代わりて来往の便を謀りしが入間川水富の両町民は尚交通の安恒と利便とを期し渡津の利権を購(あがな) ひ大正九年十一月無賃渡船橋に改せり。柳本橋の堅否は地方の発達に甚大なる関係あるを以て同十一年十二月通常県会に於いて懸費架橋の議決を可決せり。乃(すなわ)ち本年三月工を起し八月成を告げ名つけて富士見橋と日(いう)。長さ八十四間幅弐間、工費に弐萬餘円を算す。
鳴呼、橋梁既に完し交通の便備わりき。今より後文化の進展に新生面を開かんことを必せり。茲に沿革を略叙し以て後昆に告ぐと云ふ。
大正十二年十一月県会議員 岡野近三撰
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【日暮らしの馬頭さん】
所在地:狭山市広頼1丁目1番付近
造立:文政13年(1830年)
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 元は旧上広瀬交差点近く(ヤオコー交差点の団子屋のところ)にありましたが、県道の拡幅で現在地へ移転しました。伝説にこんな話が伝わつています。
昔、下広瀬の街道脇に立派な馬頭醗世音の石碑が立っていました。ある日の事、石碑の前に一人の旅人が立ち止まり、「う-む、これは素晴らしい。なんとも見事な文字じゃ。実にうまい」としきりに感心し、とうとう座り込んでしまいました。通りがかった人たちも「云われてみると素晴らしい文字じや」と口々に云いながら眺めておりました。そのうちにお天道さまも西に傾き、やがて-番星が輝き始めました。それでも人々はあきずに文字を見続 けました。文字が立派でいくら見ていてもあきないことから、誰云うとなく「日暮しの馬頭さん」と云われるようになったとのことです。
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【廣瀬神社】
鎮座地:狭山市広瀬2丁目23番1号
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廣瀬神社は、延長5年(927)の延書式神名帳に記載されている神社であり、国が公認し、幣帛を奉った格式のある神社。武蔵の国には44座、入間郡には5座あるが狭山市には当社のみである。

廣瀬神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


県指定文化財である、樹齢800年の大欅
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拝殿
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【入間馬車鉄道広瀬停車場】
廣瀬神社入り口付近
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【信立寺】
所在地:狭山市広瀬3丁目5番1号

 信立寺は日蓮宗の寺院で、本尊は一塔両尊四士四天王(いっとうりゆうそんしししてんのう)立像です。
一塔とは本堂にある宝塔のことで、両尊は釈迦如来坐像と多宝如来坐像、四士は法華経に説かれている無辺行・上行・浄行・安立行の各菩薩、四天王は持国天・広目天・毘沙門天・増長天の各立像です。
創建は天正18(1590)年ごろといわれ、開山は池上本門寺12世買主の目性(にっせい)上人、開基は当地方を領有していた加治家信です。寺宝の-つに軸装された日蓮上人真筆がありますが、これは家信が文禄年間(1592~96)に寄進したものです。家信は慶長17(1612)年に亡くなりましたが、その墓石とされる五輪塔が同寺に隣接する墓地にあります。なお、同寺の本堂は享保15(1730)年に再建されたもので、市内の寺院ではもっとも古い建物の一つです。

入り口
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山門
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本堂
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本堂内の祭壇
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本堂の左に鬼子母神堂あり。
鬼子母神は、法華経の守護神とされるため日蓮宗の寺院に祀られることが多い神で、安産や子育ての神としても信仰されています。
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お堂内部
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墓地に入っていくと、加治左馬之助家信の供養塔あり。
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加治氏(かじし)は、武蔵国高麗郡加治(現在の埼玉県飯能市)付近から秩父にかけて活動していた武蔵七党の丹党に属する豪族。

鐘楼
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 梵鐘は大東亜戦争の際、鋳つぶされてしまいましたが「此地往古ヨリ兵乱屡々アリテ幾多屍ヲ埋ムル処=テ‥・天正六年如月吉辰当国領主加治左馬之肋丹治家信公発願当寺ヲ創建シ‥・惺聖人ヲ聘シテ開山トシ惺安山信立寺卜号ス 正徳四年四月‥・佐野ノ名匠藤原家治ノ鋳セル梵鐘ハ花震月夕哺風吼霜永年近郷一円ニ妙音ヲ伝へ来レルモ昭和十九年大東亜戦争ニ際シ末曽有ノ国難ニ殉ジテ遂ニ姿ヲ失フニ至レリ‥・」と記されてあり、かっての梵鐘の再現に先代が拘ったものと思われます。家長が開基の発端となった戦乱とは北条氏政が上杉謙信に小田原城を包囲された後、謙信や武田信玄にも奪われた関東北部の失地回復に動いた時の戦乱ではないかと想像されます。

