余呉湖の伝説探訪

20160813

青春18キップの旅の初日(8月2日)、敦賀の気比神宮、近江高島の白髭神社のあと、ここにきました。
余呉湖(よごのうみ)は琵琶湖の北に位置する一周約6キロ、最大水深13メートルの湖。
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この写真は、今朝大垣から敦賀に向かう電車の中から撮ったもの。
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今、故郷の富山県福光町(金沢の隣町)に帰る時は北陸新幹線で大宮から金沢まで「かがやき」で2時間と5分。その前は、上越新幹線で越後湯沢まで、そこから特急「はくたか」で金沢まで帰った、4時間半。
そして、その前は東海道新幹線で米原まで、そこから特急「しらさぎ」などで帰った。
そのときには、当然余呉湖の横を走っていくので、いつも見ていた景色だ。

今回、余呉駅に立ち寄ったのは、当初計画では「乎弥(おみ)神社」。次いで隣の駅木ノ本から「伊香具神社」という計画だった。
この二社は、有名な「羽衣伝説」にゆかりの人物が祭神となっている。
が、ロマンチックな「羽衣伝説」だからではなく、もうおわかりだと思うが、気比神宮から始まって、この日訪ねているのは何れも渡来人の影が濃い神社ばかりです。
今年、武蔵国旧高麗郡では、ちょうど高麗群建郡1300年ということでかなり盛り上がり、私も渡来系神社についてかなり関心が高くなっているので。

この日、計画よりは1時間ほど先行しているので、ここで2時間使うことにして、余呉湖周囲を自転車で探索することにした。目的は余呉駅の対岸の辺にある「新羅崎神社跡」であるが、同時に伝説を訪ねることにもなった。

どうして一時間先行出来たかというと、「ムーンライトながら」で大垣に着いたら、洗面・朝食などでゆっくりしようと、30分ほど時間を取った。ところが、ほとんど眠れなかったので車内で持参のおにぎりなど食べてしまっていたし、大垣駅に着いたら皆走っていくので、それにつられて(笑)、先の電車に飛び乗ったら、米原で接続の北陸線が敦賀行き(計画では近江塩津で乗換)だったので更に効率よく、結果として1時間計画より早く敦賀に着いたのである。

ここでは、余呉駅で自転車を貸してくれることがわかっていた。
空いているかどうかドキドキだったが、まだ5台くらい余裕があった。
ここでは500円で、16:30までに返してくれれば良いということだった。

炎天下、エッチラオッチラ自転車を走らせて、まずは「天女の衣掛け柳」に。
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「天女の衣掛け柳」
左にあるのが、借りたママチャリ。
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羽衣伝説は日本各地にあるが、最古の羽衣伝説とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県長浜市の余呉湖を舞台としたものが『近江国風土記』に、京都府京丹後市峰山町を舞台としたものが『丹後国風土記』に見られます。どちらも1200年以上前に書かれたもの。
特に『近江国風土記』に書かれている説話が日本最古の羽衣伝説として有名。

『近江國風土記』から:
 「近江の国伊香の郡にある余呉の湖に天の八女(やおとめ)、ともに白鳥(しらとり)となって天より降り、湖辺で水浴をせし。この時、伊香刀美、西の山でこの白鳥を見て、この形もしや神人と疑い、浜辺に往って見るに、真にこれ神人なりき。伊香刀美、感愛を生こし、白き犬に妹の天の羽衣を盗ませし。姉の七人の天女は天上に帰りしが、妹は羽衣無く天上に帰れず。伊香刀美、この天女と夫婦となり、男女二人ずつをもうけし。兄の名は意美志留(おみしる)、弟、那志等美(なしとみ)、姉、伊是理媛(いせりひめ)、妹、奈是理媛(なせりひめ)。これは伊香連(いかごのむらじ)等の先祖でなりき。後に天女、羽衣を探し当て、天上へと帰りし。伊香刀美は一人空しく床を守り嘆くことしきりなし。」
天女の羽衣を隠した伊香刀美はこの地方を治めた伊香連の祖先とされています。

岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』では、「かって新羅の地であった江原道金剛山温井里に伝わる、羽衣伝説(依田千百子『朝鮮神話伝承の研究』による)を紹介したあと、天女伝説のあるところは決まって渡来人の多く住んだところだと言う。付け加えるなら、その渡来人の多くは新羅=伽耶系であった。余呉について言うなら、前述のように、ここには天日槍を祀る神社が二つ(新羅崎神社と鉛練比古神社)もあり、その上天日槍が山を削り、余呉湖の水を排して湖面を狭め、田畑を開拓したという言い伝えさえもあるのだ(『近江伊香郡志』)」と書かれている。

余呉湖近くにあり、最後に訪ねる予定の「乎弥(おみ)神社」の祭神は臣知人命(おみしるのみこと)と梨迹臣命(なしとみのみこと)で、この二神は天女伝説のなかの意美志留、那志等美です。
また、余呉町に隣接する木之本町大音にある「伊香具神社」は白鳳時代(七世紀後半から八世紀前半)に建立された神社で祭神は伊香津臣命で、伝説の中の伊香刀美を示し、伊香連を意味します。

衣掛け柳の下から、余呉の湖対岸の上に賤ヶ岳が見える。
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400年前の柴田勝家と羽柴秀吉との、「賎ヶ岳の合戦」でよく知られたところで、余呉湖は血の色に染まったといいます。中でも特に激しかった戦いは、勝家の先鋒佐久間盛正との戦いで、世に言う「賎ヶ岳の七本槍」 (実際は七人ではなく九人らしい。七本は後の人がつけた名称です)としてよく知られています。

