山の辺の道(狭井神社~桧原神社)・出雲屋敷跡

20170512

3月23日、青春18キップの旅二日目、素佐男神社、大神神社、狭井神社参拝のあと、山の辺の道を「茅原の出雲屋敷跡」周辺を訪ね、ついでに桧原神社まで山の辺の道を歩いた。

今回の青春18キップの旅のサブテーマは「出雲族の痕跡探索」であり、一日目も下鴨神社横に広がる「出雲路」地区を探索した。
ここ大和にも、当然その痕跡はあるが、効率よく神社巡りをしつつなので、「茅原の出雲屋敷跡」と「草川の出雲屋敷跡」を訪ねることにした。
「草川の出雲屋敷跡」は、午後にJR巻向駅から穴師兵主神社を訪ねるときに通ることにして、
ここでは「茅原の出雲屋敷跡」である。

この情報は岡本雅亨氏の『出雲を源郷とする人たち』から得た。

『出雲を源郷とする人たち』に掲載の図
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栄長増文氏の『大和出雲の新発見』では、出雲屋敷と呼ばれる地が、纏向山の宮古谷、兵主神社一の鳥居近くの草川、神武天皇聖蹟碑建立地あたりの茅原の三カ所が挙げられている。

茅原の出雲屋敷については、1943年、内閣官房総務課が刊行した『紀元二千六百年祝典記録』において、「神武天皇聖蹟ノ調査保存顕彰」 事業報告で、神武天皇が伊須気余理比売命の家で一夜を過ごした所は、「裡俗此の辺を出雲屋敷と称す」としている。

狭井神社前の山の辺の道を「玄賓庵」の方向に向かう。
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しばらく、狭い道が続く。
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展望が開けたところに歌碑あり。
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狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
/伊須気余理比売
筆:月山貞一

意味:
狭井河の方から雲が立ち起こって、
畝傍山の樹の葉が騒いでいる。
風が吹き出しますよ。

神武天皇がお隠れになってから、その庶兄の当芸志美美命が、皇后の伊須気余理比売に言い寄るのであるがその時に、三人の皇子たちを殺そうとして謀ったので、母君の伊須気余理比売がご心配になって、歌でこの事を御子たちにお知らせになった。
神武天皇の皇后の伊須気余理比売の歌で、叙景歌であるが、危急を知らせる風刺歌である。「風吹かむとす」は危険が迫っていることの隠喩。

そのすぐ先に「狭井川」があり。
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山の辺の道の下のほうは、まあまあだが、
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山の方は、ほんとに小さい川である。
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その狭井川のほとりにある建物は、1965年に人間国宝の月山貞一(がっさんさだいち)刀匠が開いた日本刀鍛錬道場である。
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国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀工月山貞一(1907~1995)は、明治40(1907)年11月8目、大阪市東区鎗屋町に刀鍛冶月山貞勝の第三子として生まれる。本名昇(のぼる)。
月山家は鎌倉時代に発祥した出羽月山鍛冶を祖とし、享和元年に生まれ家業を継いで月山鍛冶となった月山貞吉(本名奥山弥八郎)が天保4年ころに大阪に移住したことに始まる大阪月山家の正系に当たる。
大正7(1918)年、初代貞一の死去のころから父貞勝より刀工を学び、同12年16歳で大阪美術協会展に貞光の銘で初入選。昭和2年から3年にわたり、内務省神宮司庁の依頼により父とともに皇大神宮式年御料神宝太刀58振、鉾43柄の制作にあたる。同4年父とともに昭和天皇の佩刀、大元帥刀を制作。同10年大阪から奈良吉野山に鍛刀場を移し、同18年奈良樫原の月山日本刀鍛錬場に移る。同年12月父の死去に伴い、大阪陸軍造兵廠軍刀鍛錬所の責任者となる。同20年8月敗戦後、マッカーサー指令により刀剣製造が禁止され、伝統技術衰退の危機をむかえるが、その中にあって同23年財団法人日本美術刀剣保存協会が設立され、同29年武器製造法令により文化財保護委員会から作刀許可を受けて日本刀制作の伝統保存が計られるようになるまで、刀鍛冶の火を守り続けた。同31年刀銘貞光を貞照とし、同41年祖父の銘を受けて二代貞一を襲名。
この間の同40年奈良県桜井市茅原に月山日本刀鍛錬道場を開設する。

情報では、奥出雲(日刀たたら)産の玉鋼による作刀が行われていたそうである。

ここから開けた感じになり、いよいよ「出雲屋敷跡」だなと思わせる。
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【出雲屋敷跡】

人里だという感じである。
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額田王の歌碑があった。
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(長歌) うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の間に いかくるまで 道のくま いさかるまでに  つばらにも 見つつ行かむを  しばしばも みさけむ山を 心なく 雲の  かくさふべしや
(反歌) 三輪山を しかもかくすか 雲だにも 心あらなむ かくさふべしや

