さきたま古墳群

20160721

所在地:埼玉県行田市埼玉4834付近

7月16日に「古代蓮の里」に行ったあと、カミさんは初めてだというので、「さきたま古墳群」を案内しました。
ここは、私は何度も訪れていますが、独立して記事にしていなかったので今回過去の写真も使って記事にします。
なので、季節がバラバラの写真になりますが、ご容赦のほど(笑)

埼玉古墳群は国指定史跡で、県名発祥の地「埼玉」にあります。前方後円墳が8基、円墳が2基、方墳が1基の合計11基の大型古墳を中心として、稔数40基ほどの古墳が存在していました。現在は、前方後円墳が8基、円墳が2基残っています。
 埼玉古墳群は国宝金錯銘鉄剣が出土したことで有名ですが、大型の古墳がせまい範囲に集中して築造されていることも大きな特徴です。また、5世紀後半から7世紀初め頃までの釣150年の間に次々に造られたことも特徴で、築造した豪族の勢力を物語っています。
埼玉古墳群の謎
(1) それまで古墳が造られていなかった場所に、突如として現われた。
(2) 東西500m、南北800mのせまい範囲の中に大型の古墳が造られた。
(3) 前方後円墳は同じ規格で築造されている。
   ・長方形の二重の堀を巡らしている。(通常、盾型)
   ・造出しは西側にある。
   ・ほぼ同じ方向を向いている。

武蔵国造の乱:第二十七代 安閑天皇即位元年甲寅(きのえとら)534年
 日本書紀に、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が同族小杵(おき)と、国造の地位を争ったことが記されています。争いに勝ち、武蔵国国造に任命された、笠原直使主は埼玉群笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされています。さきたまの地に突如として、畿内に匹敵する大型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓と考えることもできます。

埼玉古墳群の場所は交通の要衝地
 東日本では、交通の要衝地に大型古墳が集中する傾向にあると言われています。埼玉古墳群の場所について見ると、当時は東京湾に注いでいた利根川と利根川の支流であった荒川の合流点近くに位置していて、利根川、荒川、渡良瀬川、思川などを伝って各地と容易に連絡できる内水面交通の要衝地点でありました。

大宮台地
 埼玉古墳群は、南から延びてきていた大宮台地上に築造されました。これは発掘調査でわかっています。築造されたときは周囲より高い場所にありましたが、関東造盆地運動と呼ぼれる地殻運動によって台地が沈降し、今では周囲と変わらず平坦になっています。

各古墳の位置
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【愛宕山古墳】
駐車場から歩きだすと、まず現れるのはあまり大きくない「愛宕山古墳」
名前の由来はかって墳丘上に愛宕神社が祀られていたことによります。
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いまは三体の石仏が立っています。
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丸墓山古墳に向かって進みます。

「史跡埼玉村古墳群」の標示あり。
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石田堤
豊臣秀吉の小田原征伐の際、石田三成が忍城を水攻めにしたとき、丸墓山古墳を起点に南北に堤を築きました。その一部です。
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丸墓山古墳のふもとにあった、「埼玉村古墳群」の石碑
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【丸墓山古墳】
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日本最大規模の円墳で、埼玉古墳群の大型古墳で登ることができるのは、稲荷山古墳と丸墓山古墳のみ。
直径105メートル、高さ18.9メートル。
遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが、墳丘表面を覆っていた葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などの埴輪類やが出土しており、これらの出土遺物の形式から築造年代は6世紀の前半と考えられている。
1985年(昭和60年)から1987年(昭和62年)にかけて墳頂部と墳丘東側を中心に整備が行われた。また、周濠の一部が復元されている。

1590年(天正18年)、小田原征伐に際して、忍城攻略の命を受けた石田三成が丸墓山古墳の頂上に陣を張った。三成は忍城を水攻めするため、丸墓山を含む半円形の石田堤を28kmほど作る。丸墓山から南に真っ直ぐ伸びている道路は、この堤の名残である。

忍城は、肉眼で辛うじてわかる。ちょうど真ん中のあたり。
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望遠ズームで撮った。
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お隣の「稲荷山古墳」がよく見える。
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反対側に降りた。
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ニッコウキスゲが咲いていた。
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【稲荷山古墳】
続いて「稲荷山古墳」に向かうと、何と!!
この日(2016.7.16)は整備工事のため、来年の3月末まで登れない(泣)
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2013年5月8日に登ったときの写真を載せておきましょう。

