比々多神社(延喜式内論社)/神奈川県伊勢原市
20170804
鎮座地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1472
参拝日:2017年6月30日
この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚、大山阿夫利神社に続き、訪れました。
伊勢原市のガイドマップから概略の場所

近くの駐車場でバスを降り、神社の入り口に。

社号標
社格等:相模国三宮、式内社(小)、郷社(旧社格)

『延書式神名帳』記載の比比多神社(相模国の延喜式内社十三社の内の一社)とされるが後述のように論社も存在する。
・相模国三の宮の社格を持つ神社。大磯町国府本郷で行われる国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の1社で相模国三宮に当たり、大磯で行われる国府祭の座問答では、一の宮寒川神社、二の宮川勾神社の首座 争いを「いずれ明年まで」と収める役となっている。所在地名の「三ノ宮」は当社にちなむ。
・境内地や近隣地からは古代祭祀の遺構と考えられるものが発掘され、歴史は縄文時代にまでさかのぼるのではないかと云われている。
社殿裏には東名高速道路工事の際に出土した配石遺構が復元移設されている。境内には郷土博物館もあり、様々な出土品や社宝が展示されている。毎年5月第3土、日曜日の「まが玉祭」の際には終日無料開館される。
・4月22日の例祭には、「イヤートーサッセ(「弥遠に栄えたまへ」の意とのこと)」の掛け声と共に神輿が渡御し、三基のカラクリ人形山車の巡幸もあり、境内は熱気を帯びる。当社の神輿渡御は縦横無尽の暴れである。
・神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことを起源としている。『比々多神社参拝の栞』
・崇神天皇7年(紀元前91年)に神地神戸を寄せられ、垂仁天皇27年(紀元前3年)8月には神祇官が詔を受け弓矢を奉幣している(『比比多伝記』)
・大化元年(645年)大酒解神と小酒解神の2柱を合祀し、その際「鶉瓶」(うずらみか)と呼ばれる須恵器が納められたのだと言う。(『比々多神社参拝の莱』)
・持統天皇6年(692年)に国司布施朝臣色布智(ふせのあそんしこふち)が社殿を修復すると共に木彫り狛犬1対を奉納している。(『比々多神社参拝の栞』)
・天平15年(743年)武内宿禰の裔孫である紀朝臣益麿(きのあそんますまろ)を初代宮司に迎えると共に、聖武天皇より荘園を賜った。
・天長9年(832年)には国司の橘朝臣峯嗣(たちばなのあそんみねつぐ)を勅使として相模国総社「冠大明神」の神号を淳和天皇より賜ったとされる(『比々多神社参拝の栞』)
・元暦元年(1184年)源頼朝が大規模な社殿再建を行い、文治元年(1185年)には天下泰平祈願の御願書を奉っている。
・また、『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を「三宮冠大明神」に祈願し、神馬が奉納されたとある。明応年間頃(1492年・1501年)に兵火により社額を失い、社人供僧も離散して大きく衰微したのだと言う。神戸村の名称は往古に封戸であった遺名であると言われる。さらに同書によれば、天正年間(1573年・1593年)の初めに社地を埼免(らちめん)から現在地に移し、小社を建てて遷座したのだと言う。
(『新編相模国風土記稿巻之50』)
・天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印状が下され社額10石が寄進された。『新編相模国風土記稿巻之50』短】では、これにより当社はようやく復興を見たと述べている。その後も歴代の将軍より寄進を受け、明治に至っている。
・明治6年(1873年)に郷社に定められて16ケ村の総鎮守となり、明治41年(1908年)には神僕幣南供進神社に指定された。現在では神奈川県神社庁による献幣使参向神社となっている。
論社について:
『延書式神名帳』記載の比比多神社とされるが『新編相模国風土記稿巻之50』によれば、当社の他に上糟屋村(現伊勢原市上粕屋)の子易明神社も式内社「比比多神社」と言い伝えられているのだと言う。同書では、当社宮司が語った、「比比多神社」と書かれた古額を子易明神社の神主に貸したがついに返さず、子易明神社がこれを掲げて式内社と称したという話を紹介したうえで、この諸に証拠は無く、さらに当社も子易明神社も式内社「比比多神社」である考証は無いため、どちらが式内社か判断はし難いと述べている。
『日本の神々-神社と聖地・11関東』では、当地が古代官道を見下ろす位置にあって相模国第2期国府の有力な所在推定地とされていることに加え、史伝では国府所在時の総社であったとされること、また江戸時代に子易
明神土と当社に下された朱印状の内容から見て、当社が式内社「比比多神社」であろうと考察している。
境内図

鳥居をくぐる。

手水舎

目力のある狛犬です。


右の狛犬の後ろには、立派なご神木が。


石段を上がると、左に鐘楼があり。
かっては、染屋太郎大夫時忠を祀ったと言う銘文入りの梵鐘があったが、太平洋戦争の最中、金属資源回収の戦時供出により失われた。現在ある梵鐘は昭和25年(1950年)に作製されたものである。


