相撲神社

20170603

鎮座地:奈良県桜井市大字穴師
参拝日:2017年3月23日

青春18キップ二日目の午後、JR纏向駅から山の辺の道を歩いてきましたが、目的地は相撲神社と穴師坐兵主神社です。

手前に相撲神社があり、奥に穴師坐兵主神社がある。
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山の辺の道沿いに「カタヤケシ」の説明あり。
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この説明を読んで疑問に思ったのは、「カタヤケシ」というのはこの辺の地名であるみたいだが、どうしてカタカナなのか?

家に帰ってから調べてみたが、ベストアンサーは下記URLサイトにあり。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/180508.html

結局、カタカナでしか表されていない。
アイヌ語など古語の地名がそのまま残っている場合、たいていは漢字が当て字されているが、それかもしれない。

相撲神社と石標
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社号標だと思い、近寄って読むと「穴師大明神大宮司 祭神野見宿禰公」とあり。
この相撲神社は、大兵主神社(穴師坐兵主神社)の摂社だということがわかります。
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 『日本書紀』は第11代垂仁天皇7年のこととして、次のような逸話を伝えている。その頃、當麻邑に當麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢がいて、何とかして強力な者と命がけで力比べをしたいと言っていた。そのことを聞いた天皇は、當麻蹶速に勝る者を探させた。そして見つけだしたのが出雲の国の野見宿禰である。早速二人による我が国初の天覧相撲がこの地で催された。試合の結果は野見宿禰の圧勝に終わった。當麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺してしまった。天皇は當麻蹶速の土地を没収して、野見宿禰に与えられた。野見宿禰はそのままとどまって天皇に仕えたという。

わが国初の天覧相撲の後、皇極天皇元年(642)には、宮中において百済からの使者をもてなすために相撲が行われました。
聖武天皇の時代にも宮中の庭で相撲が取られ、さらに平安時代には相撲節会(すまいのせちえ)として定着していくようになります。相撲節会とは宮中の年中行事の一つで、毎年陰暦7月26、27、28日の3日間にわたって、諸国から召し出された相撲人が天皇の御前で相撲を取ったと言い伝えられます。


石造明神鳥居
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力士像
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土俵
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ここが、国技発祥の地だという説明。
昭和37年(1962)10月6日には、相撲発祥の伝承地である相撲神社境内のカタヤケシに於いて、当時の時津風理事長を祭主に、大鵬、柏戸の両横綱以下全幕内力士が参列して手数入り(てずいり 横綱の土俵入り)が奉納されている。
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社殿
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ご祭神:野見宿繭

 野見宿繭は日本書紀・垂仁天皇32年7月の条に、再び埴輪の考案者として登場する。
垂仁天皇の母の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなられたとき、身狭の築坂に陵を築き葬った。このとき、近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めた。数日たっても死にきらず彼らの泣き声が昼夜にわたって聞こえ、死んだ後の腐乱した死体を犬や鳥が集まってきて食べた。天皇は彼らのうめき声に心を痛め、それ以後殉死を禁止した。

皇后の送葬にあたり殉死(近習の生埋め)に代わる方法を望んだ天皇に対し、野見宿禰が出雲国の土部(はじべ 土器作りの職人)百人を呼びよせて埴土(はにつち)で人や馬などを作り、陵墓に供えることを提案。天皇は喜んで宿禰の案を採用し、功賞として鍛地(かたしところ 陶器を成熟させる地)を授け、土師の職に任じたという。この時、出雲から来た土部たちが住み着いた地が今の桜井市出雲、というのが先の伝承だ。出雲集落の古墳が古くから野見宿禰塚と呼ばれてきたことも、宿禰の故地という意識があったことを物語る。

野見宿禰の墓と伝えられる五輪塔が現在、桜井市出雲にある十二柱神社の境内に建っている。その野見宿禰の塚が、明治16年(1883)まで五輪塔の西南約150mのところにあった。直径20m以上もある豪壮な塚で、その上に巨大が五輪塔が置かれていた。大昔から近在の人々や力士が常々お詣りしていたが、明治16年に突然取り壊されることになり、五輪塔はそのとき現在の場所に移されたという。

今回の旅で、桜井市出雲にある十二柱神社にも参拝したかったのだが、今回廻ろうとした地域からちょっと離れていたので、残念ながら割愛した。
いずれ、参拝したいと思っている。

社殿の近くにあった、日本相撲協会が建てた、長谷川路可氏画の「勝利の聖 野見宿禰」碑
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境内にあった万葉歌碑。
「巻向の 桧原も未だ 雲いねば 小松が末ゆ 淡雪流る」(巻10-2314 柿本人麻呂)
文芸評論家の山本健吉氏の揮毫。
「巻向の桧原の地に、まだ雲もかかっていないのに松の枝先を淡雪が流れるように降っている。」という意味になります。
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

相撲神社、山辺の道を歩いていた時に、道標に気が付き、名前が面白いとは思ったのですが、行きませんでした。でも写真を見せていただき、小さい感じすぎて、私にとっては行かなくて正解だったと思います。

それにしても、野見宿禰、勝った上に、別に悪いことはしていない相手を殺してしまうとは、神話にしても、残酷な話ですね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
野見宿禰については、それまでの生き埋めによる殉死
から、埴輪に変えたという人道的事蹟ばかりが
頭にありましたが、相撲に勝ったということだけ
頭にありましたが、殺しているんですね(笑)
まあ、強かったという事を強調したんだと
受け止めておきます。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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