多太神社/石川県小松市

20161225

鎮座地:石川県小松市上本折町72
参拝日:2016年11月26日

この日、富山県福光の「巴塚の松」、石川県加賀市の「実盛塚」、小松市の「那谷寺」、樹齢2300年の栢野大杉を回ったあと、ここに来ました。
ここには、実盛の冑が奉納されているのと、芭蕉が有名な句「むざんやな甲の下のきりぎりす」を詠んだ場所です。

社号標
式内社 加賀國能美郡 多太神社、旧県社
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多太神社由緒:
当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると 六世紀初め武烈天皇の五年に男大跡王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ、平安時代初期には延喜式内社に列している。寛弘五年(1008)に舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した。
寿永二年(1183)源平合戦のとき木曽義仲が本社に詣で、斉藤実盛の兜、鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。
室町時代初めの応永二十一年(1414)には、時衆第十四世大空上人が実盛の兜を供養された。 以来歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いて いる。
大正元年に本殿後方から発掘された八 千五百余枚に及ぶ古銭は 室町中期の十五世 紀初めに埋納されたもので 当時の本社の活 動と勢力の大きさを示すものである
慶長五年(1600)、小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出され、三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて五丁八反二四三歩を寄進されたことが記録にある。加賀三代藩主前田利常は、寛永十七年(1640)に社地を寄進し、慶 安二年(1649)の制札には、能美郡全体の総社に制定し、能美郡惣中として神社の保護と修 理にあたるべきことを決めている。
元禄二年(1689)松尾芭蕉が、奥の細道の途次本社に詣で、実盛の兜によせて感慨の句を捧げている。歴代の加賀藩主及び為政者はいたく本社を崇敬し、神領や数々の社宝を奉納になった。
明治十五年に県社に指定された。
-境内由緒石碑-

鳥居前に、実盛の兜の説明碑があり。
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鳥居掲額
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鳥居をくぐると、芭蕉像あり。
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芭蕉の句碑と解説碑があるが、これは新しいもの。以前からの句碑は拝殿前にあり。
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続いて参道には斉藤実盛像があり。
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玉垣の中に入る。
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手水舎
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昭和4年奉納の狛犬
後足が立った形で珍しい。出雲地方に多い「かまえ型」ともちょっと違う。
ありそうで、ほとんどないタイプ。
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拝殿
雪国らしい造りである。
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社額
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拝殿内部
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右手からは、本殿はほとんどうかがえず。
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左手に回ってみると、瑞垣が列柱になっていて、見ることが出来た。
本殿も、雪国らしく、石垣を高く積み、覆い屋もすっぽりと板壁で覆っている。
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御祭神は、衝桙等乎而留比古命(ツキキネトヲ・シルヒコノミコト)、仁徳天皇

衝桙等乎而留比古命だが、『出雲国風土記』に登場し、素戔嗚尊の子であるという。
多太郷(現松江市東長江町・西長江町・秋鹿町の地域)の条:
「郡家の西北五里一百二十歩の所にある。須佐能乎命の御子、衝桙等番留比古命(つきほことおひこ)が国を巡りなさったときに、ここにいらしておっしゃられたことには、「私の心は明るく正しくなった。私はここに鎮座しよう。」とおっしゃられて鎮座なさった。だから多太という。

これは、まったくの私の感想だが、出雲族が海を北上してここに定住したことをしめしているのだろうか。

神紋は「加賀梅鉢」と「菊菱」である。
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さて、問題の実盛の兜だが、撮影禁止なので、入手した資料から転載しておく。
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当社は、兜の八幡様と呼ばれ、実盛の兜を社宝としている。
この兜は、斉藤実盛の着用していたもの。
実盛は、寿永二年源平の合戦の時、加賀の篠原の地で73歳で討死にした。
初め源氏の義朝に仕えたが、平治の乱後、平家の宗盛に仕え、武蔵の国・長井の庄の別当として居住したという。
争乱の中、幼少の木曽義仲の命を救ったこともあったが、平家敗亡の軍の時、手塚の太郎光盛に討たれた。武者の黒髪を訝って首を洗ったところ、白髪が現れたという。
敵に老武者と侮られることを口惜しいと白髪を黒く染め、潔く散った老将軍であった。
その後、木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して当社へ兜を奉献し、現在、国の重要文化財となっている。

境内に、「謡曲 実盛」の説明があり。
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室町時代前期の応永21年(1414年)3月、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)で七日七夜の別時念仏を催した4日目のこと、滞在布教中の時宗の遊行14世太空のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて諸人群集のなかに姿を消したという。
これが源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたったため、太空は結縁して卒塔婆を立て、その霊魂をなぐさめたという。この話は、当時京都にまで伝わっており、「事実ならば希代の事也」と、醍醐寺座主の満済は、その日記『満済准后(まんさいじゅごう)日記』に書き留めている。そしてこの話は、おそらく時宗関係者を通じて世阿弥のもとにもたらされ、謡曲『実盛』として作品化されている。以来、遊行上人による実盛の供養が慣例化し、実盛の兜を所蔵する石川県小松市多太神社では、上人の代替わりごとに、回向が行われて現代に至っている。

拝殿前の芭蕉の句碑
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芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが300年前の元禄2年(1689年)7月25日(9月8日)であった。7月27日、小松を出発して山中温泉に向う時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。
あなむざん甲の下のきりぎりす  芭蕉
幾秋か甲にきへぬ鬢の霜     曽良
くさずりのうち珍らしや秋の風   北枝

『奥の細道』には、こう書かれている。
此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらい)のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす

境内社・松尾神社
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境内社・福久宮稲荷神社
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これで、この日の予定をすべて終了。
金沢のホテルに帰った。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

松尾芭蕉の「奧の細道」は原文で読んだことがありますが、東北や越後の印象が強くて、金沢方面までたなんてことは全く忘れていました。

ここでの芭蕉の句は、東北での句とは異なり、背景を知っていないと解釈できないものだと思います。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
ここは、ちゃんと説明がついて良いですが、
以前訪ねた児玉の雉岡城址に、この
「むざんなや甲のしたのきりぎりす」があったんですよね。
そのときは、どうしてこの句がそこにあるのか、
理解できませんでした。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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