参道の左右に、紫陽花の花があった。


ここにも、ご神木があり。


拝殿前に至る。

拝殿前に、干支の酉の像が置かれていた。
干支が描かれた大きな絵馬は珍しくないが、干支の像が置かれているのは珍しい。

拝殿

鈴の沢山付いた鈴緒であった。

火消しの人達が奉納した社額

社額

拝殿の内部

本殿の覆い屋
本殿の様式は、三間社流造とのこと。

本殿の覆い屋は、しっかり石垣を組んだ高い地面に建てられている。

ご祭神:
主祭神、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)、天明王命(アメノアカルタマノミコト)、雅日女尊(ワカヒルメノミコト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の4柱。
相殿神は、大酒解神(オオサカトケノカミ=大山祇神)、小酒解神(コサカトケノカミ=木花咲耶姫)
神紋は、「右三つ巴」、「丸に三つ引き両」、「十六弁八重菊」、「五三の桐」


境内末社
神明、白狐神、稲荷、白山、辨天、子権現、天神。

末社・金比羅社

「成長のはかり」というのがあった。

〇三宮郷土博物館



残念ながら、時間の関係で博物館には寄れなかった。
ここで、「狛犬一対(伊勢原市重要文化財)について触れておきたい。
第41代持統(じとう)天皇朱鳥(しゅちょう)6年(692)、相模国(現在の神奈川県横浜市の一部より以西)の国司(こくし)・布施朝臣色布知(ふせのあそんしこふち)によって社殿の改修が行われ、木彫り狛犬(こまいぬ)一対が奉納された、とある。
関東最古の狛犬ともいわれている。
692年が確かなら、まず国の重要文化財である。
そうでないのは、伝承のみで証明が出来ていないのか、風化してしまい外観に問題があるのか。
この日は、時間が無くて見ることはかなわなかったが、再訪して確かめたい。
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参拝日:2017年6月30日
この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚、大山阿夫利神社に続き、訪れました。
伊勢原市のガイドマップから概略の場所

近くの駐車場でバスを降り、神社の入り口に。

社号標
社格等:相模国三宮、式内社(小)、郷社(旧社格)

『延書式神名帳』記載の比比多神社(相模国の延喜式内社十三社の内の一社)とされるが後述のように論社も存在する。
・相模国三の宮の社格を持つ神社。大磯町国府本郷で行われる国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の1社で相模国三宮に当たり、大磯で行われる国府祭の座問答では、一の宮寒川神社、二の宮川勾神社の首座 争いを「いずれ明年まで」と収める役となっている。所在地名の「三ノ宮」は当社にちなむ。
・境内地や近隣地からは古代祭祀の遺構と考えられるものが発掘され、歴史は縄文時代にまでさかのぼるのではないかと云われている。
社殿裏には東名高速道路工事の際に出土した配石遺構が復元移設されている。境内には郷土博物館もあり、様々な出土品や社宝が展示されている。毎年5月第3土、日曜日の「まが玉祭」の際には終日無料開館される。
・4月22日の例祭には、「イヤートーサッセ(「弥遠に栄えたまへ」の意とのこと)」の掛け声と共に神輿が渡御し、三基のカラクリ人形山車の巡幸もあり、境内は熱気を帯びる。当社の神輿渡御は縦横無尽の暴れである。
・神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことを起源としている。『比々多神社参拝の栞』
・崇神天皇7年(紀元前91年)に神地神戸を寄せられ、垂仁天皇27年(紀元前3年)8月には神祇官が詔を受け弓矢を奉幣している(『比比多伝記』)
・大化元年(645年)大酒解神と小酒解神の2柱を合祀し、その際「鶉瓶」(うずらみか)と呼ばれる須恵器が納められたのだと言う。(『比々多神社参拝の莱』)
・持統天皇6年(692年)に国司布施朝臣色布智(ふせのあそんしこふち)が社殿を修復すると共に木彫り狛犬1対を奉納している。(『比々多神社参拝の栞』)
・天平15年(743年)武内宿禰の裔孫である紀朝臣益麿(きのあそんますまろ)を初代宮司に迎えると共に、聖武天皇より荘園を賜った。
・天長9年(832年)には国司の橘朝臣峯嗣(たちばなのあそんみねつぐ)を勅使として相模国総社「冠大明神」の神号を淳和天皇より賜ったとされる(『比々多神社参拝の栞』)
・元暦元年(1184年)源頼朝が大規模な社殿再建を行い、文治元年(1185年)には天下泰平祈願の御願書を奉っている。
・また、『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を「三宮冠大明神」に祈願し、神馬が奉納されたとある。明応年間頃(1492年・1501年)に兵火により社額を失い、社人供僧も離散して大きく衰微したのだと言う。神戸村の名称は往古に封戸であった遺名であると言われる。さらに同書によれば、天正年間(1573年・1593年)の初めに社地を埼免(らちめん)から現在地に移し、小社を建てて遷座したのだと言う。
(『新編相模国風土記稿巻之50』)
・天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印状が下され社額10石が寄進された。『新編相模国風土記稿巻之50』短】では、これにより当社はようやく復興を見たと述べている。その後も歴代の将軍より寄進を受け、明治に至っている。
・明治6年(1873年)に郷社に定められて16ケ村の総鎮守となり、明治41年(1908年)には神僕幣南供進神社に指定された。現在では神奈川県神社庁による献幣使参向神社となっている。
論社について:
『延書式神名帳』記載の比比多神社とされるが『新編相模国風土記稿巻之50』によれば、当社の他に上糟屋村(現伊勢原市上粕屋)の子易明神社も式内社「比比多神社」と言い伝えられているのだと言う。同書では、当社宮司が語った、「比比多神社」と書かれた古額を子易明神社の神主に貸したがついに返さず、子易明神社がこれを掲げて式内社と称したという話を紹介したうえで、この諸に証拠は無く、さらに当社も子易明神社も式内社「比比多神社」である考証は無いため、どちらが式内社か判断はし難いと述べている。
『日本の神々-神社と聖地・11関東』では、当地が古代官道を見下ろす位置にあって相模国第2期国府の有力な所在推定地とされていることに加え、史伝では国府所在時の総社であったとされること、また江戸時代に子易
明神土と当社に下された朱印状の内容から見て、当社が式内社「比比多神社」であろうと考察している。
境内図

