伊奢沙和気命 (いざさわけのみこと)/日本の神々の話

20160809

福井県敦賀市に鎮座の「越前國一之宮・気比神宮」の祭神である。
渡来人で、製鉄に従事する人などに祀られている「天日槍(あめのひぼこ)」と同神説がある。
日本の神社のなかで一番多いといわれる八幡神社の祭神である応神天皇(誉田別命)と名前を交換したという、尋常ではない存在感の神である。

気比神宮のしおりによれば、
千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承される伊奢沙別命は笥飯大神(けひのおほかみ)、又の名を御食津大神(みけつおほかみ)と称へ奉り食物を司り給う神で、上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。また、ケは食物を意味し、ヒは霊妙(不可思議な働き)を意味するとも伝えられる。また、弘法大師が立宗された真言宗(密教)では、高野山真言宗の四大守護神(四社明神)のひとつとして祀られ、伝教大師が立宗された比叡山天台宗においても山中に氣比神社を建て守護神として祀られている。

応神天皇が去来紗別尊(いざさわけのみこと)と呼ばれた皇子から初めて皇太子となったとき、越国に行き敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)をお参りした。神の名は誉田別尊。この神に頼まれて名を交換したという。
これは『古事記』の「仲哀天皇」の巻、「気比大神」の段に記述されている。
(現代語訳)
 そこでタケシウチノ宿禰命は、その皇太子を連れて禊をしようとして、近江および若狭国を巡歴した時、越前国の角鹿に仮宮を造って、そこにお住ませ申した。ところがそこにおられるイザサワケノ大神の命が、夜の夢に現われて、「私の名を御子の御名に変えたいと思う」と仰せになった。そこでその神を祝福して申すには、「恐れ入りました。仰せのとおりに、御名をいただいて名を変え申しましょう」と申しあげた。するとまたその神が仰せられるには、「明日の朝、浜にお出かけなさいませ。名を変えたしるしの贈物をさし上げましょう」と仰せになった。
 そしてその翌朝、皇太子が浜にお出ましになったところ、鼻の傷ついた海豚(いるか)が、すべて浦いっぱいに寄り集まっていた。これを見て御子が、神に申し上げさせて、「神が私に食料の魚を下さった」と仰せになった。それでまたその神の御名をたたえて御食つ大神と名づけた。それで今に気比大神というのである。またその傷ついた海豚(いるか)の鼻の血が臭かったので、その浦を名づけて血浦といったが、今は角鹿と呼んでいる。
*「禊をしようとして」とあるのは、忍熊王(おしくまにみこと)との戦いの際に、敵軍を騙すため「御子は既に亡くなりました」と太子を死んだように言い広めた時の穢れを祓うための禊。

また、岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』では、このように書かれている。
伊奢沙和気のいざさ、乃至いささが、天日槍(あめのひぼこ)の将来した胆狭浅の大刀(いささのたち)とかかわりがあり、出石に因む名であるところからして、この大神は天日槍であると考えるむきも多い。
 伊著沙和気=天日槍説は、すでに本居宣長が『古事記伝』の中で、気比神宮の祭神について「異国の事に故ある神なるべし、共に就て、書紀垂仁巻の都怒我阿羅斯等が事、又天日槍が事に、いささか思ひ依れる事もあれど、詳ならねば云がたし」と、栗田寛は『神祇志料』の中で、「此(=祭神)は天日槍命にはあらじかと思はるゝ由あり」と書き、今井啓一はその著『天日槍』の中に「気比大神は天日槍であろう」の一章を設け、三品彰英も、大神を天日槍とする豊田亮「気比神考」を引いて同意を表明している。

付言すると、神功皇后の出身氏族「息長氏」について山尾幸久氏は、「息長氏は、五世紀の中葉から後半ごろ裏日本に来着した、新羅文化を背景にもつ加耶系有力氏族そのものであるか、またその強い影響下にそのころ在地に台頭した集団と考えられる」 (『日本古代王権形成史論』)としている。
天日槍は、新羅の王子であったが、日本にやってきたとの伝承なので、神功皇后がこの神を強く信じていたのは当然と思う。



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