実盛塚(篠原古戦場)/石川県加賀市

20161215

所在地:石川県加賀市篠原新町
訪問日:2016年11月26日

この日の朝、福光で「巴塚の松」の写真を撮ったあと、家族で向かったのは「那谷寺」です。
小矢部インターから北陸高速に乗り、降りたのが片山津インター。

この日「斎藤実盛」関係の史跡を二つ訪ねることにしており、「実盛塚」が片山津ICから約1.8kmのところにあるので、まずはここに訪問した。

片山津ICから県道20号線を走れば、沿線にあるのは事前に調べて分かっていたのだが、大分通り過ぎたところで地元の人に聞いて、ようやくわかった。

駐車場もちゃんとあり。
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そこから県道20号線沿いに100mほど歩くと、民家の間に細い路地の入口がある。
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実盛塚
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倶利伽羅合戦で木曽義仲に大敗したが、平氏軍はまだ余力があり、加賀平野を南下し、篠原の地(加賀市篠原町)でなんとか態勢をたて直し、義仲に再び挑みます。
ここで敗れたことで決定的な平氏の敗戦となります。
その中でただ一騎だけ踏みとどまって戦う老武者がいました。大蔵合戦で父義賢を討たれた駒王丸(義仲)を
木曽の中原兼遠のもとへ送り届けた長井斎藤別当実盛です。
かって不憫に思って、命を助けた幼い駒王丸が今成長して敵方の将軍として兵を進めてくる。その中で恩人として情けを受けることを潔しとせず、実盛は平家の一武士として見事な最期を遂げます。

Wikipediaの記事により、斎藤実盛を紹介しておく。
斎藤実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直とも)の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。

武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。

実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。

保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。

寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。

この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かっての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。

樋口次郎兼光は中原兼遠の次男で、武蔵の児玉党と縁を結び、信濃から武蔵へよく出かけていたので、実盛を知っていたといいます。

源平の争乱の中で篠原の地で命を失った斎藤実盛を供養するために実盛の亡骸を葬ったところと伝えられている場所です。

正面には、お参りする場所が用意されている。
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石垣の周りをまわって、勢いよく茂っている松の枝の間から中をうかがう。
手前の円形の石碑は「実盛塚保存会厚志芳名の碑」
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南無阿弥陀仏と彫られた碑が中央にある。
実盛の供養塔だろう。
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円形の石碑「実盛塚保存会厚志芳名の碑」の表側を見ようとして、あちこち場所を探すが松の枝に阻まれて、よく見えない。一部のみ撮れただけ。
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この松はすごい。
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長い枝が地を這っている。
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素晴らしい松だ。
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この記事を書くため調べていたら、安宅関でも歌を詠んでいるそうだが、与謝野晶子がこの地も訪れ一首残しているそうです。
「北海が盛りたる砂にあらずして木曽の冠者がきづきたる塚」

最近、近江の高嶋・白鬚神社、江ノ島神社など、与謝野晶子の歌碑にも、よく会います。

近くには、実盛の首と義仲対面の場面の銅像のある「篠原古戦場跡公園」とか、「首洗い池」とかがあるのだが、この日は、他にも色々と行きたい所があり、同行している家族へのサービスで「那谷寺」にも行くので、今回は「実盛塚」だけにした。
但し、実盛の冑が奉納されている「多太神社」にはこの日参拝している。(別記事)

ここから「那谷寺」に向かった。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

枝垂れ桜ではよく見ますが、松で上記の写真のようにつっかえ棒をしているの、初めて見ました。京都の善峯寺の「遊龍の松」のように枝を延ばしているのは、他でも時々、見ますが。

斎藤実盛が亡くなったのは73歳だそうですが、当時で70歳以上の人って、少なかったのでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
実盛塚自体が、この地の人達によって
大事にされてきたと思います。
だから松も大事にされた結果でしょうね。
日本人らしいことだと思います。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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