中山道・板橋宿(その一)

20161229

中山道の「板橋宿」として、近藤勇の墓所から荒川戸田の渡しまでです。
歴史クラブの行事として、10月24日に近藤勇の墓所から縁切り榎まで歩きましたが、個人的に中山道を歩いているので、下見(9月1日)の際に確認したところ、及び12月21日に個人で縁切り榎から荒川戸田の渡しまで歩いたのを追加してあります。

コース(近藤勇の墓所から縁切り榎まで)
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【近藤勇墓所】
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 慶応4年(1868年)3月、甲斐国(山梨県)柏尾の戦いに敗れて江戸に戻った新選組は、江戸城無血開城を受けて綾瀬から下総国(千葉県)流山へと逃れ、再起を図ろうとしたが、間もなくそこで包囲され、4月3日、ついに近藤は新政府軍に投降した。先行きに絶望したためとも、自分がオトリになることで新選組本隊を逃がそうとしたためとも言われるが、その意図は定かではない。だが、いずれにしても近藤の投降によって新選組本隊は追捕を免れ、北開束から東北へと転戦を続けていくのである。
 一方、中山道を経由して江戸に向かっていた新政府の東山道総督府軍は、当時江戸を目前に控えた板橋宿に本陣を構えていた。捕縛された近藤は、取調べのため4月5日に板橋宿に移された。
 そこで近藤は平尾宿脇本陣の豊田家に幽閉され、最期の20日間ほどを過ごした。付き添っていた新選組隊士の相馬主計(後の主殿)と野村利三郎も共に捕らえられた。近藤の処遇を巡っては、薩摩藩と土佐藩の間で意見の相違があったが、結局斬首されることと決まった。
 相馬らも近藤と共に幽閉され、一緒に処刑されるはずであったが、近藤の嘆願により許されて所属藩へと戻された(途中で脱走し、新選組に合流)。相馬らが幽閉されていた場所は相馬の手記「贈友談話」などにも書かれておらず定かではないが、おそらくは板橋宿の中であったと考えられる。
 4月25日、近藤は板橋宿の近く(正確な場所は不明)にて斬首された。
 その後、明治9年(1876年)に、元新選組の永倉新八(杉村義衛と改名)や幕府奥医師であった松本良順(松本順と改名)らによって、当時の板橋宿の南東のはずれ(現在のJR板橋駅前)に新選組隊士の慰霊碑が建てられており、その脇には近藤の墓や永倉の墓(小樽にある杉村家の墓から分骨されたもの)も建てられている。
(板橋区立郷土資料館資料より)

近藤勇と新選組隊士供養碑
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近藤勇埋葬当時の墓
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近藤勇の銅像
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長倉新八の供養碑
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【むすびのけやき】
観光センターでもらったマップにあり、気になったので寄った。
近藤勇墓所と反対側のJR板橋駅前にあり。
縁切り榎があるので、それに対してか?
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傍らに「板橋驛の碑」もあり。
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【加賀公園】
この付近は、加賀藩下屋敷跡にあたる。先のルート図でオレンジの太線で囲った部分が加賀藩下屋敷だった。
加賀藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷ともに中山道に面している。上屋敷は東大の敷地内に赤門が残る本郷、中屋敷は巣鴨御籠町(現 文京区本駒込6丁目辺り)、下屋敷が板橋(現 板橋区加賀周辺一帯)にあった。
加賀藩下屋敷は、延宝7年(1679)五代目の前田綱紀が、四代将軍家綱から6万坪を拝領したのが始まり。
最終的に総面積は21万7千坪余りとなった。下屋敷は、前田家の参勤交代途中の休息、狩猟、散策などに利用された。

横の石神井川にかかる橋が「金沢橋」
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公園はまずまずの広さ
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この公園は、下屋敷全体の中で、わずかに築山の部分のみ。
丸印をつけたところ。
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築山は、あまりきれいではなかった。残念。
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横の石神井川が、桜並木で花が咲いたら見事なことが容易に想像できる。
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中山道に戻り、まず平尾宿。
板橋宿は、平尾宿、仲宿、上宿で構成されている。
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【東光寺】
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創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、度重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。

