堀兼地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・狭山台中央自治会

20160626

6月20日(月)に行われた、狭山台中央自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
今回のコースは「堀兼地区」です。
コースは、下新田の共同墓地⇒権現橋の石仏群⇒あぐれっしゅげんき村⇒堀兼神社⇒堀兼の井⇒上赤坂の弁財天と庚申塔⇒堀兼の新田開発
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【下新田の共同墓地】
所在地:狭山市大字北入曽636付近
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向かって右が普門品読誦供養塔、左が馬頭観音供養塔
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1)普門品(ふもんぼん)読誦(どくじゅ)供養塔(くようとう) :明治3年(1870)
比較的新しい供養塔で、台座に刻まれている銘文から、観音経を唱えた北入曽村の信者集団が、ある回数観音経を唱えたことの記念と自分たちの村の安寧を祈って立てたものと云うことがわかります。
この供養塔の台座の右側面には「右 扇町屋」、左側面には「左 三ヶ島八王子道」とあるように、道標も兼ねています。
もとはこの先の堀兼(上)の交差点付近にありましたが、道路の拡張工事に伴い、現在の場所に移転されました。

2)馬頭観音供養塔(文字塔) :天保9年(1838)8月
馬頭観音は観音菩薩が姿を変えた仏様で、衆生の無知や煩悩を断ち切り、諸悪を破壊消滅させる力を持っています。ここにあるのは文字塔で、銘文から北入曽下新田の馬持中が建てたものとわかります。馬頭観音は、頭上に馬の頭を乗せ、怒った形相で表現される浮彫像も各地で見られます。近世には民間信仰と結びつき、現当二世安楽を願って建てるものと、生産社会の中で大切な役割を果たしていた馬の守護神として建てるものとにかわってきました。
この供養塔も同様に道標を兼ねており、「右 新かし(河岸)、左 川こへ(越)」と刻まれ、もとは下新田バス停付近の三叉路に立っていたものですが、いつの頃からか。現在の場所に移転されました。

【権現橋の石仏群】
所在地:狭山市大字堀兼743付近
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権現橋は不老川にかかっている。
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 権現橋の袂に石仏が4体並んでいます。この場所は、旧鎌倉街道の枝道(堀兼道)と江戸時代に産業道路として栄えた新河岸街道と合流する道との交差点であり、多くの人々が行き交いました。
石仏は以前、旧鎌倉街道に面し、鳥居やケヤキ、近くに茶店もあって、旅人はここで一休みし、旅の無事などを願ったと言われています。
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現在は、旧鎌倉街道に直角に、不老川に面して並んでいる。
石仏は正面向かって右から、地蔵菩薩、子の大権現、馬頭観音、月待供養塔であり、権現橋の名前は子の大権現に由来しています。

○地蔵菩薩
向かって右端が地蔵菩薩です。造立されたのは享保4年(1719)、本体には堀金村施主と刻まれ、高さは174cmです。地蔵菩薩は極楽往生に力を貸してくれる仏であるところから、多くの人々に及ぶようにと人通りの多いこの交差点に造立したものと思われます。
なお、この地蔵には次の「化け地蔵」の伝説があります。昔、東三ツ木住んでいた気の弱い大工さんが、仕事帰りに地蔵さんの前を通ると、突然大入道のようなものが現れて道を塞ぎました。怖くなって持っていた斧を振り下しました。実は大入道は地蔵さんで、今も右肩が欠けており、化け地蔵だから切られたと言われ、遠くまで知れ渡ったそうです。
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○子(ね)の大権現
右から2番目が「子の大権現」で、正面に「子大権現」と刻まれた文字塔です。橋の名前はこの文字塔の名前に由来しています。造立されたのは文政5年(1822)11月、台座には堀金村中と刻まれています。
この「子の大権現」は飯能市吾野の通称「子の権現」を本社として、大麟山雲洞院天龍寺で延喜11年(911)                 に創建されています。子の年、子の月、子の日、子の刻に生まれた子(ね)の聖が各地行脚の後当山を開かれたそうです。その後、弟子の恵聖上人が子の聖を大権現と崇め、子の聖大権現社を建立したそうです。
なお、子の聖が亡くなる時、足腰の病める者は一心に祈れば、その効き目を得るでしょうと言われて以来、足腰守護の神仏として信仰されたことから、交通上重要なこの交差点に堀金村が子の大権現を勧請したものと言われています。この「子の権現」には草鞋や下駄が奉納されています。
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○馬頭観音(馬頭観世音菩薩の略)
向かって右から3番目が馬頭観音で、元文5年(1740)9月の造立です。正面右側に為先祖有縁聖霊追建立之、下部に堀兼村願主横山氏と刻まれています。なお、馬頭観音が数多く造立されたのは18世紀半ば以降で、物資の輸送や農耕に馬が盛んに利用され始めた結果、馬の供養塔が増えたものと考えられます。
しかし、この馬頭観音は銘文から先祖や諸々の霊を供養する為に造立したものです。馬頭観音に現当二世安楽の願いを託す本来の信仰の姿を示し、ここを往来する人々に手を合わせて貰うのが、最大の供養であると思われています。
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○月待供養塔
左端が「月待供養塔」で、正面に元禄2年(1689)2月造立、武州入間郡河越領堀兼村 相岳儀円首座 願主心窓妙伝大姉 名主宮沢口左衛門と刻まれ、その下に与頭吉沢□右□□ほか15名と刻まれていました。
左側面には上赤坂ほか64ケ村、右側面には双柳(なみやなぎ:飯能市)ほか54ケ村、裏面には月待講 小澤平次郎ほか10名とありました。
正面の浮彫像は、月待供養の本尊の勢至菩薩で、月待とは十三夜、十五夜、二十三夜などに月の出を待って拝むことで共同飲食の場でもありました。この供養塔の特徴は、側面に120ケ村の村名が刻まれて                 いたことにあり、この各村々は交通安全を願って造立に協力したものでないかと言われています。
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ここから歩きだしてすぐのところに、道端に大きなサボテンがはみ出していて、大きな花を咲かせていた。
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堀兼神社に向かう途中、JA直売所「あぐれっしゅげんき村」で休憩。
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この日は暑かったので、日陰の道になると大喜び(笑)
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【堀兼神社】
 堀兼神社については、既に詳しく記事にしているので今回は省略します。

