名草戸畔(なぐさ とべ)/日本の神々の話

20170310

日本書紀や和歌山市の伝承に登場する女神。
戸矢学氏の『縄文の神』によれば、縄文神。

「名草戸畔」は日本書紀での名で、地元では「名草姫(なぐさひめ)」とも。
一説に、名草戸畔とは特定の人物の名ではなく、「名草の長」という地位を表す言葉であるという。

名草邑(のちの名草郡あたり、現在の和歌山市名草山周辺)の統治者だった。しかし、神武東征で進軍中だったイワレヒコ(のちの神武天皇)との戦いで戦死した。
名草戸畔の死後は、代わって紀氏が紀伊を治めた。紀氏は、自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることで、正当性を主張した。

『日本書紀』では、「巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月」冒頭のところで、
「六月乙未朔丁巳 軍至名草邑 則誅名草戸畔者〈戸畔 此云妬鼙〉 (鼙は鼓の下に卑)」とある。
(訳)
(旧暦6月1日、軍が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者〈戸畔はトベと読む〉を誅殺した。)

これが、名草戸畔や名草邑に関する唯一の記述である。
紀元前660年とされる神武天皇即位の3年前のことで、神武の兄五瀬命の死の後、狭野を越え熊野神邑から再度海路を征く前の話である。

一方、地元の伝承は次のように伝える。
熊野古道を現海南市に少し入ったそばのクモ池周辺が戦場になった。名草戸畔はここで殺され、頭、胴、足(脚の意か)が切り離された。
名草の住民により、頭は宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはらさん)、足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬された。
和歌山市のいくつかの神社は名草姫命(名草戸畔)と名草彦命を祀っており、その本社は吉原の中言神社である。名草姫命と名草彦命の関係ははっきりしない。

現在、『名草戸畔(なぐさとべ)古代紀国の女王伝説/なかひら まい(著者)』という本が出ている。(未読)
この作品は、名草地方(現在の和歌山市と海南市)で語り継がれてきた古代の女王名草戸畔(なぐさとべ)の伝承をもとに構成したもの。

戸矢学氏の『縄文の神』では、下記のように書かれている。
まつろわぬ神
神武軍がヤマトに入る際に、各地で激戦があり、族長を殺害している。
ナグサトベ、ニシキトベ、エウカシ、ヤソタケル、ナガスネヒコといった名が『日本書紀』には見られる。ヤソタケルは「有尾人」であるとも記される。彼らはこの地の土着の人々であり、すなわち縄文人の族長・首長であろう。
この時代、族長の多くは同時に宗教的権威でもあって、すなわちその一族の〝神〃である。
これらの神々を殺すことで、神武軍は征服を成し遂げていく。「神殺し」こそは、征服の証しなのだ。
しかし「神殺し」の真相は、必ずしも物理的な殺害ではない。
『日本書紀』を詳細に見ると、殺されたはずの族長とおぼしき人物が、名を一部変えて、さらに地位を得て臣従 していることに気付くだろう。微妙にタイムラグを設定しながらも記録を残しているのは、その子孫が現存するからだ。たとえ史書の上でとは言いながらも彼らの先祖を勝手に殺すわけにはいかない。彼らは、もとは敵対していたのに、その後帰順した大事な“臣民〟だからだ。
それに実際に殺害されたのは、ごく一部だろう。政治的には殺害する必要はなく、新たな神に代えれば、帰順したこととなるのだ。新たな神とは、アマテラスである。
名草戸畔などの挿話もその一つであろう。名草邑の首長・ナグサトベは殺されたことにし、その神威を吸収した新たな神を生む。この手法は、古代にしばしば使われたもので、私たちが今認識している信仰・祭祀の姿はその過程を経た後のものである。
まつろう神があれば、まつろわぬ神がいる。
まつろう神とは弥生神であって、まつろわぬ神とは縄文神である。



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