桑原神社(延喜式内社)/茨城県常総市
20161027
鎮座地:茨城県常総市国生1186
参拝日:2016年9月23日
下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、この日残る5社に参拝しましたが、茂侶(もろ)神社、蛟蝄(みずち)神社に続き当社に参拝しました。
社号標
式内社 下總國岡田郡 桑原神社、旧郷社

社伝によると宝亀三年(772)三月、当地を開拓した下総国司従四位下桑原王がその祖神を、守護神として祀ったのが起源。
ただし、桑原王は宝亀二年には上総守であるのでこの説は疑問視されている。
境内案内には、桑原王の祖・豊城入彦命、天熊人を祭神としているが他の資料では、主祭神は天熊人(天熊大人命)となっている。
『式内社調査報告』では、上毛野君の同族・桑原臣の一派が東国に下りその祖・豊城入彦命を祀ったのではないかと記されている。
当初は、現在地の東方、鬼怒川を見渡す本屋敷という台地に鎮座していたが、住民居住区の移動に伴い、延宝六年(1678)現在地に遷座したという。
式内社・桑原神社に比定されている古社だが、中世には、当社の伝承が失われ、正徳年中には香取神社と思われていたようだが享保四年(1719)本殿建替えの際に、寛永二年(1625)の棟札が発見され、桑原神社と復号されたという。
明治の社格において郷社に列し、明治四十二年二月、日枝神社と佐田彦神社を合祀した。
入り口鳥居


「桑原大明神」の説明

「平将門公史跡 桑原大明神」と書かれた石碑あり。

将門はこの近くの「豊田」に居を構えた時期がある。後に南の「岩井」に居を写した。
鬱蒼とした林の中の参道を行く。

参道は突き当り左に折れるが、そこに石碑の香取社が祀られている。
当社は、以前は香取社と称したので、その名残であろう。



手水舎

拝殿前

「桑原神社由来」の石碑あり。
これより東方、国生字本屋敷は、往古より、悠々 と流れる鬼怒川を眼下に望む台地にあった。この地 は、古墳時代の前期に、既に大きな居館があった。 貝塚あり、前方後円墳あり、竪穴式住居あり、又、 江戸時代の住居の所在も遺跡等から明らかにされた。 古くは約一六〇〇年の昔から、時に大きな館敷地 として、郡役所として、又、村人の居住集落として 使われたことが窺いしれる。
続日本紀によれば、下総の国司であった桑原王は、 宝亀三年(七七二年)に、この地(本屋敷)に桑原 神社(古明神)を創祀する。社記の祭神は、王の祖 である豊城入彦命、天熊人、稚彦命及び大山咋命で 開拓荘園の守護並びに治水と五穀豊穣を祈願せしも のである。すなわち、桑原王は農神をこの地に奉祀 し、未開拓の東国に衣食の恩恵を知らしめ、農業発 展の守護神としたものであろう。延喜年間(九〇二 年~九二二年)、従四位下鎮守府将軍平良将、将門 父子も、国亭をこの地に置き政治を行い、下総豊田 開発の祖神として尊崇す。爾来、坂東農耕の守護神 として崇拝さる。
時は流れ、江戸時代、現在地、畑地なるも、居住 地たる本屋敷、作物の収穫大なるを知り、国生の集 落は、次第に西へ移り、延宝六年(一六七八年)、 本神社を奉遷す。その後、正徳二年(一七一二年) に正一位の昇格申請したるも、古棟牌等不明の為香 取社として許可さる。享保四年(一七一九年)本殿 建替えとなり、寛永二年(一六二五年)の棟牌(日 本国関東下総国生桑原大明神造立一宇攸)を発見、 この棟牌を役所に届ける。これより四十年後の宝暦 八年(一七五八年)、当時の寺社奉行阿部伊予守よ り呼び出しがあり、延喜式内、桑原神社を証明する 書状が名主に下付さる。大いに感激した氏子たちは 法楽を奉納した。本神社、別当不動院とも、時には 五穀豊穣、安産祈願の対象として、又、民衆の憩い の場として、盆踊りや祭礼が行われ、生活の中に深 く根ざしていった。
ここに、本殿並びに拝殿改築にあたり、はるか千 数百年の時の流れを回顧し、先人の偉業をたたえ、 本神社の由来を表記する。

拝殿前の狛犬は、新しいもの。

拝殿



社額

拝殿の内部は、まったく窺えなかった。
本殿覆屋

御祭神:豊城入彦命、天熊人、稚彦命、大山咋命
配祀
稚彦命 『平成祭データ』
天熊大人命、稚彦命、猿田彦命、大山咋命 『明治神社誌料』
神紋は「右三つ巴」

境内社に参拝:
社殿右手に、石祠の大杉社(大杉大神)


4つの石祠の四社宮

拝殿左手には、石碑と青面金剛の庚申社

元文5年(1740)建立の青面金剛庚申塔

さらに石祠の稲荷社、日枝社、天神社、八坂社、八幡社、愛宕社、その他の境内社が並んでいる。
下がっている白い袋は賽銭入れ。

これで、当社の参拝を終え、続いて健田須賀神社に向かいました。
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参拝日:2016年9月23日
下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、この日残る5社に参拝しましたが、茂侶(もろ)神社、蛟蝄(みずち)神社に続き当社に参拝しました。
社号標
式内社 下總國岡田郡 桑原神社、旧郷社