その記事を読む


堀兼神社は、境内のほぼ全域が木陰となっていて、皆さんホッとして説明を聞いています。
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随身門前での説明。
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随身門には欄間の彫刻とか立派です。
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境内にある石仏の説明を聞く。
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随身門から本殿に上がると、富士塚の頂上です。
富士塚の参道を下って、五合目の小御嶽神社、麓にある日枝神社の彫刻なども確認しました。
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【堀兼の井】
堀兼神社の由緒にあるように、日本武尊が掘ったという言い伝えがありますが、詳しいことは不明です。「ほりかねの井」は古い文献にも出てきます。最も古いところでは伊勢大輔が詠んだ「いかでかと思ふこころは堀かねの井よりも猶深さまされる」の1首です。平安時代に清少納言が著した『枕草子』には「井はほりかねの井、玉ノ井、走り井は逢坂なるがをかしきなり」という有名な文があります。しかし、記録がないので、ここが「ほりかねの井」かどうかははっきりしていません。
井戸の傍らにある石碑の内、川越藩主の秋元喬知(たかとも)が建てさせた左側の石碑に「この凹んだ地形のところがいわゆる堀兼の井の遺跡である。しかし長い年月の間にその由来がわからなくなるのを恐れるので、石の井桁を窪みの中に置き、石碑にそのことを刻んでその傍らに建て、以て構成の参考に備える次第である。云々」(原文は漢文)とあり、これによって堀兼の井といえばここであることが定説となりました。
大正13年(1924)に県の文化財に指定されています。

「堀兼の井」の前で説明を聞く。
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堀兼の井
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川越藩の石碑
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【上赤坂弁財天】
所在地:狭山市大字上赤坂87付近

説明はコース手前の、上赤坂の森を出る直前に木陰の下で行いました。
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上赤坂弁財天:
弁財天は、元禄13年(1700)  頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠損)、左手に宝珠を持つ浮彫2臂で、台座には波を切って走る帆掛け船が刻まれています。
最下部には「これより中山はんのふ(飯能)、此の道大目(青梅)、左ハ武蔵野所沢」と刻まれていて、作善としての道標も兼ねていることがわかります。
手前の道は江戸時代には河岸街道とよばれていて新河岸川の河岸場へと通じる道です。当時、新河岸周辺は舟運により江戸と川越を結ぶ物資の集散地でした。川越からは米・茶などの農産物が江戸に運ばれ、江戸からは肥料や古着等が送られてきました。狭山周辺の村もその物流経済の中にありましたので、この弁財天の特徴である台座の帆掛け舟は、舟運による流通経済の発展と舟の安全を願って刻まれたものとも推察されます。
弁財天はインドから豊穣をもたらす大地の神として伝わったものですが、仏教が民間に広く普及するとともに、庶民の発想による様々な弁天様が登場します。圧倒的に多いのは水の恵みと深くかかわる弁天様です。狭山市周辺でも豊かな水の恵みを請い、五穀豊穣を祈って建てられた弁天像がいくつか見られます。上赤坂の弁財天も水の乏しいこの地域にあって、本来の役割を担うとともに、現世のご利益をも受け持つ多彩な神様となっています。

