狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/堀兼地区-3(三ツ木村・加佐志村)

20160623

6月14日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。

堀兼地区の三回目で、堀兼地区の概要については、前々回の記事に載せてあります。

今回の説明は、川田さん。

この日のルートは、推定鎌倉街道堀兼道枝道⇒東原富士塚⇒愛宕神社⇒伝上杉定朝討ち死にの場⇒阿弥陀堂⇒鎌倉街道切り通し遺構⇒寿荘(トイレ休憩)⇒馬頭観音(道標)⇒共同墓地⇒羽黒神社⇒普門寺跡伝承地⇒石橋供養塔⇒三ツ木家の観音堂(子育て観音)⇒東三ツ木薬師堂
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『新編武蔵風土記稿』における、該当する部分
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【推定鎌倉街道堀兼道枝道】
進行方向左手に三ツ木が原古戦場跡、その向こうに道路を挟んでホンダ技研の狭山工場が見えます。
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「三ツ木が原の合戦」の戦場になったのは三ケ窪(現在の本田技研の入口から工場にかけてのあたり)周辺と伝えられています。
『新編武蔵風土記稿』記述:
「三ケ窪より末に鎌倉の古道とて小径あり南の方と所澤より、堀兼村にかかり加佐志青柳の界を経て村内へかかり五町許を経て奥冨の内にて八王子道に合ふ。北条氏の寄せ来りしは此の道なるべしと云」

この道は、振り返ると西武新宿線線路で切断されている。
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この角を左に行くと、「三ツ木が原古戦場」碑が立っている公園があり。
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【東原富士塚】
所在地:狭山市新狭山三丁目(東原)
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小御嶽神社碑
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「書行(角行)大神・身禄大神」碑
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山頂には、「富士岳神社」碑
裏面に明治16年建立とある。
碑が「神社」となっていることからも、明治に建てられたものであることが裏付けられる。
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随身の猿が御幣と神楽鈴を持っているのが、実に良い。
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境内社か、以前からここにあったものか。

琴平神社
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保食社(うけもちしゃ)
祭神は保食神(うけもちのかみ)と云い、食物神である。
同じ食物神である宇迦之御魂神(稲荷神社の祭神)とも同一視され、稲荷神社に祀られることもある。
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これも、以前からここ(付近)にあったものと思われる。
文政7年(1824)建立の馬頭観音
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【愛宕神社】
鎮座地:狭山市大字東三ツ木字下の沢79
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由緒碑
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 明治41年12月21日、古くから祀られていた当神社は堀兼神社に合祀されたそうです。
そのあとに祀られていた愛宕神社石祠(寛政二年1789建立)・七柱神社石祠(明治二十二年)・山田神社石祠(明治十八年)をもとの愛宕神社の祀られていた所に集めて境内社とし、昭和50年神殿を造営して今の愛宕神社となった。

社殿
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本殿が扉に接して置かれていて、全体は撮れない。
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主祭神;軻遇突智命
合祀神:天神七世尊、倉稲魂尊
天神七世とは『古事記』では、次の神である。
1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
(左側が男神、右側が女神)

「元弘天文之戦場」碑が境内にあり。
堀兼村青年団東三ツ木支部・堀兼村女子青年団東三ツ木支部が建てたもの。
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【伝上杉定朝討ち死にの場(江丸橋東公園付近)】
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川越城を北条氏綱に奪われた上杉朝定が北条氏網の後を継いだ氏康の奇襲を受けて戦死したと伝えられている場所です。このあたり一帯まで激戦の戦場となっていたことが推測できます。

加佐志にある鎌倉街道標示
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【阿弥陀堂】
西丸山の共同墓地にあり。
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安置されている阿弥陀仏
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入り口付近にある、元文4年(1739)造立の馬頭観音。
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【鎌倉街道切り通し遺構】
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此の道はこの後2つに分かれます。一方は川越市の大袋新田、池辺を経て上戸の河越館に、一方は奥冨の前田集落を経て柏原の城山砦付近を通り上宿で分岐しますが、ともに以後の道筋ははっきりしません。

【寿荘(トイレ休憩)】
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この辺りは昔は湧水が出ていて、縄文時代の生活跡が発掘されています。
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上池の跡
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【馬頭観音(道標)】
明治15年 粕谷久五郎 
右 所沢 四谷道   左 上とめ道  板橋
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【共同墓地】
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「耳だれ地蔵」
元禄七年(1694)建立 浮彫立像地蔵菩薩 願主;斎日講中 現当二世安楽
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 ※洒を入れた「たかずっぽ(竹筒)」を供えて巌掛けをし、代わりに以前供えてあるたかずっぽを持ち掃って中の酒を耳に付ける。治った時はお礼に2本のたかずっぽを収める。
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「三体の丸彫り地蔵菩薩立像」
 1.(石橋供養塔)安永十年(1781)2月 願主;得性(僧侶?行者?)
    久保川に架けた石橋の完成記念  銘文に「風下村」
 2.(念仏供養塔) 享保四年(1719) 加佐志村村民による
       岩船地蔵信仰に基づいて建てられたものと思われます。
 3.(三界万宝塔) 享保八年(1723)8月 願主;加佐志村奥冨氏
※明治30年代(189了~1906)赤痢の流行‥・橋の傍らから3体の地蔵菩薩(夢のお告げ)
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【羽黒神社】
鎮座地:狭山市大字加佐志174
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・主祭神:稲倉魂尊(うがのみたまのみこと)
合祀神:須佐之男命、火産霊命、十九神霊社(大東亜戦争戦没者19柱を祀る)

