高来(たかく)神社

20170622

鎮座地:神奈川県中郡大磯町高麗2丁目9-47
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国の式内社の回で、この日は川勾神社に続いて当社に参拝しました。
当社は式内社ではありませんが、特別に立ち寄りました。
それは、狭山市の半分は旧高麗郡で、私が住んでいる所もそうですが、1300年前の高麗郡建郡にあたり、この地も関係が深かったからです。

神社には駐車場がなく、近くでバスを降りたが、そこからの高麗山。
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神社には横から入り、二の鳥居まで戻った。
一の鳥居と社号標は確認せず。
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高来神社、高來神社(たかく じんじゃ)、高麗神社とも呼ばれる、別名高麗(こま)さん。旧社格は郷社。
社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来する。
社名を音読みにすれば「こうらい」となる。

中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
かっては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。
また古来武門の信仰が篤く、鎌倉期に将軍源頼朝が正室北条政子の安産祈願をして、戦国時代には後北条氏がわずかな領地を寄進したという文献があるという。

『新編相模国風土記稿』には「高麗権現社」とあり、高麗寺村(大磯町高麗地区)と大磯宿(同大磯地区)の氏神であるとともに、別当寺の鶏足山雲上院高麗寺と渾然一体とした神仏混淆の形態をとっていた。高麗寺は、『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条に源頼朝によって、北条政子の安産が祈願された寺社の一つにその名が伝わる古刹。

平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』では、相模国大住郡には高来郷がある。高麗山一帯から、花水川東岸の中世以降は大住郡になる平塚市西部にかけてが、それにあたる。

高麗山山頂にある「高麗と若光」と題する説明板には「若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂あたりに住み、この地に大陸の文化をもたらしました。高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました」(環境省・神奈川県)とあります。
高来神社「御船祭」の木遣歌「権現丸」で「高麗国守護」が渡来して、「大磯浦の守護」となるとうたわれることから中世以降高麗寺では、なにかしらの関係を伝承していたと考えられます。また、高句麗からの渡来人伝承から「高麗山」の名前がついたといわれています。

そもそも高麗大明神(こまおおかみ)の由来を詳しく尋ぬれば、応神天皇十五代の御時に、俄かに海中騒がしく、浦の者ども怪しみて、遥かの沖を見てやれば、唐船一艘八つの帆を揚げ 大磯の方(かた)へ梶をとる。走り寄るよと見るうちに、程なく水際に船は着き 浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも 翁壱人立ち出て 櫓に昇りて声をあげ、「汝等(なんじら)それにてよく聴けよ 吾は日本の者にあらん 諸越(もろこし)の高麗国の守護なるが、邪険な国を逃れ来て、大日本に心掛け、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁盛守るべし」、汝等有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上がらせたもう御代よりも、権現様(明治以降は明神様)を乗せたてまつる船なれば、権現丸(明治以降は明神丸)とはこれを言うなり。

この「翁壱人」が、若光ということになります。
高麗王若光は、1300年前関東に散らばっていた高句麗からの渡来人を集め、武蔵国に高麗郡を建郡した。
高麗神社の祭神が高麗王若光であり、宮司はその子孫高麗家が勤めている。

大磯の若光伝承は天保期にはじまるものではありません。中世以前に遡ります。二つほど史料をあげておきます(ほかに『走湯山縁起』や『神道集』)。神奈川では古くより、若光(和光)が大磯の地に上陸したと伝えられているわけです。
『箱根山縁起』(『群書類従』)
神功皇后、三韓を討ちし後、武内大臣(武内宿禰)の奏有りて云う。異朝の大神を奉請して天下の長き安寧を祈らしむ、と。即ち、百済明神を日州(日向)に遷し奉り、新羅明神を江州(近江)に遷し奉り、高麗大神和光を当州(相模)大礒聳峰に遷し奉る。因りて高麗寺と名づく。
『北条記』(『小田原合戦記』)(『続群書類従』)
(北条)氏綱伊豆山ヘ御参詣アリ。縁起記ヲ御尋ネアル。当社権現(伊豆山権現・走湯山権現)往古ニ高麗国ヨリ御舟ニ召レ当国ヘ御渡アリ。相模国中郡ノ高麗寺山ニ上ラセ玉ヒヌ。之ニ依リ、此山ヲ高麗寺(山脱カ)ト申ナルベシ。其後、仙人当山ヘ参詣シ、爰ニ移居マシマシテ以来、霊験威光勝ゲテ計ウベカラズ。

大磯町観光情報サイトから
・漁民により海中から引き揚げられた千手観音を高麗権現の本地佛として定め、山頂の高麗権現と下宮の千手観音を併せ祀り、高麗寺別当(高来寺)の司る所になりました。
・鎌倉時代には北条政子の安産祈願のため神馬を賜り、寺背後にそびえる高麗山中には24の末院がありました。
・曽我十郎の恋人、虎御前が出家した寺です。
※虎御前…大磯の遊女。『曽我物語』の主人公、曽我十郎の恋人。
・足利氏の内乱で高麗山が攻防の場となり、戦国時代には北条早雲が小田原城攻めの際に篭城したことで一躍有名になりました。その後、上杉謙信が高麗山に本陣を置くなど、戦火の火中に巻き込まれ衰退していきます。
・徳川家康より寺領百石と山林を賜り、東照権現を併せ祀ります。東照宮は徳川家康の神影であるため、参勤交代の諸大名は高来神社の前を通る際には下馬して参詣しなくてはなりませんでした。
・上野寛永寺(徳川家光開基、徳川将軍家の菩提寺)の末寺であり、寺の復興には寛永寺の天海の働きが 大きかったと言われており、寛永寺から転じた別当は47世続きました。
・神仏分離により高来寺の寺物は移され、高麗神社と改称、明治30(1897)年に高来神社と改称され、現在に 至っています。