【広瀬浅間神社】
所在地:狭山市上広瀬983-2

脇から上る
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正面
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庚申堂の前で説明
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富士信仰について:
富士山は霊山として、噴火を神の怒りとして捉え、噴火を鎮めるために古く奈良・平安の時代から崇められてきました、江戸時代になると長谷川角行東覚により富士信仰の基礎が確立されました、享保年間(1716-36)に食行身録(じきぎょうみろく)と呼ばれた伊東伊兵衛の活躍により、江戸を中心とした関東一円に同信者の集団である富士講が組織されました。
富士倍抑の拠点富士塚:
富士山を模した塚を各地に築いて(初めは江戸高田)信仰の拠点としました。
ここにある広瀬浅間神社は上広瀬、下広瀬の富士講-丸ろ講の人々によって万延元年(1860)7月に隣接の愛宕神社の境内社として、安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して創建されました。
河岸段丘を利用して上り口に石造の鳥居があり、急斜面の道の両側には1合目から9合目までの丁石(ちよういし)をはじめ5台目の小御嶽大神、8合目の角行・食行の碑やいくつかの神社の石碑があり、頂上に「富士浅間宮」の石碑が建てられています。
ご祭神は木花咲開耶姫、彦火火見尊、大山大山祇之尊の三神です。
富士講の目的
塚の頂から富士山を望む遥拝所としての役割を担っています、地域の老人や女子にとっては、この塚に登れば富士登拝(とうはい)と同様の御利益が得られる有り難い場所でした。

山頂
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広瀬浅間神社については、既に詳しく載せた記事があります。

広瀬浅間神社の記事を読む


平成9年に(1997)狭山市指定文化財に(無形民陰対ヒ財)に指定されている、広瀬の火祭りは明治時代初期(1867)から始まりました、山梨県富士吉田市に鎮座する北口本宮富士浅間弼土の火祭り(8/26~27)を模倣したもので毎年8月21日に丸ろ講により行われます(富士山の山開きは7/1~8/未)。  

広瀬の火祭りについては、記事があります。

広瀬の火祭りの記事を読む



【清水宗徳の墓】
所在地:狭山市上広瀬の霞が丘墓地
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大変に高く(369cm)、大きい墓石で「前代議土清水宗徳の墓」と刻まれています。また、墓石の下には2本のレーノが敷かれています。
清水宗徳は狭山市が生んだ大人物で明治の先覚者であり、いまだに宗徳を超える人物は狭山市では出ていないと云われております。
清水宗徳は天保14年(1843)に当地、上広瀬の名主の長男として誕生しました。埼玉県が生んだ明治の大実業家である渋沢栄-が天保11年(1840)の生まれですので、渋沢栄-と同時代の人であり栄一の影響を受けたとも云われています。ペリーが黒船で浦賀に来航したのが嘉永6年(1853)ですので、栄「が10才の
時であり、1868年の明治維新を25才で迎えたわけです。
宗徳も最初は家督を継いで名主をしておりましたが、明治12年(1879)に第1回埼玉県県議会議員に選出され、次いで明治23年(1890)には第1回衆議院議員に埼玉2区で当選いたしました。
政治家としての宗徳は自由党に属し、地租徴収期限の改正等で活躍いたしました。
次に特筆すべき地域産業の発展、狭山市及びその周辺の近代化に尽くした実業家としての宗徳です。まず、狭山の地が桑の栽培に適しているとのことから、村有の荒れ地に桑の栽培を奨励し、養蚕の振興に寄与し、県内最初の機会製糸工場である暢業社を明治9年(1876)に創設し、その品質屈指との評判を得、経営的にも大変な好業績を残しました。また、当地域特産物である斜子織の改良に努め、斜子織の同業組合である「廣瀬組」を結成、製品の粗製乱造を防止し、廣瀬料子を全国的に広めました。そして斜子織はシカコで開催された世界博覧会で名誉賞を受けるほどになりました。
そして最大の功績は交通機関の敷設と思います。川越から所沢を経て国分寺を結ぶ鉄道である川越鉄道(現西武国分寺線)を開設し、更に、飯能、青梅方面と川越鉄道を接続させるべく道路にレールを敷いて馬車を走らせる馬車鉄道会社を設立して第2代社長として経営改善に貢献しました。墓石の下の2本のレールはその業績を讃え、馬車鉄道に使用されたレールを記念として敷いたものです。

墓石
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馬車鉄道のレール
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それから、水富公民館でトイレ休憩をしてから、明光寺に向かった。