・出羽の国羽黒山出身の伴蔵人一俊が応永年間(1394~1497)に創建か?
 羽黒権現を村の産土神に。 「奥冨扇斗」に改名⇒ほとんどが「奥冨」姓

・菩提樹;伴蔵人一俊が奥州羽黒山より持参し植えたという言い伝えがあります。
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この日は、ちょうど花が終わったところ。
葉の裏から華房がぶら下がっている。
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これは2012年に撮った、もうちょっと遅い時期の写真。
葉から実がぶら下がっている。
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別当寺は寶林寺(峯林寺)といい、現在は加佐志集会所となっている。
宗派は新義真言宗・羽黒山恵日院と号し、靑梅市金剛寺未と云われ、開基は村内百姓甚五郎衛門(元和二年三月二日1616没。)
本尊は大日如来立像。体内仏があるといわれていますが、不明です。
大日如来立像を中心に33体の金箔の木造坐像が安置されています。台座を含め、高さ30cm程度。これらの坐像は文化文政のころ60年間に作られ、江戸の商人や寺からの寄贈名と年月が書かれています。地元の先祖が靑梅の聞修院からもらいうけ、明治2年(1869)に遷し祀られました。
風土記稿によると観音堂があり、千手観音が祀られていたということですが、今は行方不明だそうです。

かって会員の方から、33体の金箔の木造坐像の写真を頂いてあるので載せておきます。
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【普門寺跡伝承地】
老人ホーム「さくら」周辺。「さくら」ができる以前は、遠くから見ると他の畑地よりも-段高くなっていて目立っていたということです。そういわれればそう見えなくもないところです。
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【石橋供養塔】
薪狭山南口交差点付近に、寛延三年(1750)造立の浮彫地蔵立像の石橋供養塔が久保川の三ツ木堀にかかっている小さな橋のたもとに立っています。
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【三ツ木家の観音堂(子育て観音)】
昔から子育て、安産にご利益があるとされ、個人所有の観音堂ですが祭りの日には屋台が出るほど賑わったそうです。すぐ近くのお茶屋、三ツ木園が代々管理している。
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本尊:十一面観世音菩薩坐像
背に墨書銘あり「干時慶長拾余年(1609)太良右門 妙春 武州入間都□郷観音
昭和11年に塗り直されていて、ピカピカです。
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境内に三ツ木家墓地。2基の書石塔婆があります。応安四年(1371)と明徳三年(1392)。
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【東三ツ木薬師堂】
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・金子国重⇒三ツ木国重 守護神の薬師如来の「夢のお告げ」により、金子領三ツ木から当地に移る。
・木造薬師如来立像及び十二神将(お堂の中にあって、見ることができません。)
当薬師堂縁起によると、奈良時代に行基が刻んだ尊像となっていたが、昭和3年(1928)の調査の結果、底の部分に「応永6年(1399)9月18日 作者常仁」と墨暮があることがわかりました。14世紀に当地を開いた金子国重の守護神といわれています

木造薬師如来立像及び十二神将については、以前文化財調査が行われた際に立ち会った会員の方から写真を頂いていたので、ここに載せておきます。
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・石幢六地蔵 
貞享五年(1688)10月15日
 三ツ木家の先祖の回向仏であるにもかかわらず近隣6か村の名も刻まれている。三ツ本家が当地の有力者であったためと思われる。
 ※貞享5年は9月29日迄。9月30日から元禄3年
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・馬頭観音(文字塔)
明治31年(1898)成5月16日 功徳主・三ツ木富之助
午の供養のために建てたものだといわれています。
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これで、この日の予定は全て消化しました。
満足して、新狭山駅前のレストランで昼食歓談後、解散しました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

参加者は合わせて15名位のようですね。女性が多いかと思ったら、男性の方が多いようで、やはり、歴史は男性の趣味なのでしょうか。

東原富士塚の2匹の猿、まるで、帽子をかぶっているようで、面白いですね。

耳だれ地蔵ですが、この手のものって、大抵、2倍返しなんですよね。日光にある「香車堂」は大きな香車を返す形ですし。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
歴史クラブ全体では、男女半々くらいです。
女性はやはり参加型が多いですね。
このように勉強会形式だと、どうしても
男性が多いですね。

東原富士塚は、ほとんどの記録に載っていなくて、
拾いものでした。
そして、この猿はとても良いので、私としては
大喜びでした。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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