義仲寺(木曽義仲・巴の墓、俳聖松尾芭蕉の墓)

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所在地:滋賀県大津市馬場1丁目5-12
訪問日:2016年8月3日

青春18キップの旅の二日目、多賀大社に参拝し、彦根駅に戻り、東海道本線快速で石山まで行き、普通に乗換「膳所(ぜぜ)」駅で下車。
朝、計画より1時間20分早く出たのが、多賀大社でじっくり過ごした関係で、膳所駅に到着したのは計画より50分速い状況。

徒歩300mだというので、のんびりと歩く。
道標のある三叉路に来た。
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道標には「右義仲寺」とあります。結局どっちに行っても義仲寺に行けますが、ちょっとでもいいから旧東海道を歩きたくて右に行きます。
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旧東海道に出たら、左折。これが旧東海道。
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「東海道名所図会 義仲寺」を見ると、琵琶湖の縁を旧東海道が行ってたんですね。
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旧東海道を5、60mほど歩くと、もう義仲寺に着いてしまう(汗)
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国指定史跡です。
紫金の「しぐれても道はくもらず月の影」が刻まれた石灯篭を、キリシタン灯篭だと言う人もいるらしい。
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この義仲寺は、今回の旅でどうしても来たかった所。
木曽義仲には、かなりの思い入れがあり、また住んでいるところの近くの入間川河原で、木曽義仲の嫡子義高が討たれている。
俳聖松尾芭蕉の墓もあるので、なおさらである。

受付で拝観料を払い、チケットをいただく。
この絵もいいものだ。
「芭蕉翁絵詞伝」は、松尾芭蕉の研究と顕彰に生涯をささげた京の俳人五升庵蝶夢が、寛政4年、芭蕉百回忌に芭蕉の伝記をまとめ、狩野正栄の絵をさし入れ、絵巻物として義仲寺に奉納したもの。
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 義仲寺は、大津市馬場一丁目にあり、旧東海道に沿っている。このあたり、古くは粟津ケ原といい、琵琶湖に面し、景勝の地であった。朝日将軍木曽義仲公の御墓所である。
治承四年(1180)、義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永二年(1183)五月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、七月京都に入られた。翌寿永三年正月二十日 (四月改元して元暦元年)、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にされた。享年三十一歳。
 その後、年あって、見目麗しい尼僧が、この公の御墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名も無き女性」と答えるのみである。この尼こそ、義仲公の側室巴御前の後身であった。尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、あるいは巴寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代後期弘安ごろの文書にみられる。
 時代は移り、戟国のころには、当寺も大いに荒廃した。時に近江国守佐々木侯は、石山寺参詣の途次、この地を見て、「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」と、当寺を再建し寺領を進めた。そのころ当寺は石山寺に、近世に至って三井寺に属した。
 貞享年間(1684~8)に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎としたのは、このころからである。元禄七年(1694)十月十二日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去されたが、「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、現在地に墓を建てた。
 明和六年(1769)に蝶夢法師の中興があり、その後も、安政三年(一入実)の火災、明治二十九年(1896)の琵琶湖大洪水の後、明治四十五年と、たびたびの改修が行われたが、大東亜戦争を経て戟後において、寺内全建造物の荒廃その極に達し、壊滅に瀕した。ここにおいて、昭和四十年(1965)、三井寺円満院より買い取り、宗教法人法による単立寺院とし、寺域を整頓し、朝日堂、無名庵の改築、翁堂の修復をなし、同年の時雨忌に昭和再建落慶の法要を行った。この再建に要した一切の費用は、東京在住の一個人の篤志家の寄進によったもので、子細は境内の昭和再建碑に記されている。
 本寺は、昭和四十二年十一月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。

境内見取り図
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最初に墓参をしました。
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○義仲公墓(木曽塚)
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芭蕉翁は木曽塚ととなえた。義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年一月の第三土曜日に営む。
義仲寺のリーフレットには、芭蕉が義仲を詠んだ句を二つ載せている。
燵山にて(元禄二年)
燵山は、福井県今庄町にある源平争乱期木曽義仲の城があったといわれている。
「義仲の寝覚の山か月悲し」
この句は、倶利伽羅峠の芭蕉塚に句碑があった。

無名庵にての作(元禄四年)
「木曽の情雪や生ぬく春の草」

○巴塚
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私は、「関東36不動めぐり」で、横浜市保土ケ谷区和田にある「和田不動」を訪ねたときに、巴御前が和田義盛の妻になったと知り、驚いた。和田で亡くなったのかと思っていたが、膳所に移っていたのだった。

○山吹供養塚
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「山吹は義仲の妻そして妾とも云う病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである」と説明にある。
山吹姫については、埼玉県嵐山町の「班渓寺」に墓と位牌があり、私は何度かお参りしている。

