木曽義仲挙兵の地を訪ねる/長野県上田市丸子地区

20161123

2016年11月17日に、木曽義仲に関わる史跡めぐりをした。
結果的に回ったのは、依田城上り口の宗龍寺、依田神社、依田城跡(義仲館跡)、御嶽神社、義仲挙兵の地の看板のある砂原峠、正海清水(清水義高名のもと)、岩谷堂観音。

上信越高速道の「東部湯の丸」インターで降り、ナビの助けを借りて、目的地域でのキーポイント「依田川橋」に到着。
この地方は,浅間山の麓,千曲川に沿って開けた上田盆地。
千曲川の支流依田川に沿って義仲の史跡が点在している。

ちなみに、私は現在違う姓となっているが、旧姓は「依田」であり、丸子に親戚があって子供の頃泊りがけで遊びに来た思い出がある。依田川のすぐ近くの家だった。

後述の砂原峠にあった、義仲関係史跡案内図
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治承5年(1181年)6月,以仁王の令旨に応じて木曽で旗揚げした義仲は,丸子の依田城に2年滞在。
この地で挙兵し、『平家物語』『源平盛衰記』で語り継がれる海野宿近くの「白鳥河原の勢揃」となる。

【宗龍寺】
所在地:長野県上田市御嶽堂145番地

治承4年(1180年)9月に以仁王の令旨に応じて木曽で旗揚げした義仲は、依田氏より、東西の要衝であるこの地が兵馬調達と挙兵に敵地であるとして招聘を受け,依田館に移ることを決意,ここを居城と定めた。
というのも、木曽義仲の父・源義賢の妹が嫁いでいたのが依田為実であり、今の当主・依田次郎実信は木曾義仲と従兄弟同士の関係だった。
源義朝の弟である源義賢は、埼玉県嵐山の大蔵館で、甥の悪源太源義平に討たれる。その時3歳だった義仲は討手側の温情で匿われ、木曽で育てられた。

依田城は山城であり、依田信実は麓の館を木曽義仲に譲り、自身は山城に住んだという。

その登り口にあるのが、宗龍寺である。
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少し入った所に「扇子池」があり、弁財天を祀っている。
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三門
正式には三解脱門である。
享保年間に建てられた三門は唐様造りで文久3年の火災を免れた同寺最古の伽藍。「龍宮城の門」と呼ばれ親しまれている。
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額は、佐久市内山の正安寺十六世大梅法噀大和尚の筆によるもので「伽藍摩」と揮毫されている。
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扁額の左右に鳳凰、裏面に龍の彫刻が施されている。
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本堂
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花頭窓のガラスに鐘楼の屋根が映っていた。
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 宗龍寺は文安年間(1944~1449)、室町時代に開闢したが火災で焼失。慶長5年(1600)中山勘解由左衛門宗龍を開基とし、上田市の龍洞院三世・底山元徹大和尚禅師を開山に迎え、曹洞宗中峰山宗龍寺として再建開創された。
 寺の裏の城山は、木曽義仲が挙兵の根拠地とした依田城跡であり「木曽は依田城に有りけるが」と平家物語にも語られている。また同寺は菅平根子岳、烏帽子、浅間山などを望む景勝の地で、丸子八景の一つに数えられる。

鐘楼
 大正10年建立。大戦のため提出した梵鐘を昭和37年「世界平和を祈る鐘」として復元。「おやすみの鐘」として夜9時に平和を祈り響き渡っている。
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境内に見事なモミジがあり。
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さて、依田城だが、事前調査では、頂上の城跡まではけっこう険しい山道を30分かかるらしかった。
この日はカミさん同行のため、頂上まで登るのはあきらめ、10分ほど登ると「依田城登り口」の標識があるので、そこまで登るつもりだった。
登り口がわからなくて、お寺に聞きに行くと、この間の台風ですぐ上ががけ崩れになっていて、「依田城登り口」の標識のところまでも行けない。現在誰も登るのは禁止となっている、との説明だった。

残念ながら、この先はいけない(泣)
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この山の頂上が依田城。
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三門のところから、丸子の町がよく見えた。
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【依田神社】
鎮座地:長野県上田市御嶽堂403
依田氏ゆかりの神社(氏神)だと思われるが、縁起・創建時期など不明。
義仲が戦勝を祈願し八幡社を勧進したと伝わる。
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両部鳥居
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手水鉢
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その後ろに、庚申塔が二基あり。
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石段を上がる。
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参道は真っ直ぐ。
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平成4年奉納の狛犬
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拝殿
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本殿
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神紋は「立ち梶」と「依」
「立ち梶」は諏訪大社からの関係かと思う。
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境内社・「蚕神様」
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境内社・三宝荒神
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【依田城跡(義仲館跡)】
依田城跡に向かう入口に,御嶽神社の鳥居が建っています。
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依田城とは、丸子地区御岳堂の集落後方に屏風のようにそそり立つ金鳳山まで含めた一帯をいうのだとか。山裾には,義仲が起居したという義仲館跡があります。

