越前國一之宮・気比神宮

20160808

鎮座地:福井県敦賀市曙町11-68
参拝日:2016.8.2

青春18キップの旅の最初の訪問地である。「ムーンライトながら」で大垣に5:50に着き、そのまま北陸線に乗換え、7:36に敦賀駅に着いた。
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駅前に、「都怒我阿羅斯等」の像があり。この神は気比神宮の摂社「角鹿神社」の祭神。
もともと、この地は「角鹿(つぬが)」だったのが、敦賀に変じた。
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敦賀駅から徒歩15分で、気比神宮に到着。
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大鳥居の前に、狛犬、石灯篭、社号標などが並ぶ。
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社号標
式内社(名神大7座)、越前国一宮、旧官幣大社、別表神社
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由緒沿革(気比神宮しおりより)
伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は、笥飯大神(けひおおかみ)、御食津大神とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籠磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。
上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。
仲哀天皇は御即位(192)の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿爾命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治28年3月26日、神宮号宣下の御沙汰により気比神宮と改められた。延書式神名帳(えんぎしきじんみようちょう)に「越前国教賀郡気比神社七座並名神大社」とあり、また朝廷からの御崇敬は特に厚く伊勢の神宮と並び四所宗廟の一社に数えられた。
中古より越前園一ノ宮と定められ、明治28年、官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨(みくりや)となった。
渤海使(ぼっかいし)が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の気比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護2年(766)勅によって松原客館が建設され、これを、気比神宮宮司が検校した。
南北朝争乱の延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて足利軍を迎え奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。
元亀元年(1570)4月大神司憲直等一族は越前国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天簡山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、48家の嗣官36坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。
慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家8家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたが戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。
その後、昭和25年御本殿の再建につづき同37年拝殿、社務所の建設九社之宮の復興を見て、祭祀の厳修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和57年気比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御代に至って御大典記念気比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新。更に国家管理時代の社務所が昭和20年の戦火で焼失し、その後敦賀区裁判所の庁舎を移築、長く利用してきたが、老朽化により己むなく解体、平成23年6月大社に相応しい格式ある総木造社務所が新築落成した。


以上がこの社の説明だが、現在私は渡来系の神社に特に関心があるのだが、この社の祭神については、岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』を読んで、私も大いにうなずいているところであり、それを載せておく。
記紀に早く名の現われる古社で、たとえば紀の仲哀天皇二年の条に、「角鹿に幸す。即ち行宮を興てて居します。是を笥飯宮(けひのみや)と謂す」とある。神宮の名も神の名も出てこず、このままではなぜ天皇が角鹿(敦賀)に行ったのかは分からないが、神功皇后の「三韓征伐」前夜のことであり、社記が言うように戦勝祈願でぁったのはまちがいないだろう。その後、記では、「三韓征伐」を終え、香坂王・忍熊王の反乱を鎮圧した直後、神功皇后は、武内宿禰に伴わせて、皇子(後の応神)を「楔せむと為て」敦賀へやり、伊奢沙和気大神を参拝させている。
そして夜、大神は王子の夢に現われて、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と言うのである。この名換えに関しては諸説があり、ここではあまり立ち入らないこととする。ただ、少なくとも神功皇后が、伊奢沙和気大神に深く帰依していたことだけは、記紀を通してはっきりと知ることができる。
 気比神宮の祭神は、この大神であって、仲哀天皇以下は、後からの合祀にすぎない。伊奢沙和気のいざさ、乃至いささが、天日槍(あめのひぼこ)の将来した胆狭浅の大刀(いささのたち)とかかわりがあり、出石に因む名であるところからして、この大神は天日槍であると考えるむきも多い。
 伊著沙和気=天日槍説は、すでに本居宣長が『古事記伝』の中で、気比神宮の祭神について「異国の事に故ある神なるべし、共に就て、書紀垂仁巻の都怒我阿羅斯等が事、又天日槍が事に、いささか思ひ依れる事もあれど、詳ならねば云がたし」と、栗田寛は『神祇志料』の中で、「此(=祭神)は天日槍命にはあらじかと思はるゝ由あり」と書き、今井啓一はその著『天日槍』の中に「気比大神は天日槍であろう」の一章を設け、三品彰英も、大神を天日槍とする豊田亮「気比神考」を引いて同意を表明している。
付言すると、神功皇后の出身氏族「息長氏」について山尾幸久氏は、「息長氏は、五世紀の中葉から後半ごろ裏日本に来着した、新羅文化を背景にもつ加耶系有力氏族そのものであるか、またその強い影響下にそのころ在地に台頭した集団と考えられる」 (『日本古代王権形成史論』)としている。
また、『古事記』の応神記に書かれているが、神功皇后は天日槍の子孫ということになる。