上赤坂弁財天と庚申塔がある十字路。
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弁財天
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台座の帆掛け舟
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横にある庚申塔:
この庚申塔は、元文5年(1740)10月造立、一面六臂の浮彫青面金剛立像で、上赤坂の村民13名によって建てられたことが碑文によってわかります。邪鬼を踏みつけ、その下に三猿が刻まれています。持ち物は鉾・弓・矢と左手が欠落していますが法輪を持っていたと思われます。日・月・鶏も印刻されています。これらのことから五穀豊穣・現当二世安楽を願ってたてられたものでしょう。
また、この庚申塔の場所は。旧堀兼村と旧上赤坂村の村境で、村外から侵入してくる疫病や病虫害から守る「塞ぎ(ふせぎ)」を目的として建てたといわれています。
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【堀兼の新田開発】

不老川を挟んで向う側に、新田開発された畑が見通せる場所で説明。
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天正18年(1590年)北条氏が滅亡し、豊臣秀吉の命令で新たな領主として徳川家康が江戸に入城しました。それを契機として江戸周辺地域で年貢収入の増加を図るために、多くの新田開発が実施されました、当地北武蔵の新田開発は、年貢の増収を図ることで藩の財政を少しでも豊かにするために川越藩の政策で行われました。
尚、江戸幕府創立は徳川家康・征夷大将軍の慶長8年(1603年)―大政奉還は徳川慶喜・慶応3年(1867年)の264年間です。
徳川家康は天文11年(1543年1月31日)生まれで死亡は元和2年(1616年6月1日)です。

堀兼の新田開発は三代将軍家光に仕えて、寛永16年(1628年)忍藩(おしはん)から第五代川越藩主として入城した老中の松平伊豆守信綱で慶安2年(1649年)に着手しました。信綱は「知恵伊豆」と称された人で新河岸川を整備して川越と江戸の間に舟運を開設し、玉川上水の工事を完成させ野火止用水を開削、この飲料水を利用して武蔵野の畑作新田を開発しました。
この地域の新田村で最も古いのは柏原新田で50石、その後開発されたのが堀兼村で1300石、続いて開発されたのが上赤坂村の300石、中新田の260石です。川越市分は今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。

近隣の新田は川越藩領として県道126号線沿いの所沢方面に三冨(さんとめ)新田(上冨、中富、下富)や三芳新田があります、その他今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。
五代将軍綱吉に仕えて元禄7年(1694年)に江戸在勤から第8代川越藩主として入城した大老格の柳沢吉保が開発に着手しました、論語より三富(さんとめ)の名をとって近世新畑開発のモデルとしました。

堀兼の開発責任者は上奥富村の名主の二男だった志村次郎兵衛(ベーエ)が選任され、堀兼の開発引受人として宮沢兵右衛門が当てられました。
承応年間(1652-55年)になると、近隣の村から次男・三男が入植して開発が進められました。(着手から3年後に入植)
入植から10年余り経った寛文元年(1661年)5月の検地帳によりますと、入植者は62戸となっています。

この新田は千年前の政治家王安石の考案した短冊形農地で、千百(せんぱく)法による地割(南北の畦道、東西の畦道)によっています。間口が約20間(約36m)、奥行き約460間(830m)の長方形の土地で面積は1戸当たりおよそ3町歩(3ha)と広大でした、今見ても整然と区画された土地は開発当時からの姿です。
所有面積は7町歩が3戸、4町歩が8戸、3町歩が22戸、2町歩が24戸、1町歩が5戸です(合計62戸)。土地が短冊状に区割りされた理由は、牛馬が農作業をやり易いようにし、住居を出来るだけ1か所に集め、後背の林も集中させ、幹線道路へのアクセスを各戸が平等に便利になるように考えたためといわれています。

開拓作業は生い茂るススキの原野を焼き払って、くわ、すき、かま、モッコ等を使い全て人力で開墾しました。
堀兼の地は、大昔この辺りは古多摩川が流れており、大小の石ころで大変な労苦を強いられました。
土地の北側に家を建て、南に広がる原野を開墾していきました、そして北側にコナラ、クヌギ等の広葉樹を植え、その枯葉を堆肥として、木や枝を燃料としました、今我々が目にする雑木林は当時植えたもので、人によって管理された2次林です。

不老側の向こうに、短冊形に開発された畑が広がっています。
家があり、その向こうの屋敷林までで、830mとなります。
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カーブミラーに、説明を受けている皆さんが映っていた。
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これで、予定は全て完了。
出発地点近くまで戻り、涼しいレストランで昼食・歓談をしてから、解散となりました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

この地区、馬頭観音が多いようですね。馬頭観音と言えば、私の場合、すぐに思いつくのは、西武鉄道「正丸駅」より「伊豆ヶ岳」方向に道路を進むと、山道に入る直前に、小さなお堂の中に馬頭観音が安置されていることです。そして、伊豆ヶ岳、「子の権現」と進みます。

サボテンって、そう、花は咲かないですよね。それが野生状態で咲くとは、よほど良い条件のところにあるのでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
狭山市には、鎌倉街道が本道と枝道、江戸からの物資の
川運を新河岸で上げてから、こっちに運んでくる
新河岸街道、秩父道、大山道・・・・
たくさんあります。
馬が荷物を運んでいる道には、馬頭観音が多いですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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