御嶽神社の少し手前に、参道から左に折れると館跡。
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通用門
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一族が住まいした館跡。一番奥まで行って撮りました。わりと広い。
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治承4年(1180年)9月に以仁王の令旨に応じて木曽で旗揚げした義仲は、依田氏より、東西の要衝であるこの地が兵馬調達と挙兵に敵地であるとして招聘を受け,依田館に移ることを決意,ここを居城と定めた。
そして養和元年(1181年)6月、「横田河原の合戦」を睨んで、あの白鳥河原に信濃・西上州の兵を集結させ、挙兵した。
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依田城跡から眼にする上田の街並み。
素晴らしい展望。当時義仲は、この景色を眺望しながら,熱い心をたぎらせていたのでしょう。
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右の方に浅間山も見える。
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【御嶽神社】
鎮座地:長野県上田市御嶽堂
鳥居のところの説明では、木曾の御嶽山を勧請とあるので、「おんたけじんじゃ」なのかなと思ったが、鎮座地名の御嶽堂(みたけどう)同様、地元では「みたけじんじゃ」と呼ぶらしい。

鳥居
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木立のなかを参道がまっすぐである。
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一段上がって社殿。
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社殿
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拝殿
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創祀年代は不詳。
古来、依田村内の上組の産土神として崇敬された神社。
一説には、依田城に在った木曽義仲が、「王の御嶽(みたけ)」として信仰していた木曾の御嶽山の神(大己貴命・少彦名命)を祀ったという。あるいは、奈良金峯山の蔵王権現(安閑天皇)を勧請し水分(みくまり)山である城山を御嶽(みたけ)としたという説もあるらしい。

永禄年中、武田信玄によって拝殿が造営され、天正三年(1575)六月本殿が再建された。
元は、御嶽権現と称していたが、明治三年十月、御嶽神社と改称し、明治六年四月御嶽堂・生田・東内・西内・腰越五ヶ村の郷社に列した。

ご祭神は木曾の御嶽山と同じ、大己貴命、少彦名命、安閑天皇。
社殿には御神体として、正面に黒衣束帯に彩色された地蔵尊の木像座像、右手には彩色してない地蔵尊の木像立像、左手には衣冠束帯に彩色された木像座像が祀られているらしい。

本殿
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石組の手前、境内の左手に石祠が九社並んでいる。
確認できたのは、石尊社・諏訪社・白山社・稲荷社。
他は、情報では三峯社・大神宮・金毘羅社、あとは不明。
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【砂原峠】
長野県上田市御嶽堂
木曽義仲挙兵の地の看板
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この看板があるのは砂原峠。塩田平から丸子へ鎌倉道が走っていますがその道沿いにある峠です。木曽義仲は丸子の依田城におよそ2年ほど居城し、ここで兵馬を集めて京に攻め上った。

ゆかりの史跡を示す案内図がある。
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看板の足元に「馬頭観音」がある。
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浅間山がきれいに見える。
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【正海清水】
所在地:長野県上田市御嶽堂
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鎌倉街道沿いにある湧水で、依田氏の居城で生活用水として使ったり、武田信玄も汲んだといわれています。
木曽義仲も愛用した清水といわれています。
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正海清水
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中山水道施設当時に建てられた記念碑があり、義仲軍団に愛飲されたであろう正海清水の昔をしのぶことができます。
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その訳
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その裏面に、明治に「報徳精神」から、この清水を上水道に利用した説明がある。
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上水道の水源となっているので、当然ながら鉄板による蓋がされ、鍵がかかっており、残念ながら水場として汲める場はありません。
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ここから浅間山を望む。
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※清水冠者義高
正海清水の近くには、木曽義仲の長男、義高の屋敷があり、人々は義高を「清水冠者」と呼んでいたと伝えられています。
1183年、義仲は人質として義高を源頼朝のところへ遣わし、頼朝は義高を長女「大姫」の婿としました。この夫婦の悲話が、中世の御伽草子「清水冠者物語」などに語られています。
「義仲戦死後、頼朝は義高を殺そうとした。しかし殺害計略が漏れてしまい、大姫は急を義高に知らせた。驚いた義高は女房姿に身をやつし、近習海野幸氏や望月重隆らの助けで脱出したが、追手に見つかり、入間川の河原で処刑された」
なお近習として仕えていた海野幸氏・望月重隆は、その忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた。
後に頼朝に仕え、二人とも弓の名手として重用された。

