茂侶(もろ)神社(延喜式内論社)/千葉県流山市

20160929

鎮座地: 千葉県流山市三輪野山5-619
参拝日: 2016年9月23日

下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、今回残る5社に参拝です。
参加者は10名。マイクロバスで移動です。

この神社には駐車場が無いため、斜め向かいのコンビニの駐車場に置かせてもらいました。参加者がコンビニで買い物したのは勿論です。

茂侶神社の社叢
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社号標
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社格等:式内社 下総国葛飾郡茂侶神社(小)、旧社格は村社
『延書式神名帳』には小社として「下総国葛飾郡茂侶(ほろの)神社」として記載されており、その論社に当たる。論社には他に2社(松戸市と船橋市)がある。

『延書式神名帳』
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論社とは:
武内社の後裔が現在のどの神社なのかを比定する研究は古くから行われている。現代において、延書式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしや)・比定牡(ひていしゃ)などと呼ばれる。
式内社の後裔としてほぼ確実視されている神社でも、確実な証拠はほとんど無く、伝承により後裔の可能性がきわめて高い論社という扱いである。延書式編纂時以降、社名や祭神・鎮座地などが変更されたり、他の神社に合祀されたり、また、荒廃した後に復興されたりした場合、式内社の後裔と目される神社が複数になることもある。
論社には、他の研究によって後裔社だとみなされることもあるが、その神社自ら武内社だと主張することも多い。

茂侶神社自体の国史での初見は、『日本三代実録』貞観13年(817年)11月12日条「茂侶神に従五位上の神階を授ける」という記述である。その後、元慶3年(879年)9月25日に正五位上を授けられた。

当社の創建は不詳。祭神の大物主命は、奈良県の三輪山にある大神神社の分霊とされており、社名の「茂侶」は、三輪山の旧名「御諸山(みもろやま)」の「モロ」のことであると見られている。そのため、当社の鎮座する台地もまた「三輪山(三輪野山)」と呼ばれている。神宮寺跡・旧参道西平井の鳥居跡・八木郷の地名由来などから、当社は広大な神域を有していたと推測されている。

慶長3年(1598年)、江戸川が掘られたことにより神域が分断された。当神社はその東岸にあたる。そのため、元和年間に江戸川西岸に分社し、三輪神社が創建された。また、当社には江戸幕府から毎年25石の祭祀料が捧げられていた。

一の鳥居
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二の鳥居
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二の鳥居をくぐると、両側に石灯篭が並ぶ参道が真っ直ぐ社殿に延びている。
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手水舎
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拝殿
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拝殿向拝部
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拝殿内部
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本殿
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ご祭神は、大物主命
大物主命については、既に記事にしています。

その記事を読む


神紋は「三杉」
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大国主命像(平成8年・1996)
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主な神事「ジンガラ餅(1月8日)
新年祭(オビシヤ)において、鏡餅を神前にそなえたのち氏子が引きちぎりあう。餅の割れ方により、その年の作柄を占っていた。流山市指定無形民俗文化財に指定されている。
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境内の万葉歌碑
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万葉集 巻14-3386
「鳰鳥(にほどり)の 葛飾(かづしか)早稲(わせ)を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも」
(作者) 未詳。下総国の歌。
(大意) 
葛飾の早稲を神様に供える夜は身を慎まなければならないのだけれども、あのいとしい人が来たら外に立たせたままにすることができるでしょうか。とてもできません。
(注釈) 
「鳰鳥(にほどり)」は 、潜ルの意のカヅクから、葛飾(カヅシカ)につながる。「饗(にへ)す」は、その年の新(にい)物をささげることで、東国ではその夜は物忌みが厳重で、その供応にあずかる神以外は、家人はすべて外に出された。「とも」は逆接仮定条件の接続助詞、・・デアルトシテモ。「その愛(かな)しきを」は、ソノイトシイ人ヲ。「立てめやも」は、終助詞ヤモで、強い反語となり、立タセルコトガデキルダロウカ、イヤデキヤシナイ、の意。

神宮寺のなごりであろうか、入り口近くの境内に沢山の石仏が並んでいた。
中央に、不動明王などが納まる祠がある。
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その左に石仏が並ぶが、その中に四体青面金剛庚申塔があった。
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造立年不確認、剣とショケラ型青面金剛庚申塔
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元禄4年(1691)造立の、合掌型青面金剛庚申塔
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天保10年(1839)造立の、合掌型青面金剛庚申塔
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天明3年(1783)造立の、剣とショケラ型青面金剛庚申塔
背後の植え込みが近くて、満足な撮影は出来なかった。
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右側にも石仏が並ぶが、その中に三体の文字塔の庚申塔があった。
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これで、当社の参拝を終え、続いて蛟魍(みずち)神社に向かいました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

「オビシャ」って、弓で的を当てる行事だと思っていたのですが、この神社の神事は異なるようですね。それにしても、神社って、よく色々な行事が残っていますね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
「村の鎮守」と云われるように、その地域が
共同で守るものが神社ですからね。
お寺は宗派のことがあって、お寺で地域の人
全部が集まれません。
その地域の伝統行事が神社に残っている由縁です。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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