社伝によると宝亀三年(772)三月、当地を開拓した下総国司従四位下桑原王がその祖神を、守護神として祀ったのが起源。
ただし、桑原王は宝亀二年には上総守であるのでこの説は疑問視されている。
境内案内には、桑原王の祖・豊城入彦命、天熊人を祭神としているが他の資料では、主祭神は天熊人(天熊大人命)となっている。
『式内社調査報告』では、上毛野君の同族・桑原臣の一派が東国に下りその祖・豊城入彦命を祀ったのではないかと記されている。
当初は、現在地の東方、鬼怒川を見渡す本屋敷という台地に鎮座していたが、住民居住区の移動に伴い、延宝六年(1678)現在地に遷座したという。
式内社・桑原神社に比定されている古社だが、中世には、当社の伝承が失われ、正徳年中には香取神社と思われていたようだが享保四年(1719)本殿建替えの際に、寛永二年(1625)の棟札が発見され、桑原神社と復号されたという。
明治の社格において郷社に列し、明治四十二年二月、日枝神社と佐田彦神社を合祀した。
入り口鳥居


「桑原大明神」の説明

「平将門公史跡 桑原大明神」と書かれた石碑あり。

将門はこの近くの「豊田」に居を構えた時期がある。後に南の「岩井」に居を写した。
鬱蒼とした林の中の参道を行く。

参道は突き当り左に折れるが、そこに石碑の香取社が祀られている。
当社は、以前は香取社と称したので、その名残であろう。



手水舎

拝殿前

「桑原神社由来」の石碑あり。
これより東方、国生字本屋敷は、往古より、悠々 と流れる鬼怒川を眼下に望む台地にあった。この地 は、古墳時代の前期に、既に大きな居館があった。 貝塚あり、前方後円墳あり、竪穴式住居あり、又、 江戸時代の住居の所在も遺跡等から明らかにされた。 古くは約一六〇〇年の昔から、時に大きな館敷地 として、郡役所として、又、村人の居住集落として 使われたことが窺いしれる。
続日本紀によれば、下総の国司であった桑原王は、 宝亀三年(七七二年)に、この地(本屋敷)に桑原 神社(古明神)を創祀する。社記の祭神は、王の祖 である豊城入彦命、天熊人、稚彦命及び大山咋命で 開拓荘園の守護並びに治水と五穀豊穣を祈願せしも のである。すなわち、桑原王は農神をこの地に奉祀 し、未開拓の東国に衣食の恩恵を知らしめ、農業発 展の守護神としたものであろう。延喜年間(九〇二 年~九二二年)、従四位下鎮守府将軍平良将、将門 父子も、国亭をこの地に置き政治を行い、下総豊田 開発の祖神として尊崇す。爾来、坂東農耕の守護神 として崇拝さる。
時は流れ、江戸時代、現在地、畑地なるも、居住 地たる本屋敷、作物の収穫大なるを知り、国生の集 落は、次第に西へ移り、延宝六年(一六七八年)、 本神社を奉遷す。その後、正徳二年(一七一二年) に正一位の昇格申請したるも、古棟牌等不明の為香 取社として許可さる。享保四年(一七一九年)本殿 建替えとなり、寛永二年(一六二五年)の棟牌(日 本国関東下総国生桑原大明神造立一宇攸)を発見、 この棟牌を役所に届ける。これより四十年後の宝暦 八年(一七五八年)、当時の寺社奉行阿部伊予守よ り呼び出しがあり、延喜式内、桑原神社を証明する 書状が名主に下付さる。大いに感激した氏子たちは 法楽を奉納した。本神社、別当不動院とも、時には 五穀豊穣、安産祈願の対象として、又、民衆の憩い の場として、盆踊りや祭礼が行われ、生活の中に深 く根ざしていった。
ここに、本殿並びに拝殿改築にあたり、はるか千 数百年の時の流れを回顧し、先人の偉業をたたえ、 本神社の由来を表記する。

拝殿前の狛犬は、新しいもの。

拝殿



社額

拝殿の内部は、まったく窺えなかった。
本殿覆屋

御祭神:豊城入彦命、天熊人、稚彦命、大山咋命
配祀
稚彦命 『平成祭データ』
天熊大人命、稚彦命、猿田彦命、大山咋命 『明治神社誌料』
神紋は「右三つ巴」

境内社に参拝:
社殿右手に、石祠の大杉社(大杉大神)


4つの石祠の四社宮

拝殿左手には、石碑と青面金剛の庚申社

元文5年(1740)建立の青面金剛庚申塔

さらに石祠の稲荷社、日枝社、天神社、八坂社、八幡社、愛宕社、その他の境内社が並んでいる。
下がっている白い袋は賽銭入れ。

これで、当社の参拝を終え、続いて健田須賀神社に向かいました。
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コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
「青面金剛庚申塔」がいいですね! 後、石祠が屋根の下にまとめられているのも面白いです。
それにしても、この神社もそうですが、祭神が随分、変わっていますね。イスラム教やキリスト教ではちょっと考えられないのではと思います。
「青面金剛庚申塔」がいいですね! 後、石祠が屋根の下にまとめられているのも面白いです。
それにしても、この神社もそうですが、祭神が随分、変わっていますね。イスラム教やキリスト教ではちょっと考えられないのではと思います。
matsumoさん
コメントありがとうございます。
「青面金剛庚申塔」はとても面白いですよ。
江戸時代に盛んだった「庚申信仰」の遺物ですが、
庚申塔の像容がとてもバリエーションが豊富で、
いま一生懸命追いかけています。
祭神については、基本的に日本では「八百万の神」、
つまりあらゆるものに神が宿るというものなので、
一つの神に絞ることが、そもそも無理なんですよね。
「青面金剛庚申塔」はとても面白いですよ。
江戸時代に盛んだった「庚申信仰」の遺物ですが、
庚申塔の像容がとてもバリエーションが豊富で、
いま一生懸命追いかけています。
祭神については、基本的に日本では「八百万の神」、
つまりあらゆるものに神が宿るというものなので、
一つの神に絞ることが、そもそも無理なんですよね。