神橋
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大鳥居
(重要文化財指定 日本三大鳥居)
高さ36尺(10.9m)柱間24尺、木造両部型本朱漆。寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹(むろのき)で、正保2年(1645)建立した。(初代の鳥居は弘仁元年(810)境内東側にて創建されたが、康永2年(1343)暴風で倒壊となり、後に現在の西側の地に再建された。)
明治34年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。正面の扁額は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)の御染筆である。昭和20年(1945)の敦賀空襲では唯一その戦火を免れている。
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境内マップ
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参道
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途中、「長命水」あり。
気比神宮の説明によると、大宝2年(702年)、氣比神宮はそれまで伊奢沙別命(いざさわけのみこと)(氣比大神)1柱を祀る神社でありましたが、文武天皇の勅命で大神とのご神縁により仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され、御祭神は七柱とされました。その際、神宮を修営しましたが、修営途中突然として地下水が噴出したと伝えられます。合祀された神々、特に武内宿禰命は大変長生きをされた神様でありますので、これは、祀られた神々の御神徳が宿る神水として信仰され、1300年以上の長きに亘り今に長命水の名称で親しまれています。近年ではパワースポットとして多くの参詣者がここを訪れ、境内名所の一つとなっています。
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手水舎
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神門を入ると、広々とした空間が広がっている。
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拝殿
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向拝部の彫刻
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拝殿内部
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幣殿
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拝殿の横に回り、本殿を仰ぐ。
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ご祭神は
本殿に
伊奢沙別命(いざさわけのみこと) - 主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の皇后。

四社の宮
東殿宮:日本武尊
総社宮:応神天皇 - 第15代天皇。
平殿宮:玉姫命 - 『気比宮社記』では神功皇后の妹の虚空津比売命とする。
西殿宮:武内宿禰命

神紋は「十六弁八重菊」、「五七の桐」、「三つ巴」
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これから、境内社を参拝します。

【土公】
気比神宮境内全域11,253坪。天筒山の方角、神宮北東部に残る「土公」は気比大神降臨の地とされ当神宮鎮座にかかる聖地である。社殿家屋建立の時、「この土砂を其の地に撒けば悪しき神の崇りなし」と信ぜられる伝説と神秘に富む神代の述霊。古い時代における多くの祭祀の形態は神籠磐境(ひもろぎいわさか)と呼ばれ、大きな岩を中心とした山での祭祀、大木を中心とした森での祭祀など自然の形を損なうことなく祭祀が営まれた。仏教伝来による寺院建築の影響もあり、奈良時代から現代のような社殿を建て祭祀を行うように変化した。当神宮創祀は2,000年以上の神代に遡り、当初は現在の土公の地で祭神を祀ったと云うが、大宝2年(702)朝廷御関係の神々を合祀、現在のような社殿の元が建立され祭祀がなされた。御社殿建立後も土公は当神宮の古殿地として手厚く護られ、平安時代の名僧伝教大師最澄、弘法大師空海は当大神に求法の祈誓をかけこの土公前で7日7夜の大行を修したと伝えられる。

現在は、隣接する小学校のグランドに存在するが、大切に保存されているようだ。

境内に遥拝所がある。
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説明
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享和元年(1801)奉納の狛犬が、大きくて立派。
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遥拝所
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土公
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【摂社・角鹿(つぬが】神社】
ご祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。
式内社、崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等気比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇気比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名による。往古東門口が表通であったため気比神宮本社の門神と云われる。

当ブログの「日本の神々の話」で、「客人神(まろうどがみ)」を既に取り上げていて、気比神宮の角鹿(つぬが)社も例として載せている。
客神はちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外界からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形である。
客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと考えられている。

