斜子(ななこ)織の復元活動

20161205

12月2日(金)に広瀬公民館で、「斜子織と広瀬」というタイトルで、講演会がありました。
高橋光昭先生から「「斜子織と広瀬」について講演があり、
その後復元された織り機により、「狭山遊糸会(ゆうしかい)」の皆さんが実演をされました。

【斜子織について】
⇒幕末から明治時代を通じ、埼玉県は全国屈指の機業県で、なかでも入間・高麗両郡は、斜子織・木綿飛白(かすり)の中心的な生産地。
⇒斜子織は魚子織、七子織ともいう絹織物。市域の上広瀬・下広瀬・柏原・入間川・上奥富の各村を中心とする斜子織は、18世紀初頭から生産を開始。
⇒各村で製織された反物は川越城下に集積、「川越斜子」の名で江戸へ搬出、越後屋・大丸などの有名呉服店で販売。
 ⇒しかし、基本的な生産手段は旧来の躄機(いざりばた)であったため生産量は伸びず、製品の質的・量的発展は高機(たかばた)が導入された、幕末期慶応年間(1856~68)以降のこと。
⇒明治26年(1893)になると、入間・高麗両郡の総生産高は3万8463反。そのうち水富村は36.4%を占める。
⇒生産形態は依然として農家の副業であったが、同村で明治19年(1886)に30戸だった生産農家が同26年には80戸、同28年には100戸へと飛躍的に増加、高機も40台から 100台、130台へと増加。
⇒生産のピークは明治35年(1902)で10万4000反を製造、産額も130万円となる。

〇発展の要因 
⇒第1は、入間川沿岸の井戸水や入間川の水そのものが、斜子織の原料糸の濯ぎ(練る)に最適だったこと。
⇒第2は、躄機(いざりばた)に代わって導入された高機が明治20年代(1887~)から急速に普及。生産力が2倍になったこと。
⇒第3は、埼玉県の強力な支援。県令の白根多助は明治10年(1877)、「斜子おり広瀬の漁のあやなるを誰れ川越の名に流しけん」と歌い、広瀬こそが斜子織の本場だと称え、土地の人々を激励して生産力の向上を支援。
⇒第4は、当時の需要に斜子織がマッチしていたこと。その後、羽二重が量産されるまで、羽織・袴・帯として庶民に愛用される。
⇒第5は、清水宗徳の提唱により生産者が「広瀬組」を結成、品質の維持・改良と粗製濫造品の混入を防止したこと。
⇒ことに明治26年(1893)、アメリカのシカゴで開催されたコロンビア世界博覧会に出品した広瀬組の斜子織が「名誉賞状」を受賞、品質のよさを絶賛される。これ以降、広瀬産の斜子織は最高級品としての地位を確立。

ただ、羽二重の普及によって、斜子織の生産は衰退してしまいます。
明治35年(1902)を境に斜子織の生産は減少、同40年代(1907~)以降になるとより顕著になる。
羽織・袴・帯として愛用されてきた斜子織が、急速に普及しはじめた羽二重に取って代わられ、急速に衰退してしまいました。

◆「斜子織の碑」(埼玉県令白根多助歌碑。広瀬神社境内)
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<表>
奈ゝこ於梨廣瀬乃 浪農安や那累遠 堂禮川越能 名尓流志計無(ななこおり広瀬の浪のあやなるを たれ川越の 名に流しけむ)
  く裏〉
本村魚子織の起因ハ古書の徴すへきものなしと雖も 當地乃早く村里となりしハ紀元壱千年餘なりし 當廣瀬神社の旧記に見へて 遠く古代に始りしものなるハ遺品と口碑に依りて疑ふべきものなし 徳川氏江戸開市の頃  白なゝこと称し漸く天下に著ハるゝ處となり 尓来三井大丸其他豪商川越なゝこと称し 大に此を賞賛し聲價を博し たるものは 実に当郷里より産出せる物にして 即ち本邦なゝこ織の嚆矢なり 往昔販路未た開けず 僅に川越商人の手に属したるより川越魚子と称せしも 尓後気運開明に趣くに従へ 万事実地を喜好するより廣瀬なゝこの名弘く世上に著ハれ 今や村名改れりと雖も廣瀬の名称は益々世に顕る 是れ他なし 各府縣の魚子織多しと雖も 当所その嚆矢なると品位卓越たるとに依りて 博覧會共進會に於て頗る賞賛を得 幾回も褒賞を授与せらるゝこと数回 文官内省の御用品となり同省の賞賛も殊に厚し 尚且つ去る明治十年十一月 故埼玉縣令白根多助君此他に巡回せられ 宗徳と親しく なゝこ織の沿革を諮問せらる 依て上にいへる事とも答へき時に 縣令感賞の餘に碑面の和歌を詠し 尚将来本業の廣張を勧諭せらる 當時同業者一同感激に耐す 益々事業の改良を圖り 併せて当所の魚子織の嚆矢たることを後世に傳んと有志議り 茲に碑を建て聯か其由を記す
明治二十四年四月 衆議院議員 清水宗徳選書

◆コロンビア世界博覧会の受賞メダル
(この日、岸野家より展示されました)
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◆「斜子織」の着物も展示されました
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【斜子織の高機の復元】
現「狭山遊糸会(ゆうしかい)」の皆さんが、斜子織を復元したいと思い立ち、地域の旧家のお宅や高齢者でご存知の方は居ないかと尋ね歩き、やっと高機が一台、柏原のお宅から寄贈されたものが狭山市博物館の倉庫にあることにたどりついたそうです。
しかし、かなりの部分が壊れ、部品もかなり失われた状態だったので、斜子織の織り機を経験した方が残存していない中で、他の織り機などを参考にしながら、文字通り手探りで、復元したのだそうで、大変なご苦労だったことが偲ばれます。

会場に展示された、その経過の写真
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【斜子織の実演】

織り機全景
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今回手作りで補修したところが、よくわかります。
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最初は、細い幅でトライしたそうです。
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今回、はじめて幅が一尺の「反物」に挑戦だそうです。
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糸繰り機も手製です。
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これから、ちゃんと織れるまで確認していって、将来は糸も生産したいと、遠大な計画をお持ちです。
なので、もっともっと仲間を増やしたいそうです。
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かって、この地域を潤していた主要な産物であった「斜子織」を復元するということは、単に過去にスポットを当てているということではないと思います。
こういう取り組みが出来るということは、自分が住んでいる地域を愛して、活気づけていくにはどうしたらいいだろうか、という気持ちを持った方が沢山居ることの現れです。

とても嬉しく、拝見、拝聴させていただきました。



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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

江戸時代末期から明治時代って、工業化の初期の時代ですよね。この手のものは、人件費が安い時代は良かったのですが、工業化が進むと、次第に工場生産となり、ついには、途上国に移ってしまいますよね。それを今の時代に復活させるとなると、趣味で行うか、ものすごい価格になってしまうと思います。

羽二重って、単に「羽二重団子」位か知らなかったので、調べてみて、ようやく、その意味がわかりました。と言っても、実際に見て、普通の織り方との差を見ないとわからないのですが。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
これは、体験型地域活性化の活動なので、
趣味とは違いますが、産業化ではないですね。
自分が住んでいる地域で、昔栄えた斜子織とは
どういったものだろう、というわけですね。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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