大物主神(おおものぬしのかみ)/日本の神々の話

20160831

『古事記』では、最初「御諸山の神」と書かれ、後には「大物主神」の名で登場する。
『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。
『出雲国造神賀詞』では「倭大物主櫛瓺玉命」という。
別名:三輪明神。

大物主神は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきた。このことから、最も信仰の古い神の一柱とも考えられる。古事記によれば神武天皇の岳父、綏靖天皇の祖父にあたる。なお、大国主の分霊であるため大黒天として祀られることも多い。

『古事記』の「大国主神」の巻、「少名毘古那神と御諸山の神」の段
大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。
これが御諸山の上に鎮座しておられる神である。

『古事記』の「神武天皇」の巻、「伊須気余理比売」の段
三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。勢夜陀多良比売に何とか声をかけようと、大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)であり、後に「ホト」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の后となった。

『古事記』の「崇神天皇」の巻、「三輪山の大物主神」の段
崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依比売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。なお、『古事記』では、三輪大神は意富美和之大神とされる。
この意富多多泥古が神の子孫だと知ったわけは次のとおりである。
活玉依比売(イクタマヨリビメ)の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかし活玉依比売はそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、活玉依比売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。
この意富多多泥古命は、神君、鴨君の祖先である。

『日本書紀』では、倭迹迹日百襲姫命との神婚譚が記されている。
百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。

明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世のご本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。

「日本書紀」神功皇后摂政前紀において、気長足姫尊が筑紫に大三輪神社を創祀したところ新羅遠征のための軍兵がうまく集まったとの記述がある。このことから、大物主は水神であるとともに軍神・国の守護神であったことがうかがえる。

日本酒の造り酒屋では風習として杉玉を軒先に吊るすことがある。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれる。

戸矢学氏が『縄文の神』に書かれている解釈を要約で載せておく。
オオモノヌシは名前ではないだろう。「オオ」は強調であり、「モノ」はカミであり、「ヌシ」は当地の主宰者を表している言葉であるから、固有名詞ではない。漠然とした代名詞と考えるのが妥当だろう。
「物」とは、物部(もののふ)のことである。武力・軍事に長けた者、という意味である。これが民族名になるのは後のことだ。
それでは「偉大なる物部の主」とは、誰のことか。それは、物部氏の氏視であるウマシマジの伯父であり、後見人でもある長髄彦(ながすねひこ)である。長髄彦の本来の名は、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)、登美毘古(とみぴこ)である。ニギハヤヒが降臨した鳥見自庭山とみのしらにわやま(現・生駒)を本拠としていたことによる名であろう。
三輪山の神こそは長髄彦である。崇神王朝に崇りを為した「神宝」こそは、長髄彦の御霊代である天叢雲剣である。そして、崇り神として鎮魂されている。正体を蛇としているのはその証しだ。蛇体すなわちオロチと呼ばわるのは定める意図があってのものであって、その意図とは「崇り神」である。
三輪信仰の本質も、崇り神であって、だからこそ手厚く祀れば強力な守護神となるというのは、御霊信仰の原理である。
すなわち、かつてこの地に存在した三輪王朝こそは、長髄彦王朝であろう。
物部神社は祖神・ニギハヤヒを祀らない。それは無関係だからである。本来は長髄彦から祀るべきであるが、ヤマト朝廷を憚って、あえてウマシマジから始まるかのように装ったのだ。三輪山の神の名をオオモノヌシとするのは、尊称であろう。名前ではなく長髄彦の尊称だ。「偉大なる物部の主」という一種の代名詞である。それゆえに、本来は三輪山でしか用いられない呼び名であった。
そして、ウマシマジは神武に統治権を禅譲した。長髄彦軍による勝ち戦を、わざわざ放棄して、大将軍の長髄彦を殺してまで勝ちを譲っている。しかし、そんな馬鹿げた選択はあるはずもない。記・紀においての「不自然な記述」は、何らかの隠蔽工作があったことの痕跡なのである。


大物主神を祀る神社で今まで参拝したのは下記。
・入間川八幡神社境内・琴平神社
・武蔵国式内社・阿伎留神社(東京都あきる野市五日市)
・上野国式内社・美和神社(群馬県桐生市)
・尾張国一之宮・大神神社(愛知県一宮市)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

大国主神と大物主神、生まれが違いすぎだと思っています。だって、大国主は先祖がわかっているのに、大物主は海から来たと書かれているだけですし、加えて、本体は蛇のようですし。

造り酒屋に飾られている杉玉、そのようないわれがあったのですか! 初めて知りました。私は単に、酒の神様に感謝の意を伝えているものだと思っていました。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
大国主命は、色々な神の合体だという説を唱える
先生が居ますが、私もそれに賛成の気持ちが
あります。
大体、名前も沢山持っていますしね。
龍が各部族の信仰している動物などの合体で
誕生したように、ですね。
そうなったのは、大国主の命を奉じる出雲族が
色々な部族を制圧したからだと思います。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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