境内の石仏
昭和58年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文2年(1662)の庚申塔
「庚申曼荼羅」と呼ばれる優れたもの。
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明治になって子孫が供養のために建立した宇喜多秀家の供養塔
宇喜多秀家は秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、豊臣家を支えた。関ヶ原では西軍の副大将として奮戦するが敗れ、薩摩藩に匿われるが、自首して八丈島にながされてその地で没する。
妻が前田利家の娘・豪姫だったので、宇喜多秀家の八丈島での生活は加賀藩が支えた。
明治になり、加賀藩下屋敷跡にこの供養塔が建てられたのは、その縁からである。
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平成7年度板橋区の有形文化財に登録された、江戸時代には平尾一里塚上にあったと伝わる石地蔵菩薩坐像
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【平尾追分】
ここは、自分たちでは場所が特定できず、午後観光センターのボランティアガイドさんに教わった。
川越街道は日本橋から川越までであり、ここ板橋宿までは中山道と同じで、この平尾追分で中山道と離れる。
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川越街道について
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以前の追分の様子。
追分のところに警察があった。
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いまは、こんな感じになっていた。
交番は移っているので、以前来た時に交番を探したのだが、ピンと来なかったのだ。
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30mくらい先で、現在の17号線から左に入っていく道が、旧川越街道。
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ところどころ、こういうアーチがあり。
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この辺の旧中山道は「不動通り」と呼ばれる。その訳は「観明寺」の説明にあり。
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【観明寺】
当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、不明です。「新編武蔵風土記稿」には、延宝5年(1677)10月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。
明治6年、当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。現在も出世不動と呼ばれて親しまれています。なお不動通りの名称は、このお不動様に由来します。

門前にある庚申塔は、貫文元年(1661)8月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財になりました。
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門は、もと加賀藩下屋敷にあった赤門です。
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境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。
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その正面欄干は、名人左甚五郎作と伝わる作品。
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出世不動
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柊が花をつけていた。
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ちょっと行くと、旧安田貯蓄銀行の建物あり。
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【平尾脇本陣跡碑】
板橋平尾宿の脇本陣豊田家の屋敷跡、豊田家は代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねました。近藤勇が処刑までの間監禁され、また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが逗留したこともあります。
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【板橋三丁目縁宿広場】
中山道の説明
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向かいには、立派な銭湯があり。
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いたばし観光センターに到着。
ここで自由行動で昼食・休憩。それから観光センターに集まり、午後は縁切り榎までボランティアガイドさんに案内してもらいました。

【いたばし観光センター】
集合して、観光センター内の説明を受ける。
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皇女和宮についての説明あり。
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板橋宿についての説明あり。
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初代縁切り榎が保存されていた。
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観光センターからスタートして、最初に先述の平尾追分の場所を教えてもらい、それから再スタート。

板橋宿のアーチには、浅間山と月とウサギが。
ウサギのマスコットは「ラッピー」と言い、ハッピーとラビットを掛け合わせた、この商店街のシンボルらしい。
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仲宿に入ります。
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大正15年建築の坂五商店
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【遍照寺(馬繋ぎ場跡)】
江戸時代は大日山と号し、区内内唯一の天台宗寺院であったが明治4年廃寺となった。その後明治14年旭不動尊と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっています。
境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立などがつながれていた。明治40年(1907)頃まで、馬市も開かれていた。
境内にまつられる寛政10年〈1798〉建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめる。
また、堂内には上宿の居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められている。

下見のときには見逃してしまった入り口
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ただ空き地が広がっていた。
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町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額と駅馬模型は、写真を見せてもらった。
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広場の手前に石仏群があり。
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三猿の庚申塔
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ユニークな顔の馬頭観音
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一番奥にも石仏群あり。
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ここから先は、次回記事とします。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

近藤勇ですか。氏は新撰組の時が頂点で、その後は冴えない感じですね。その上、斬首とは。そのだったら、京都で切腹した方が、後の世から讃えられたと思います。

写真の銭湯、寺社様式の建物ですが、都区内でも銭湯はドンドン、減っているいる上、建て替えられた場合はビルになるので、見つけ次第、写真に撮っています。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
新選組の人気はすごいですね。
私は、どちらかというと、そうでもないです。
私は東京に出てきて、一時期銭湯に通った時期が
あったので、銭湯が消えていくのは
寂しいですね。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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