続いて最後の訪問地,岩谷堂観音がある龍洞山宝蔵寺です。

【岩谷堂観音】
所在地:長野県上田市御嶽堂84
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ここは,義仲が戦勝祈願したと伝わる、比叡山第3代座主慈覚大師円仁開基の古刹ですが、訪ねてみると義仲の事蹟だけでなく、平家の猛将とその寵姫の哀話も残っており、驚きました。

縁起(お寺のパンフレットより):
 当岩谷堂は平安時代の初期(承和元年〔834〕)比叡山の第三代座主慈覚大師円仁によって開かれ、大師御謹刻の聖観世音菩薩を安置いたす御堂で、未塗りに映える現在の堂宇は徳川時代中期、今から凡そ230年前安永6年(1778)の建立で、それ以前は現在「奥の院」と呼ばれている本堂裏の洞窟の中に安置されておりました。
 境内の下を通っております道路はかっての鎌倉街道でありまして当時の一級国道です。岩窟中に安置された霊佛と稀なる風光明眉なこの場所を往来の旅人は自から参詣の念を起し、過去の縁者の冥福と我が身の息災を祈念したものと思われる五輪塔(石塔婆)が境内から無数に発見されます。

いかにも観音霊場らしい参道を上がる。
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わりと急な石段を上がると山門があり。
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山門左右の石垣
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山門をくぐると社務所前に、義仲手植えと伝えられる「義仲桜」がある。
幹の周囲が5m近くあるしだれ桜で,樹齢800年。これは、来春ぜひとも桜の写真を撮りにこよう。
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岩谷堂観音を祀る本堂。
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彫刻が見事です。
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お参りする。
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本堂の前に、木曽義仲史跡の説明。
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本堂の横に岩窟堂があり。
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岩窟堂の正面には「楓の前」とある。
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覗くと、中央に小さな厨子が安置されていた。
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それで、お寺のパンフレットで探すと、「平景清と楓の前」の説明があった。
「平景清と楓の前」:
 平家の猛将と云われた悪七兵衛平景清は平家壇ノ浦で滅亡後一門の仇を討つべく、旅の憎に身を変えて鎌倉に向う途路、当寺に立寄ったと云われております。
これを追って景清の寵姫「楓の前」も当寺に参りましたが、景清が鎌倉で捕まったのを知り、この寺に留まり景清と平家一門の菩提のために生涯をささげたと云われており、景清公の遺品が寺宝として伝えられております。

岩窟堂の前から、本堂の後ろに入れるようになっていた。
「奥の院 洞窟観音」とある。
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洞窟の中は、そんなに深くないが、照明が無いので何があるのかまったくわからない。
とりあえずストロボで撮っておいたら、観音らしき石仏が安置されていた。
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本堂の回廊からの眺め。
眼下に丸子の町と、遠くに浅間山が見える。
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参道を上りきったところにある、「二尊堂」
阿弥陀如来と薬師如来を祀ってあった。
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義仲桜のところから右に行くと、聖徳太子堂と岩窟古墳とあり。
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落ち葉で滑りやすい、細い山道を行くと、まず聖徳太子堂があり。
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そこから、更に急斜面となり、落ち葉で滑りやすく、つかまるところも無いので、岩窟古墳に行くのは断念。
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ズームで撮ると、崩落除けにタイヤを積んである。中には入れないようだ。
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最後に降りて来た道には、「馬大門」の説明がある。
義仲は正面の石段を使わず,馬で脇参道の急坂を一気に駆け上がったと伝えられ,その参道は「馬大門」と呼ばれているそうです。
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これで、この日訪ねる予定にしていたところは全て終了。
現地に行けば、マップとか手に入って何とかなるだろうと、高をくくってやってきましたが、そういうものは見つからなくて、最初はかなりまごつきました(笑)
宗龍寺は分かっていたので、そこからスタートして、それからは、当ても無しに道を走っていて出くわしたところ(笑)
それでも、土地の方に場所を教えていただいたりして、初期の目的は果たせました。

(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

木曽義仲って、木曽生まれで、強いけれど、京都でひどいことを行ったので滅ぼされてしまったと言う意識しかなかったのですが、そうではなくて、関東生まれで、木曽で育ち、また、そのそばで挙兵したからと言うことなのですか。全く、知りませんでした。


写真のお堂の中では、「岩窟堂」がいいですね。この手の岩の所にあるお堂って、独特な感じでいいですよね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
義仲は、江戸時代大変人気が高かったのですが、
明治になって、皇国史観から貶められてしまったのですね。
木曽の兵が乱暴狼藉を働いたというイメージが
ありますが、平家が福原に都を移したため、
京都は無政府状態で、ひどいものでした。
治安を取り戻したのは、木曽義仲の兵が都に入ってからです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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