白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)/日本の神々の話

20170207

二十二代清寧天皇のことである。
『古事記』では白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)と記される。

雄略天皇を父とし、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の娘韓媛。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。

葛城 円:
紀元5世紀ごろに活躍した葛城氏の豪族。曾祖父は武内宿禰とあるので名門である。
履中天皇2年(401年)、国政に参加する。安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまう。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛(からひめ)と葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される。(『日本書紀』)

葛城韓媛:
5世紀半ば、雄略天皇の皇子時代からの妃。葛城円 大臣の娘。安康天皇の死後,皇位継承争いが発生したが、『日本書紀』雄略天皇即位前紀によると、眉輪王と雄略天皇の兄の坂合黒彦皇子が円大臣の家へ逃げ込んだ。円は雄略天皇に娘の韓媛と葛城(奈良県御所市西部)の宅7区を献上してかくまった罪の許しを求めた。結局は許されず円は殺されたが、韓媛は雄略の妃となった。『古事記』安康天皇の条によると,雄略はすでに妻問いをしており相手を知っていた。葛城氏の没落により、以後葛城氏出身の后妃はいない。

雄略天皇22年に立太子し、翌年雄略の崩御にともない即位するが、雄略天皇は死に臨んで世事全般を皇太子(清寧天皇)に託し、臣下に対しても、期待を込めた遺詔を残している。

雄略天皇の妃吉備稚媛(きびのわかひめ)には、星川と磐城という二人の皇子がいた。清寧天皇には異母兄である。吉備稚媛は以前から自分の産んだ星川皇子(ほしかわのおうじ)を皇位に就けたがっていた。そして日頃から皇子に対して、「天下を取るためにはまず大蔵を制圧しなければならない。」と言い聞かせていた。雄略天皇が崩御すると、星川皇子は母の教えに従って、長兄・磐城皇子の制止も聞かず大蔵を攻めて手中に収める。そして大蔵の中の官物を勝手気ままに使い出した。事態を憂慮した家臣の大伴室屋(おおとものむろや)大連や東漢掬直らは、遺詔に従って皇太子(清寧)を守ろうと兵を挙げ、大蔵を取り囲んで星川皇子を焼き殺 してしまう。そして皇位のしるしである鏡・剣を皇太子に奉った。

清寧天皇には子供が無かった。
次代天皇となる二王子発見の物語が、『古事記』では死後発見されることになっており、『日本書紀』では清寧天皇が探し出すことになっている。

ここでは『古事記』に基づいて書いておく。
白髪大倭根子命は伊波礼の甕栗(みかくり)の宮にて、天下を治めた。この天皇には皇后が無く、亦御子も無かったのて゛、御名代として白髪部を定めた。それで、天皇が亡くなられた後、天下を治めるべき王がおいでにならなかった。ここに、皇位を継ぐべき王を問うたところ、市辺忍歯別王の妹忍海郎女、亦の名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺の宮にいらっしゃった。
(市辺忍歯別王とは、履中天皇の第1皇子で父雄略天皇の叔父にあたり、雄略天皇に殺害された)

『古事記』では暗に、『日本書紀』でははっきりと飯豊王が皇位を継承したと記している。

さて、山部連小楯(やまのべのむらじおだて) とうい人が針間国(播磨国、兵庫県南部)の長官に任じられ、その国に住む志自牟(しじむ)という人の家の新築の宴会に訪れた時のことです。
宴もたけなわになったころ、竈の傍に火を焚く係りの子供が二人いたのですが、その子達にも舞をさせようということになりました。
どうやらこの二人は兄弟のようで、 「兄上が先に舞って下さい。」「いやいや、お前が先に舞いなさい。」と譲り合っている様子を見て、集まっていた人たちは笑い合いました。
結局、兄が初めに舞う事になり、兄が舞い終わると、次に弟は調子をつけて歌うように、こう言ったのです。
「武人(ぶじん)の我が兄上が、佩いている太刀の柄(つか)に 、赤い色を塗りつけ、その紐には赤い布を飾り、赤い旗を立てると、幾重にも重なって、見えない山の峰の竹を刈り、その竹の先を、なびかせるように、また八弦(はちげん)の琴を、奏でるようにして、天下をお治めになった、伊耶本和気天皇(いざほわけのすめらみこと:履中天皇)の、御子の、市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の、今は奴となっている、その子が私である。」
これを聞いた山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は驚いて床から転げ落ちてしまいました。

山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は、その家の人を追い出すと、二人の御子を左右の膝の上に乗せ、泣いて喜びました。そして仮宮を作り、その宮に御子を連れてくると、早馬の使者を走らせました。
その知らせを聞いた叔母の飯豊王(いいよどのみこ)は大変喜んで、兄弟を角刺宮(つのさしのみや)に迎えました。

こうして市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の御子である袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと)は近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)で八年間天下を治めました。
第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう)です。

ここで天皇の系図を確認すると、二十二代清寧天皇、二十三代顕宗天皇となっている。
『古事記』でも『日本書紀』でも飯豊王が皇位を継承したと記しているのだが。
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この神には、飯能市岩沢の白髭(しらが)白山神社と熊谷市妻沼の白髪(しらかみ)神社の祭神として参拝している。
この神をまつる神社が、飯能と熊谷にポツンとあるのは何故かと考えてみた。
『古事記』によれば、「この天皇には皇后がなく、また御子もなかった。そこで天皇の御名代として白髪部をお定めになった。」とある。
この「白髪部」とは、白髪部舎人(とねり),膳夫(かしわで),靫負(ゆげい)の区分があり、天皇の宮に出仕した舎人以下のトモ(伴)の資養にあてられたベ(部)であることを示す。白髪部という氏姓は,武蔵,上総,下野,美濃などの東国と山背,備中などに分布するようで、のちに「白壁皇子」が出た時代に同じ名前は恐れ多いと「真壁」に改称した氏もあるそうである。
飯能岩沢と熊谷市妻沼には、「白髪部」の部民が住んでいて、白髮大倭根子命を祀ったのではないかと思われる。



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