【明光寺】
所在地:狭山市根岸2丁目5-1
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  明光寺は真言宗智山派の寺院で、本尊は木造地蔵菩薩坐像です。同寺は応和2(962)年に明光上人によ  り創設されたと伝えられています。『新編武蔵風土記稿』によると、明光は明応7(1498)年に没したとあります。中興開山は覚円(かくえん)で、天正7(1579)年に当地を領有していた加治家信(かじいえのぶ)から、南宋時代の禅僧牧黙(もつけい)が描いた楊柳(ようりゆう)観音画像の寄進を受けたと云い、寺宝となっています。また、天正19(1591)年に五石のご朱印を得ています。

明光寺の本堂に、地蔵十王図が掲げられています。十王とは冥途で死者を裁く王のことです。人は亡くなると、遺族は初七日・ニ七日(ふたなのか)・三七日(みなのか)にはじまり、百箇日・一年忌・三年忌と追善供養を行いますが、これは遺族が供養することによって、死者が極楽へ行けることを保証するという「地蔵十王思想」が、真言・天台・浄土などの諸宗派によって盛んに喧伝されたためです。
追善供養と十王は次の関係になります。
初七日→秦公王、二七日→初江王、三七日→宋帝王、四七日→五官王、五七日→閻魔王、六七日→変成王、七七日→太山王、百箇日→平等王、一年忌→都市王、三年忌→五道転輪王
この寺のものは、十王のほかに地蔵菩薩・奪衣婆・修羅の3幅を加えて、全部で13幅からなつています。

本堂に上げていただき、住職さんから地蔵十王図の前で説明をいただいた。
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地蔵十王図は、それぞれ縦93cm、横39cmのものです。
参考に13幅のうちから4幅を載せておきます。
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日光脇往還の説明は、明光寺山門前で行った。
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【日光脇往還】
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この街道の特徴は、日光山火防の任にあった八王子千人同心が警備につく際に往来した道であるという点です。このため、この街道は「千人同心日光道」や「日光御火之番様御通り之道」とも呼ばれています。

八王子千人同が日光山火防のため「日光勤番」を命ぜられたのは、慶安5(1652)年6月のことです。そして実際に日光勤番につくために八王子を出発したのは承応元(1652)年12月13日であり、以後、承応2年8月3日に第2番、9月25日に第3番が出発しています。第1番、第2番は八王子から江戸へ出て、千住から宇都宮を経由するという日光道中を用いています。第3番からは八王子から江戸へ向かわず「日光脇往還」を経ることになります。以後、幕末の慶応4(1868)年4月8日まで、217年間に約1030回の日光勤番を、日光脇往還を経て日光勤番が続くことになります。この点から日光脇往還の成立は承応2(1652)年以後といえます。

日光脇往還の経路は、八王子→拝島→箱根ヶ崎→二本木→扇町屋→根岸→高萩→坂戸→高坂→松山→行田→川俣→館林→佐野→冨田→栃木→合戦場→金崎→喩木→鹿沼→文挟-今市→日光。

八王子千人同心は、天正18(1590)年8月の徳∥家康の関東入国に伴い、武田氏や後北条氏の遺臣、その他浪人を集め、元八王子(現在の東京都八王子市)周辺に住まわせ、新領土である江戸の防衛のため、甲州口の備えと八王子を中心とする後北条氏遺臣の反逆に備えたのが、その始まりです。八王子千人同心が日光火之番を命ぜられたのは、慶安5(1652)年6月です。八王子千人同心が火之番を命ぜられた理由は定かではありませんが、本来の軍事的役割が薄れてきたためかとも思われます。

【根岸の渡し跡】
日光脇往還の交通量の増加により、入間川に渡船(わたしぶね)を設けることを幕府に出願し、文化8年(1811)に渡船場(とせんば)が開設され、その渡船場は「根岸の渡し」と呼ばれました。
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(了)


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コメント

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四季歩さん、こんにちは

馬車鉄道跡ですか。ううん、1時間に1本程度でしたら、それほど問題がないと思いますが、もっと多ければ、馬の糞とか尿とかが大変でしょうね。また、調べてみると、時速8km程度だったようですので、これだと、早足で歩くよりは多少、速いと言う感じですね。

なお、昔は馬車鉄道ならぬ人車鉄道と言うのがあったそうですが、それよりはマシな感じですね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
スピードは大したことはないですが、
年寄り、婦人、子供、怪我した人、荷物持ち
にとっては、大変助かったことと思います。

いずれにしても、鉄道を敷くということは
大変なエネルギーの要る仕事だったと思います。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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