また谷川健一氏が『青銅の神の足跡』において、ツヌガアラシトについてどう書いているかを紹介しておく。
「垂仁紀」の記事によると、ツヌガノアラシトという渡来人が、日本国に聖皇がいますと聞いて帰化しようとしてやってきたとき、穴門の国、つまり長門国の西南部で、そこの国の王と称する伊都都比古と呼ばれる人間から、とどまることをすすめられた。しかしそれをことわって、島や浦をつたい、北海をめぐり笥飯(けひ)の浦まできた。北海というのは出雲の国の海岸一帯を指す。
ここにいう「額に角有ひたる人」という奇怪な表現をどのように理解すればよいのだろうか。
例えば本居宣長は、「実の角には非じ、頭に冠りたりし物の角と見えたるなるべし」としている。
谷川健一氏は、額に角の生えた人間というのは、銅や鉄の精錬技術をもたらした大陸系の渡来人にほかならぬ。そう推測するのは、兵器の生産神として古代中国の神話に登場する蚩尤(しゆう)は、銅頭鉄額にして、鉄石を食うとあり、またその耳ぎわの毛は剣戟のようにするどく、頭に角があって、それでたたかうとされているからである。
同様の根拠は、『今昔物語』巻十七、 『宇治拾遺物語』 にみられる。

社号標
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鳥居
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狛犬
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社殿
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【末社・兒宮】
ご祭神は、伊弉冉尊(いぎなみのみこと)。
平安朝時代、花山天皇寛和2年(986)9月20日遷宮の事が残されており、その以前より御鎮座の事があきらかである。徳川時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、更には小児の守神として信仰が篤い。
拝殿には、母子大小の狛犬が御護りする。

鳥居
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拝殿
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享保11年(1726)奉納の狛犬。
母(大)と子(小)が左右に侍っているのは、初めて見た。実に珍しい。
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向拝部の獅子の彫刻
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【末社・大神下前(おおみわしもさき)神社】
ご祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)
式内社、気比大神四守護神の一つとして、もと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。
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奉納年不明だが、良い感じの狛犬
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社殿
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遥拝所の庇が長い。団体での参拝が多いのか。
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【末社・猿田彦神社】
大鳥居から入ってすぐにある。
ご祭神:猿田彦大神
気比大神の案内をされる神で、一般に庚申様と唱えて信仰が篤い。
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寛保3年(1743)奉納の狛犬
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社殿
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社殿の周りを岩で囲んでいる。瑞垣に代わるものか。磐境か。
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参拝者が多いのが感じられる。
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三猿の彫刻があり。
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社額
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【九社之宮】
境内の西方に位置し、九社が鎮座する。古来より気比大神の御子神等関係の神々をお祀りし、「九社之宮」として崇敬されている。

鳥居から入ると、まず二社鎮座している。
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○伊佐々別神社[いささわけじんじや]
ご祭神:御食津大神荒魂神(みけつおおかみあらみたまのかみ)。
当宮奮記によれば「古来漁捕の輩之を尊敬し奉る」とある。この社殿が北面しているのは漁拷を守る神であるから、北方の海を向いているのだと伝えられている。往昔応神天皇皇太子の時当宮に参拝され、夢に大神が現れ御名を易(か)うる事を約しまた仰せの通り翌朝浜に出てみると笥飯の清一面に余る程の御食(みけ)の魚(な)を賜わった。天皇大いに嬉び給うと共に御神威を辱なみ、武内大臣に命じて新たに荒魂(あらみたま)を勧請崇祀せしめられたのがこの社である。

○擬領神社[おおみやつこじんじや]
社記に武功狭日命(たけいさひのみこと)と伝え、一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)又は玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも云う。奮事紀には「蓋し富国国造の祖なるべし」と載せてある。

そして、本殿と並行の向きに、七社鎮座している。
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○天利劒神社【あめのとつるぎじんじや]
ご祭神:天利劒大神。
式内社、仲哀天皇当宮に参拝、宝劒を奉納せられ霊験いと奇しと云う。後に嗣(ほこら)を建て天利劒宮と称え奉り御神徳をさずかる崇敬者は多い。

○天伊弊奈彦神社[あめのいざなひこじんじや]
ご祭神:天伊弊奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)。
式内社で續日本後記に、承和7年(840)8月越前囲従二位勲一等気比大神御子無位天利傲神、天比女若御子神、天伊佐奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。