調べてみると、この歌は近江遷都にあたって、詠われた歌だという。

意味:
(長歌) 美しい三輪の山、あの山が奈良の山の山の間にかくれるまで、長い道の幾曲りを重ねるまで、しみじみとふりかえり見ながら行こうものを、幾度も幾度もふりさけて眺めてやろうと思う 山であるに、その山を、無情にも、雲がさへぎりかくすといふ事があるべきか。

(反歌) 三輪山をあんなにかくすのかナア。せめて雲だけでも思いやりがあってほしいものだ。あんなにかくすといふ事もあるべきだろうか。

うま酒:三輪の枕詞
あおによし:奈良の枕詞
道のくま:道の曲がり角
いさかるまで:い積るまでに 道の曲がり角がいくつも重なるまでに

その反対側にも歌碑があり。
これは気が付かずに行き過ぎるところだったが、後述のカフェの人が教えてくれた。

神武天皇の歌碑である。
来たほうを振り返る。
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道路から上がったところに、小さな歌碑がポツンとあり。
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歌は「葦原の しけしき小屋に 菅畳 いやさや敷きて わが二人寝し」

これは『古事記』、「神武天皇の巻、「伊須気余理比売」の段に書かれている。
ちょっと長いが、現代語訳で載せておく。

 さて、イハレピコノ命(神武天皇)が日向におられたときに、阿多の小椅君の妹のアヒラヒメという名の女性と結婚してお生みになった子に、タギシミミノ命とキスミミノ命の二柱がおられた。
けれどもさらに皇后とする少女をさがし求められたとき、オホクメノ命が申すには、「ここによい少女がおります。この少女を神の御子と伝えています。神の御子というわけは、三島のミゾクヒの娘に、セヤダタラヒメという名の容姿の美しい少女がありました。それで三輪のオホモノヌシノ神が、この少女を見て気に入って、その少女が大便をするとき、丹塗りの矢と化して、その大便をする厠の溝を流れ下って、その少女の陰部を突きました。そこでその少女が驚いて、走り回りあわてふためきました。そしてその矢を持って来て、床のそばに置きますと、矢はたちまちりっぱな男性に変わって、やがてその少女と結婚して生んだ子の名を、ホトタタライススキヒメノ命といい、またの名をヒメタタライスケヨリヒメといいます。
これはその「ほと」ということばをきらって、後に改めた名である。こういうわけで神の御子と申すのです」 と申し上げた。
 さて、七人の少女が、高佐士野に出て野遊びをしていた。イスケヨリヒメもその中に加わっていた。するとオホクメノ命は、そのイスケヨリヒメの姿を見て、歌でもって天皇に申し上げるには、
「大和の高佐士野を七人行く少女たちよ、その中のだれを妻としようか。」
このときイスケヨリヒメは、その少女たちの先頭に立っていた。そこで天皇は、その少女たちを見て、お心の中でイスケヨリヒメが一番前に立っているのをお知りになり、歌をもってお答えになるには、
「ともかくも一番先に立っている、年上の少女を妻としよう。」
そこでオホクメノ命が、天皇のおことばをそのイスケヨリヒメに告げ明かしたとき、姫はそのオホクメノ命の入墨をした鋭い目を見て、ふしぎに思って歌っていうには、
「あま鳥・つつ・千鳥・しととのように、どうして目じりに入墨をして、鋭い目をしているのですか。」
するとオホクメノ命が答えて歌っていうには、
「お嬢さんにじかにお逢いしたいと思って、私は入墨をしてこんなに鋭い目をしているのです。」
こうしてその少女は、天皇に「お仕えいたしましょう」と申した。
 ところでそのイスケヨリヒメの家は、狭井河のほとりにあった。天皇は、そのイスケヨリヒメのもとにお出かけになって、一夜おやすみになった。その河を佐韋河というわけは、その河のほとりに山百合がたくさん生えていた。それで、その山百合の草の名を取って佐韋河と名づけた。
山百合の本の名は佐韋というのである。 その後、そのイスケヨリヒメが宮中に参内したとき、天皇が御歌にお歌いになるには、

葦原の中の荒れたきたない小屋に、菅の筵を清らかにすがすがしく敷きつめて、私たちは二人で寝たことだ。

そしてお生まれになった御子の名は、ヒコヤヰノ命、次にカムヤヰミミノ命、次にカムヌナカハミミノ命(綏靖天皇)の三柱である。

この川の辺は山百合が多いので、その名をとってサヰ川と名づけたという。
4月18日大神神社と狭井神社で行われる鎮花祭(はなしずめのまつり)と、率川神社(いさがわ)の6月17日、三枝祭(さいぐさまつり、三輪山の麗に咲いた笹百合の花で飾った酒樽を神前に供える)の起源を思わせる。