年表:
神武天皇朝?:創建
垂仁天皇朝:神皇産霊尊と天津彦穂邇々伎尊を祭神とする
安閑天皇朝2年(533年):神功皇后・応神天皇が合祀される
養老元年(717年):本地垂迹説に基づく神仏習合により高麗寺別当の所管となる
天正19年(1591年):徳川家より朱印地百石を与えられる
寛永年間:東照大権現を併祀
明治元年(1868年):神仏分離令により高麗寺から分離され高麗神社となる(高麗寺は廃寺)
明治6年(1873年):郷社に列せられる
明治30年(1897年):高来神社に改称
明治40年(1907年):神饌幣帛を供進すべき神社に指定される


大正3年奉納の、江戸流れ尾型狛犬
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参道に大磯町の観光案内板
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山桜がほころんでいるのがあった。
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社殿
高麗寺の建物となっていたので、拝殿・本殿と分かれていない。
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向背部
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社額
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欄間の龍の彫刻
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ガラス戸の隙間から、依り代の鏡と御幣を参拝。
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ご祭神:
神皇産霊尊
天津彦穂邇々伎尊
応神天皇
神功皇后

神紋は「三つ葉葵」
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境内社です。

高麗山への登り口にある、旧社号標「高麗神社」
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石段を上がると、平嘉久社。
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平嘉久社は初めて見た名前です。
『新編相模国風土記稿』には、「山麓にあり、祭る所庚申なり、是を地主神と云、高良明神疱瘡神等を相殿とす」とあるようです。
「庚申」とは猿田彦のことでしょう。
猿田彦を祀る白鬚神社が滋賀県高島市にあり、昨年参拝したが、白髭明神とは猿田彦のことであった。
白鬚神社の猿田彦は白鳳2年(674年)、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜っている。猿田彦=比良明神。
猿田彦は境界の神で、比良はあの世とこの世の境界(黄泉比良坂)を意味する。
確かに平嘉久社の鎮座場所は山に登る手前で、正しく境界と言える。
高麗若光=白鬚明神と呼ばれたので、まぎらわしい。
次に高良明神は武内宿禰です。よく「高良社」という武内宿禰を祭神とする神社があります。

高麗山霊水の「水神社」と「龍神社」の里宮
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〇力石
江戸末期には大磯海岸で若者たちが集まって力競べが行なわれていました。大きい石を両腕で持ち上げる競技があり、高麗の若者が優勝した。
丸い型の大石を 女石 といい、長い方を男石と名づけた。
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〇シイニッケイ
樹幹の心材が枯死腐朽し空洞化しているスタジイの古樹の凹部に,ヤブニッケイが密着生息しているものです。樹齢はスタジイが推定400年、ヤブニッケイは100~150年です。
このような例は各種各様のものがありますが、外観が完全に一本の樹に見え、しかも違和感なく一本化した樹は大変めずらしいものです。町の文化財に指定されています。
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他の参加者が高麗山に登ると先行していた。
私は撮影にちょっと時間をかけて、遅れた。

男坂を登ろうとしたが、急峻過ぎてあきらめ、女坂を登ることにした。
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女坂というが、けっこうきつい。
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けっこう登ったと思うところで、男の子の二人連れに出会い、頂上までどのくらいか聞いたら、まだまだ半分にも達しないと云われガックリ。
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上を目指す。
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標識があり、頂上まで500mとあり、あきらめて250mだという「東天照」がどんなところかわからないが、
そこを目指した。
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けっこうな難所である。
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開けたところに出て、案内図を見てビックリ。
女坂は、とてつもなく大回りではないか(驚)
ふつう女坂というのは易しい上り道を云うぞ(怒)
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見晴らしの良いところを探して、海を見て満足。
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すぐに急いで降りた。
結果的には、バスに帰ったら、まだ誰も帰っていなかった(笑)
しかし、ちょっと冷汗ものであった。
反省・・・・・・・・



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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

大磯ですか、大磯駅は2回、降りたことがあります。内、1回は例によって、水着女性モデル撮影会で、海側のプールで行われました。もう1回は山側の湘南平に登りました。頂上は広くて、小さなテレビ塔みたいのがあったと思います。

私がよく撮影会に行った頃は、行われる日時はカメラ雑誌等でわかったのですが、そのようなモデルさんが出演するのかわかりませんでした。現在はインターネット上でモデルさんの顔写真と名前が表示されるのですが、私の趣味の女性でないことがほとんどなので、逆に、行かなくなってしまいました。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
大磯は、今までまったく行ったことがありません。
ロングビーチにもです。
テレビでは、色々な催しをしていましたね。
matsumoさんは、水着モデル撮影会ですか。
うらやましい話ですね。
私は、モデルの撮影会の経験が無いです。
今からでも行けますかね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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