稲荷山古墳は、全長120m、後円部径62m、後円部高さIl・7mの2番目に大きな古墳です。後円部上に稲荷社の祠があったことから命名されました。
 稲荷山古墳は、昭和12年に前方部が削平されて、円墳のような姿になっていました。風土記の丘整備事業の一環として、昭和43年に後円部の発掘調査が行われ、2基の埋葬施設が発見されました。一つは「粘土槨」と呼ばれる竪穴の中に粘土を敷いて木棺を置いたものですが、盗掘され、出土遣物はほとんど残っていませんでした。もう一方は、「礫槨(れきかく)」で舟形に掘り込んだ竪穴に河原石を貼り付け、中央の空間に木棺を置いたものです。こちらは上に稲荷社があったためか盗掘されてなく、埋葬時の様子を完全に留めた状態で、金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土しました。
 外堀からは、多くの円筒埴輪や朝顔形埴輪、武人や巫女などの人物埴輪が出土しました。出土遺物から、古墳群中、最も古い5世紀後半から末の築造と考えられます。
 前方部は平成16年に復元されました。

上ります。
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金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土した礫槨(れきかく)発掘場所。
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こんな感じで埋葬されていました。
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金錯銘鉄剣などの出土品については、あとで「さきたま史跡の博物館」のところで説明します。

もう片方の粘土槨発掘場所。
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前方部は復元されたばかりなので、新しい感じです。そのはるか前方に富士山が見えました。
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方形部分は、後円部からいったん下がって、また上がっています。
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後円部から方形部先端まで、ゾロゾロ移動。
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降りてからの、稲荷山古墳方形部の眺め。
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稲荷山古墳横からの「丸墓山古墳」
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続いて将軍山古墳。これは稲荷山古墳の後円部から眺めたもの。
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将軍山古墳は、石室の中を見ることができます
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【将軍山古墳】
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将軍山古墳は、全長90m、復円部径39mの前方後円墳で、古墳群中4番目の大きさです。現在の墳丘は平成9年に復元されたものです。
墳丘と造出しには円筒埴輪や形象埴輪(教・盾・大刀など)が立て並べられ、土師器や須恵器が置かれていたと考えられます。
 明治27年(1894)に地元の人々によって石室が発掘され、馬具や武器、武具類、銅椀(どうわん)など豪華な謝葬品が出土しました。馬冑(ばちゆう・馬用の冑)や蛇行状鉄器(だこうじょうてっき・馬に装着する旗竿金具)、銅椀(どうわん)などは朝鮮半島との関わりの強い遺物です。その他に、甲冑や大刀の残片、各種馬具、ガラス玉などが出土しています。
 石室は横穴式で、天井石には緑泥片岩が、奥壁・側壁には房州石と呼ばれる千葉県富津市で産出した石材がそれぞれ使われています。出土遣物や石室の構造からみて6世紀後半の築造と考えられます。

外に置いてある埴輪も、草が茂っていてよくわからない。
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2013年9月24日に訪ねたときは、ちょうど整備された後で、埴輪がよくわかりました。

稲荷山古墳の上から見た、将軍山古墳全景
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方墳底辺の左端からの眺めが、起伏に富んでいていいですね。
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望遠でひきつけると、迫力があります。
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置かれている埴輪
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石室に入ります。
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入ると、説明のパネルあり。

整備される前の将軍山古墳。
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出土した馬装品の説明
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出土されたときの姿や出土したものの写真パネル。
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二階の石室に上がります。
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石室内部は埋葬されていた状態に復元されています。
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【二子山古墳】
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 全長138m、後円部径70m、後円部高13m、前方部高14.9mの前方後円墳で、古墳群の中でも、また武蔵国でも最大の古墳です。名称は、横から見ると二つの山のように見えることに困ります。
 周堀や墳丘の造出し周辺から、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪(人物・馬・鳥など)の破片、土師器や須恵器の破片か出土しています。埴輪は鴻巣市の生出塚(おいねづか)窯と東松山市の桜山窯から供給されたものです。
 築造時期は外堀の底に6世紀初頭に噴火した榛名山ニッ岳の火山灰が堆摸していることから、5世紀末と考えられます。一方、出土遺物から推定して、6世紀初頭とする説もあります。

周堀のふちに沿って歩きます。確かにデカイ。
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二子山古墳では、気になっていた堀を見に行くと、たしかに空堀になっていた。
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2013年9月24日に訪れましたが、それは少し前の朝日新聞の埼玉欄に、二子山古墳で内堀の水を抜いて埋め立て、空堀にする工事を進めているという記事がありました。それによると、浸食により墳丘外周の崩落が深刻になったためとあります。また出土した微生物の死骸から、6世紀初めに築かれたときは空堀だったと考えられており、埋め立てで当初の姿に戻るとも。

1968年に復元されたときに水堀として整備されたものだそうです。
2013年の記事にあった航空写真。
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二子山古墳の全貌
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その時は、上の図で右下隅のところから入っていきました。
内堀のところに来ると、埋め立てられてなにか作業をしています。(2013年当時)
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方墳の底辺のところですが、発掘をしている感じですね。(2013年当時)
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方墳の底辺の右端のところに戻り、内堀のまわりを人が歩けるようになっているので、反時計まわりに一周することにしました。