大神神社で買い求めた『三輪山の神々』という本の中で、塚口義信氏は、この「聖婚」の意味を次のように記述している。
「狭井川のほとりに住んでいたイスケヨリヒメが大物主神の娘であったということは、要するに、イスケヨリヒメが大物主神を祭っていた巫女であったことにほかなりません。だから神武天皇はどうしても、この女性と聖婚をする必要があったわけです。そうでなければ、大和の国の宗教的権威を手中に収めることができなかったのです。ただし、これが歴史的事実に基づくものではなく、あくまでも観念上のものであるということについては、ここで改めて申し上げるまでもない」

大和地方を支配していた、大物主神(大国主の和魂)を奉じる出雲族を「天孫族」が武力で征服し、次いで精神的に支配したのが、この「聖婚」であると考えることができると思う。
そして神武天皇と出雲族の姫との間に出来た子が、綏靖天皇となる。


この辺は、山間に挟まれた平地であり、果樹の畑などが広がっていた。
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当初、この小さな神武天皇の歌碑に気付かずに通り過ぎようとしたが、ここに瀟洒なカフェがあり、この辺の土地の人に話を聞きたい気持ちもあったので、このカフェで休むことにした。
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コーヒーを飲みながら聞けば、この土地の若い夫婦がやっているカフェであった。

・この辺に何も説明する表示は無いが「出雲屋敷跡」だということは、お二人は知っていた。
・この辺には「出雲」という姓の家は無い。
・カフェのご主人が、歌碑はわかりましたか?と聞いて来たので、伊須気余理比売と額田王のがあったと答えると、神武天皇の歌碑を教えてくれた。きっと小さいので見過ごす人が多くて、教える機会が多いのだろう。

コーヒーも美味しかったし、気持ちのいい空間でした。

また歩き出してすぐに、大神神社の末社・貴船神社があった。
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ここにも社殿の横に磐座があった。
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しばらく開けたところを行きますが、また山にかかります。
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山道をしばらく歩く。
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「玄賓庵」の前に出ました。
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時間の関係から、残念ですが寄りませんでした。

かなり気になった石仏群だったが、通り過ぎました。
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ちょっと険しい山道に。
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小林秀雄氏筆の「山邊道」碑
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また、山道を進んでいく。
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滝の入り口に歌碑あり。
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歌:高市皇子尊  巻2-158
筆:安田靫彦

山振之 立儀足 山清水 酌ニ雖行 道之白鳴
やまぶきの たちしげみたる やましみず くみにゆかめど みちのしらなく

山吹が花のよそおいをこらしている山の清水を汲みに行こうと思うが、道のわからないこと。

山吹の黄と、清水の泉とを合わせて黄泉(よみ)の国の意を裏に含ませている。
また、黄泉の国まで訪ねていくことを上からの縁で「汲ミニ行ク」と言っている。

高市皇子が、十市皇女の急逝に三首の歌を作った内の一つ。
あとの二首は、
 神山の 山邊真蘇木綿 みじか木綿 かくのみ故に 長しと思ひき 
  
 三諸の 神の神杉 夢にだに 見むとすれども 寝ねる夜ぞ多き
    三輪山の神杉を見るように、せめて夢にだけでも 十市皇女を見ようとするけれど、
悲しみのために眠れず、夢さえもみることのできない夜が多いことだ

十市皇女は、父が天武天皇、母は額田王。大友皇子(天智天皇の皇子)の妃となる。
壬申の乱で父と夫が戦い、板ばさみとなる。
戦いが終わり、5年9ヶ月後の天武7年4月(678年)発病し、急逝した。
高市皇子は、天武天皇の長子で十市皇女とは異母兄妹になる。

奥の滝は、山の辺の道を歩いてきた者にとっては「甘露の滝」である。
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しばらく行くと、桧原神社に到着だが、その直前に万葉歌碑あり。

歌:柿本人麻呂  巻10-1814
筆:徳川宗敬
古 人之殖兼 杉枝 霞霏「雨微」 春者来良芝
古の人の植ゑけむ杉か枝に霞たなひく春は来ぬらし
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桧原神社に到着しました。
次回の記事とします。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

私も「狭井神社~桧原神社」を歩きましたが、四季歩さんとは一部、違った道を歩いたようです。と言うのは、元々の目的の1つが紅葉だったので、それに導かれて、池の畔にある「八大龍(実際は「雨」+「龍」)王弁財天」に行きました。

「玄賓庵」は入りましたが、石仏が沢山あって、雰囲気が良い場所でした。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
山の辺の道は、歩いていて楽しいですね。
今度は、山の辺の道だけを楽しむために
行きたいです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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