鳥居をくぐる。

手水舎

目力のある狛犬です。


右の狛犬の後ろには、立派なご神木が。


石段を上がると、左に鐘楼があり。
かっては、染屋太郎大夫時忠を祀ったと言う銘文入りの梵鐘があったが、太平洋戦争の最中、金属資源回収の戦時供出により失われた。現在ある梵鐘は昭和25年(1950年)に作製されたものである。


参道の左右に、紫陽花の花があった。


ここにも、ご神木があり。


拝殿前に至る。

拝殿前に、干支の酉の像が置かれていた。
干支が描かれた大きな絵馬は珍しくないが、干支の像が置かれているのは珍しい。

拝殿

鈴の沢山付いた鈴緒であった。

火消しの人達が奉納した社額

社額

拝殿の内部

本殿の覆い屋
本殿の様式は、三間社流造とのこと。

本殿の覆い屋は、しっかり石垣を組んだ高い地面に建てられている。

ご祭神:
主祭神、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)、天明王命(アメノアカルタマノミコト)、雅日女尊(ワカヒルメノミコト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の4柱。
相殿神は、大酒解神(オオサカトケノカミ=大山祇神)、小酒解神(コサカトケノカミ=木花咲耶姫)
神紋は、「右三つ巴」、「丸に三つ引き両」、「十六弁八重菊」、「五三の桐」


境内末社
神明、白狐神、稲荷、白山、辨天、子権現、天神。

末社・金比羅社

「成長のはかり」というのがあった。

〇三宮郷土博物館



残念ながら、時間の関係で博物館には寄れなかった。
ここで、「狛犬一対(伊勢原市重要文化財)について触れておきたい。
第41代持統(じとう)天皇朱鳥(しゅちょう)6年(692)、相模国(現在の神奈川県横浜市の一部より以西)の国司(こくし)・布施朝臣色布知(ふせのあそんしこふち)によって社殿の改修が行われ、木彫り狛犬(こまいぬ)一対が奉納された、とある。
関東最古の狛犬ともいわれている。
692年が確かなら、まず国の重要文化財である。
そうでないのは、伝承のみで証明が出来ていないのか、風化してしまい外観に問題があるのか。
この日は、時間が無くて見ることはかなわなかったが、再訪して確かめたい。
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コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
神社に梵鐘とは珍しいと思ったのですが、調べてみると、現在でも梵鐘のある神社って結構、あるようですね。でも、それは、神仏習合・神仏混淆の場合の名残りのようですので、もしかして、この神社もそうだったのでしょうか。それとも、当時は神社に梵鐘があっても不思議に思わなかったのでしょうか。
神社に梵鐘とは珍しいと思ったのですが、調べてみると、現在でも梵鐘のある神社って結構、あるようですね。でも、それは、神仏習合・神仏混淆の場合の名残りのようですので、もしかして、この神社もそうだったのでしょうか。それとも、当時は神社に梵鐘があっても不思議に思わなかったのでしょうか。
matsumoさん
コメントありがとうございます。
鐘は、間違いなくお寺のものですが、
いざ神仏分離、廃仏毀釈となったときに、
鐘は地域の人の生活に溶け込んでいて、
お寺が廃されるとなったときに、残したい
気持ちもわかります。
神奈川県(相模国)の神社に鐘楼が残って
いることが多いと感じています。
鐘は、間違いなくお寺のものですが、
いざ神仏分離、廃仏毀釈となったときに、
鐘は地域の人の生活に溶け込んでいて、
お寺が廃されるとなったときに、残したい
気持ちもわかります。
神奈川県(相模国)の神社に鐘楼が残って
いることが多いと感じています。