○芭蕉翁墓
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 芭蕉翁は元禄七年(1694)十月十二日午後四時ごろ、大坂の旅舎で亡くなられた。享年五十一歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。十四日葬儀、深夜ここに埋葬した。門人ら焼香者八十人、会葬者三百余人に及んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸(じょうそう)の筆といわれる。
 芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の気節に合わせて、毎年十一月の第二土曜日に営んでいる。

○巴地蔵堂
 山門前右手の堂に、石彫地蔵尊を祀る。巴御前を追福するもので、以前より遠近の信仰深かった。八月の地蔵盆は、現在も町内の人々によって、例年奉仕されている。
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墓参を終え、あとは見学をしました。

「資料観」
 粟津文庫に収蔵の史料什宝を適時取り替え展観している。昭和五十一年秋、文庫改築のときに開設した。
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「芭蕉翁絵詞伝」
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「芭蕉翁の椿の杖」
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「木曽義仲公像」
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歌川国芳の「義仲公版画」
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「朝日堂」
 義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平、芭蕉翁、丈艸諸位ほか合わせて三十一柱の位牌を安置する。現在の朝日堂は昭和五十四年(1979)十一月改築されたものである。
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ご本尊の木彫聖観世音菩薩
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諸ご位牌
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義仲公、義高公父子の木像が納まっている厨子。
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義仲公木像(義仲寺リーフレットより)
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清水義高に関係の深い地に住んでいるので、今回の参拝の目的の一つは、厨子に納められている義高像の写真が載っている本や冊子がありはしないか探す目的があった。
ネットで探しても見つからないので。
受付の方に、希望を話したところ、受付で販売している本・資料を一緒に探したが載っていなくて、その方が色々探してくださり、写真が小さくて良くないがと、寺の資料を見せてくださった。
だいたい、どういうお姿なのかは知ることが出来たので、とても有難かった。
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「翁堂」
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 正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。
正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。天井の絵は、伊藤若沖筆四季花卉の図である。翁堂は蝶夢法師が明和六年(1769)十月に再興。翌七年に画像完成。安政三年(1856)類焼、同五年再建。現在の画像は明治二十一年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
 芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和六年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年五月の第二土曜日に行う。

伊藤若沖筆の天井画
花卉図は若冲最晩年の大仕事、石峰寺観音堂の天井画として描かれたとみられている。明治の初めに観音堂が壊された際、古美術商の手に渡り、めぐりめぐって現在、義仲寺と信行寺(非公開)に残っているのだそうです。
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「資料観」にデジタル複製されたものが一つ置いてあり、間近に見ることができた。
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芭蕉翁座像
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丈艸居士
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去来先生
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蝶夢法師陶像
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「木曽八幡社」
 木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として、古図に見える。昭和五十一年(1976)社殿鳥居を併せ新造、十一月十三日夜、遷宮の御儀を行った。
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あと、境内の句碑であるが、全部写真は撮ってきたが、記事が冗長になるので、ここでは芭蕉の句碑だけアップするに留めます。

「行春をあふミの人とおしみける  芭蕉桃靑」
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「旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉翁」
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「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉翁」
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佐渡の赤石
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これで、参拝を終え、日陰でしばしくつろぎました。
とても気持ちのいい空間でした。
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もう一度、墓石群(手前から巴、義仲、芭蕉)に気持ちを残して退出しました。
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最後に、受付で「大津絵」を買ったので、一枚載せておく。
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ここを出て、すぐのところに美味しそうなラーメン屋があったので、そこで昼食。
食べ終わって、時間を見たら計画していた電車に間に合いそうだった。先の米原駅で昼食の時間を予定に入れてあるので、あわてることは無かったが。
急ぎ足で歩いていると、クラクラッとめまいが来た。
・・・やばい、熱中症だ・・・・・

しばらく立ち止まり、休息して、気持ちは焦っているが並足で・・・・・・
それでも、予定どおり膳所駅12:03の電車に間に合って、次の目的地「南宮大社」のある、美濃の「垂井」駅に向かった。



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コメント

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四季歩さん、こんにちは

一昨年だったかの大津市に泊まった時の天気が悪い日に、琵琶湖疎水の辺りから膳所まで旧東海道歩いて、そこで、昼食後、また、琵琶湖疎水の辺りまで同じ道を戻りました。その時、義仲寺の前は通りましたが、私はお墓には興味が無いので、門前からの写真だけで中に入るのはパスしました。

当時、伊藤若沖と言う画家は全く名前を知らなかったのですが、天井画があったのですか! でも、先日、東京都美術館で見た絵とは随分、感じが異なっており、他の画家の名前を上げられてもそれを信じてしまうと思います。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
琵琶湖疎水から、この辺まで歩いてきましたか(驚)
ほんとに、matsumoさんは行動力がありますね。
ただ、このコースは面白そうだな、と思いました。
私もいつか歩いてみたいですね。

天井画は、花鳥図だとあまり「らしさ」は出ないですよね。
八方にらみの龍の天井画だと面白いですが。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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