○天伊弊奈姫神社[あめのいざなひめじんじや]
ご祭神:天比女若御子大神。
式内社、社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと云う。古来縁結びの御神徳が顕著である。

○鏡神社[かがみのじんじや]
神功皇后角鹿に行啓の際種々の神宝を当宮に捧げ奉った。其の中の宝鏡が霊異を現わされたので別殿に国常立尊(くにのとこたちのみこと)と共に崇め奉り天鏡宮(あめのかがみのみや)と称え奉ったと云う。慈悲の大神として知られる。

○金神社[かねのじんじや]
素蓋鳴尊(すさのおのみこと)を祀り、家内安全の神とされている。
垣武天皇延暦23年(804)8月28日、僧空海当宮に詣で、大般若経1千巻を転読求法(てんどくぐほう)にて渡唐を祈る。嵯峨天皇弘仁7年に復び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して、鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の気比明神はこれである。

○林神社[はやしのじんじや]
林山姫神(はやまひめのかみ)を祀る。
福徳円満の大神として崇敬者が多い。延喜式所載の越中國礪波郡林神社は当社と御同体である。垣武天皇延暦4年(785)勅に依り僧最澄気比の宮に詣で求法を祈り、同7年再び下向して林神社の霊鏡を請ひ比叡山日吉神社に遷し奉った。即ち当社が江州比叡山菊比明神の本社である。

○劒神社[つるぎじんじや]
ご御祭神:姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
剛毅果断の大神として往古神明の神託があったので、薪生野村(旧敦賀郡)へ勧請し奉ったと伝えらる。

【末社・神明両宮】
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社殿西側の最奥に鎮座。
ご祭神:天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)
外宮は慶長17年(1612)3月28日、内宮は元和元年(1615)9月28日それぞれ勧請奉祀されたものである。

【絵馬堂】
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亀の池に接してあり、たくさんの絵馬が掛けられていた。
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【芭蕉の碑】
○芭蕉の像があり、台座に句が刻まれている。
「月清し遊行のもてる砂の上     はせを」
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『おくのほそ道「敦賀」』
やうやう白根が岳隠れて、比那が嵩現る。あさむづの橋を渡りて、玉江の蘆は穂に出でにけり。鴬の関を過ぎて、湯尾峠を越ゆれば、燧が城・帰山に初雁を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む。
その夜、月殊に晴れたり。『明日の夜もかくあるべきにや』と言へば、『越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし』と、あるじに酒勧められて、気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を敷けるが如し。
往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、自ら草を刈り、土石を荷ひ、泥濘をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。古例今に絶えず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持ちと申し侍ると、亭主の語りける。
「月清し遊行のもてる砂の上」
十五日、亭主の詞にたがはず雨降る。
「名月や北国日和定めなき」】

○ライオンズクラブ国際協会第42回年次大会記念碑
芭蕉翁月五句
「国々の八景更に氣比の月」
「月清し遊行のもてる砂の上」
「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」
「月いつく鐘は沈る海の底」
「名月や北国日和定なき」
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○句碑(右)と芭蕉翁杖跡碑(左)と樹齢700年と云われるタモの木
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句碑:
「なみたしくや遊行のもてる砂の露  ばせを」
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芭蕉翁杖跡碑:
「なみたしくや遊行のもてる砂の露 はせを」
「月清し遊行のもてる砂の上     はせを」
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【ユーカリの巨木】
敦賀市指定天然記念物
この巨木が北陸の寒冷地に育つことは珍しい。
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これで参拝を終え、駅に向かって急ぎましたが(北陸線は本数が少ないので、乗り遅れるとダメージが大きい)、
振り返ると、気比神宮の向こうに伊奢沙別命が降臨したという天筒山が聳えていた。
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青春18キップの旅の、次の目的地は近江高島に鎮座する「白髭神社」です。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

敦賀駅は一度だけ行ったことがあり、その時は駅から歩いて港に行きましたが、地図をみると、その途中に四季歩さんが行かれた神社があるのですね。

狛犬、沢山、写真に撮られていますが、やはり、古いダックスフント型のものは、最近のものと異なり、味がありますね!

matsumoさん

コメントありがとうございます。
ほんとうは、私も海まで行きたかったのですが、
その後神社に行ける数が減ってしまうので、
我慢しました。
狛犬は、まったく古いほうが良いです。
そして関東とは違う味でよかったですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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