少し行くと、埋め立てが途切れます。こちらが早く埋め立てられたみたいで水辺には草がびっしり生えています。(2013年当時)
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円墳の端まできました。

2013年当時の、円墳の外周を囲む内堀。
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反対側まで来ると、向こうの方、方墳のところで埋め立てられているのが見えます。(2013年)
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埋め立ての端まできました。こちらは埋め立てられたばかりですね。(2013年当時)
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振り返って、円墳の周囲を眺めます。これが来年には水堀でなくなってしまうというわけです。(2013年当時)
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というわけで、さきたま古墳群のなかで、かって唯一水堀に囲まれていた「二子山古墳」は、空堀となってしまいました。
保存上、仕方ないですが、なんだか寂しい。

【浅間塚古墳・前玉神社】
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浅間塚古墳の上には、延喜式内社「前玉神社」があります。
この「前玉」⇒「埼玉(さきたま)」⇒「埼玉(さいたま)」となり、県名になっているわけです。

「前玉神社」については、既に記事にしてあります。

その記事を読む


【鉄砲山古墳】
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 全長109m、復円部径55m、復円部高9m、前方部高10.1mの前方後円墳で、この古墳の周辺に忍藩の砲術演習場があったための名称です。
 発掘調査の結果、墳丘中段に埴輪列が巡っていたことが判明しました。また、墳丘西側のくびれ部付近に、古墳の名前の由来となった忍藩の砲術演習場の遺構が見つかり、約150発の弾丸が発見されています。忍藩はもともと、和流砲術が盛んな藩であり、嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航後には、江戸湾の第3台場の警備についていました。

【奥の山古墳】
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 全長70m、後円部径34m、後円部高5・6m、前方部高6・0mの前方後円墳で、埼玉古墳群中2番目に小さい古墳です。渡柳三大墳を東から見たとき、一番奥に位置します。
 造出しから、多くの須恵器片が出土し、接合作業の結果、装飾付壷や高坏形器台であることがわかりました。
このような須恵器が東日本の古墳から出土することは非常に珍しく、大変貴重な発見です。
 周堀から円筒埴輪・形象埴輪の破片も出土しています。出土遣物から、6世紀中頃から後半の築造と推定されます。
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【瓦塚古墳】
最後が、瓦塚古墳です。
全長73m、後円部径36.5m、後円部高5.1m、前方部高4.9mの前方後円墳で、平面形態を見ると、前方部が後円部に比べて大きく造られています。古墳の名前は、明治時代初期に瓦職人がこの付近に居住していたことに由来します。
 前方部前面の縁の真ん中が三角形に突き出た形状になっていて、古墳を大きく見せる効果があります。これは「剣菱形」と呼ばれる形状で、古墳時代後期の前方後円墳に見られます。剣菱形が確認されている古墳は、今城塚古墳、河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳、瓦塚古墳と全国でわずかです。
周堀や中堤から多量の円筒埴輪と形象埴輪(人物・馬・水鳥・鹿・犬・大刀・盾・家など)が出土しています。埴輪の他に、須恵器・土師器も出土しています。大半は造出周辺からで、高坏や提瓶(ていへい)、器台など供献用の土器であることから葬送儀礼に用いられたものと考えられます。出土遺物から、6世紀前半から中頃の築造と推定されます。
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以上で、さきたま古墳群は終りです。

参考に、さきたま古墳群に関するシンポジウム、講演会の記事を載せてありますので、よかったらご覧ください。

○シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代豪族~」

その記事を読む


○さきたま将軍山古墳と上総金鈴塚古墳-出土馬具を中心に/さきたま講座

その記事を読む


○須恵器からみた埼玉古墳群の葬送儀礼/さきたま講座

その記事を読む



(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

やはり、ここ、すごそうですね。大きな古墳は数年前に奈良の「山の辺の道」を歩いた時に幾つも見ましたが(勿論、小さなものも結構、見ましたが)、ここもすごそうですね。行きたくなって調べてみたら、行田駅からバスが出ているようですので、私でも苦労しなくて行けそうです。古墳の工事が来年3月までと言うことですので、来年の春頃に行きたいです。

それにしても、これだけのものがあると言うことは、やはり、「関東に大王あり」と言う感じがします。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
広々として、実に気持ちの良いところなので、
ぜひ出かけられて欲しいと思います。
博物館のものも、楽しいですよ。

インターネットでちょっと調べても色々な
意見が多くてすごいですね。

私の気持ちだけで言うと、前玉神社の祭神は出雲系、
氷川神社も出雲系なので、出雲系の部族が
強大だったと思います。
大和とは張り合っていたのでは・・・・・

楽しいですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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