いまは、真夏の昼どき、誰も居なくて静かなものです(笑)
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そこから少し行くと、天女像があった。
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左側に「天女の衣掛け柳」が見える。
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それからまた、エッチラオッチラ自転車で向かったのは、余呉湖の余呉駅と反対側にある「新羅崎神社跡」。

その目印になるのが、菊石姫伝説の「蛇の目玉石」。
その伝説は次のようなもの。
余呉湖より二丁余り西、桐畑口というところに桐畑太夫という都からの落人が住んでいた。弘仁二年の春の終わり、太夫最愛の一人の女の子が生まれました。
菊石姫と名付けられたこの娘は、7、8歳になると次第に蛇体の姿となったので、太夫も家に置いておくものではないと、屋敷から一丁余り東北の屋賀原というところに仮家を建て、捨て置きました。
食物も与えられなかったので、菊石姫のお守係の下女が憐み、自分の食物を与えて養育していました。菊石姫が十七、八歳になった夏、川並村は長い日照りに見舞われました。毎日強い夏の日差しが続き、一滴の雨も降りませんでした。 村人達は次第にしおれて行く作物を見ると、胸が締め付けられる様な思いでした。
これまで仮家に閉篭もって一歩も外へ出た事のない菊石姫が、仮家から外に出て、湖の傍に立ち、じっと湖面を眺めていました。しばらく湖面を眺めていた菊石姫は意を決して乳母に「今から、私はこの湖の主になり、雨を降らせて、村人を救ってあげます。」と言いました。
そのとき、片目を引き抜き、「龍の目玉は宝や金では求め難いもの。大切にしなさい。」と長く養育してもらったお礼として下女に与えました。
形見の品として大切にしていた目玉だったが、やはり病を治すのによく効き、その他にもいろいろ不思議なことがあました。
このことが上の人の耳に達し、差し出すように命じられました。
下女は仕方がなく差し出しましたが、龍の目は両眼とも持参せよとのご上意で、片目しかない訳を話しても追及は続く。
耐えられなくなった下女は、湖の西、新羅の森から「菊石姫、菊石姫」とよびました。すると、にわかに湖水が波立ち、水を左右に分けて乱れた髪でやって来ました。
下女は「両眼を差し出せねば、火責め水責めにあう。」と訴えた。
菊石姫は「養育の恩は深い。自分は両目を失っても命の別状ない。しかし、盲目となったら時刻を知ることはできないから、湖水の四方にお堂を建て、時を知らせる鐘をついてくれと、太夫に伝えてください。」といって目玉を抜き、石に投げつけました。
目玉のあとが石に鮮やかについた。この石を名付けて「目玉石」といいます。
目玉石のそばに、長さ3尺横1尺ばかりの石があり、これを枕に菊石姫はしばし休みました。 「これからは私を呼んではなりません。もし会いたくなったら、この石を見なさい。」そういって湖中に消えていきました。この石を「蛇の枕石」と呼んでいます。
両眼を地頭に差し出した下女は助かったが、菊石姫の母はこのことを聞いてから病の床につき、ほどなくしてなくなりました。それからは太夫も病弱になって、菊石姫のことを案じ、湖畔の7つの森にお堂を建てて、時の鐘をつかせました。
菊石姫が盲目となってより、水青く晴天の日でも底が見えなくなったといいます。

これは、余呉湖周遊の道沿いにあり、簡単にわかりました。
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「目玉石」
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道路側
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湖側
こちらに目玉のあとと思しき窪みがあり。
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ここから見える余呉湖
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さて、問題の「新羅崎神社跡」です。
いま居るところが、「白木」森であり、その山中に「新羅崎神社旧跡」と刻まれた碑が立っているのだが、上がり口は、「菊石姫と蛇の目玉石」の傍の「新羅崎の森濠」説明板のところを入っていくと説明されている。

その説明
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上りはじめてすぐに、濠跡らしきものはあり。
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さあ、そこからである・・・・・・・
石碑が、幾ら探してもわからない(泣)
時間は迫る(汗)

ついに石碑一本、ということなので、あきらめました(涙)。

新羅からの渡来人である天日槍(あめのひぼこ)関連の神社で、明治末期の神社統合のおりに廃止され、近隣の北野神社に合祀された。祭神の新羅大明神にちなんで、明治までは白木神社と書きこの一帯の森は白木の森と呼ばれたとのこと。とにかく今は1柱の石碑が残るのみである。

北野神社は、ちょっと山に入ったところにあり、最初からあきらめていました。

朝、ラッキーにも一時間ほど時間を稼げたので、ここで2時間過ごすことにしたが、まだ「乎弥(おみ)神社」が残っている。余呉駅に停まる北陸線の普通電車は1時間に1本。今日中に隣の木ノ本駅に移動して、「伊香具神社」にも行かなくてはいけない。

ということで、またエッチラオッチラ自転車で、「乎弥(おみ)神社」に向かいました。

なので、今回の記事は、それが目的ではなかったが、「伝説探訪」ということになった。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

大垣駅での「ながら」から網干行への乗り換え、4分間しかないので、初めての場合、乗れないような気になりますが、実際はほとんどの人が乗り換えられていると思います。私もいつも乗れましたし。ただし、座れない可能性もあるので、走っている人達もいるのではと思っています。

それにしても、駅に着いて、自転車でまわって、また、列車に乗って、駅に着いて自転車でまわるのですか! ものすごい強行軍ですね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
今回の旅でよくわかりましたが、
下手に休憩などの時間を予定に入れるより、
行けるときには、どんどん先に進んだ
ほうがいいですね。

時間の制約があるなかで、徒歩で
急いでまわるより、自転車のほうが
いいですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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