中山道・浦和宿(その一)
20170821
前回、「蕨宿」として「蕨宿木戸」まで歩いたので、ここから浦和宿の廓信寺まで、8月18日に歩きました。
ずっと雨の日が続いていて、ようやく「曇り一時雨」という天気に回復してきたので、歩きを結構することにしました。午後には天気が崩れるという予報だったので、家を6:30に出て最寄りのJRの駅から向かい、蕨駅を降りたのが7:50。前回歩いた蕨宿木戸ふれあい広場に8:15に到着。

ちょっと休んで、8:20に木戸を出ました。

この図のとおり、国道17号線を斜めに横切って進みます。


この記事は「調(つき)神社」までですが、そこまでのルート。

歩き出してしばらくは、何と言うことない普通の道路。

そのうちカーブが連続して、街道らしくなりました(笑)



この辺は、まったく「旧中山道」などとかの表示が無く、この道でいいのかと不安になります。
そんな時に、このような説明があるとホッとする。
【一六橋】


小さい橋です。

少し行くと、また説明あり。
【境橋】



今は整備されてこんな川に。
落ちたら上がれないね(汗)

前方に「東京外環自動車道」の陸橋が見えてきた。
手前に「辻一里塚」があるはず。

【辻一里塚碑】
日本橋から数えて5番目の一里塚。現在は碑が残るのみである。隣に、弁財天が祀られている。



ちょうど9:00。木戸から40分歩いたので、辻一里塚公園で一休み。

そこから少し歩くと、辻熊野神社の前に来たのでお参りした。
【辻熊野神社】

昭和9年奉納の狛犬。顔が良かった。



ご祭神は、紀州熊野三山のご祭神。



六辻の近くまで来ると、またカーブが続いて「中山道の道筋をよく留める」と書かれているとおり。



【六辻】
国道17号線を突っ切る交差点が「六辻」。

その少し先に、道の目印にしている「五叉路」がある。
その手前に、中山道の案内があり。

【五叉路】
道がズレていて、だが4本しかないぞ?
白い車が出てきた道が進行方向だろう。

左斜めに折れて納得。これで5本だ(笑)

「旧中山道」とかの案内が皆無なので、不安をかかえて進みます。
「焼米坂」に出れば正解といった感じで進む。


「焼米坂」に到着(嬉)

【焼米坂】
蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある。
江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしか地名が定着していったようである。 当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。 これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。 旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。 また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上(のぼ)ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている。


『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』/天保6年(1835年)、渓斎英泉 画。
絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。

南浦和駅の辺まで来た。

通りかかった交差点に古い商家がある。

その家の角には井戸があり。

重厚な建物です。お米屋さんでした。


マンションが立ち並び、浦和の街に近くなったことがわかる。

調神社の森だ(嬉)

【駒繋ぎのケヤキ】
「日蓮上人駒つなぎのケヤキ」という安産の守護神と信仰されているケヤキ。
言い伝えでは、日蓮が佐渡へ流される途中、難産の婦人に会いました。その婦人のために、このケヤキに馬を繋ぎ祈ったそうです。それにより男子を無事出産されたことから安産の守護神となったようです。
小道を挟んで離れていますが、調神社の境内だそうです。

実は、そのケヤキは朽ちてしまったようで、現在のケヤキはそれを引き継いだもののようです。



【調神社(つき じんじゃ)】
浦和宿の少し手前にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。 しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。
その後、「調(つき)」は音韻によって「月(つき)」と結びつき、月待信仰(月待供養)の地となってゆく。 それゆえ兎(うさぎ)を神使とし、この社にあって境内入り口を守護しているのは狛犬ならぬ兎である。 また、「調(つき)」は「(運勢の)ツキ」に通じるともしている。
入り口には、狛犬でなく「狛兎」が迎えています。



鳥居ではなく、「注連柱」をくぐります。
「注連柱」は奈良の大神神社とか古い神社に多く、この神社の歴史を感じさせます。

社殿

掲題のベンチに腰を下ろしたのが、ちょうど10:00。しばらく休憩しました。
調神社(つき じんじゃ)については、既に「武蔵国式内社めぐり」で記事にしています。
詳細は、そちらで見てください。
その記事を見る
その記事を書いた2013年8月には、入り口の狛兎は江戸時代のものでしたが、さきほど写真を載せた、今回の狛兎は新しいものになっていました。
以前のものは、境内に保存されていました。

調神社(つき じんじゃ)の境内には、ケヤキの巨木が方々にあります。






ここから先は、次回記事とします。
お気に入りの場所一覧に飛ぶ
ずっと雨の日が続いていて、ようやく「曇り一時雨」という天気に回復してきたので、歩きを結構することにしました。午後には天気が崩れるという予報だったので、家を6:30に出て最寄りのJRの駅から向かい、蕨駅を降りたのが7:50。前回歩いた蕨宿木戸ふれあい広場に8:15に到着。

ちょっと休んで、8:20に木戸を出ました。

この図のとおり、国道17号線を斜めに横切って進みます。


この記事は「調(つき)神社」までですが、そこまでのルート。

歩き出してしばらくは、何と言うことない普通の道路。

そのうちカーブが連続して、街道らしくなりました(笑)



この辺は、まったく「旧中山道」などとかの表示が無く、この道でいいのかと不安になります。
そんな時に、このような説明があるとホッとする。
【一六橋】


小さい橋です。

少し行くと、また説明あり。
【境橋】



今は整備されてこんな川に。
落ちたら上がれないね(汗)

前方に「東京外環自動車道」の陸橋が見えてきた。
手前に「辻一里塚」があるはず。

【辻一里塚碑】
日本橋から数えて5番目の一里塚。現在は碑が残るのみである。隣に、弁財天が祀られている。



ちょうど9:00。木戸から40分歩いたので、辻一里塚公園で一休み。

そこから少し歩くと、辻熊野神社の前に来たのでお参りした。
【辻熊野神社】

昭和9年奉納の狛犬。顔が良かった。



ご祭神は、紀州熊野三山のご祭神。



六辻の近くまで来ると、またカーブが続いて「中山道の道筋をよく留める」と書かれているとおり。



【六辻】
国道17号線を突っ切る交差点が「六辻」。

その少し先に、道の目印にしている「五叉路」がある。
その手前に、中山道の案内があり。

【五叉路】
道がズレていて、だが4本しかないぞ?
白い車が出てきた道が進行方向だろう。

左斜めに折れて納得。これで5本だ(笑)

「旧中山道」とかの案内が皆無なので、不安をかかえて進みます。
「焼米坂」に出れば正解といった感じで進む。


「焼米坂」に到着(嬉)

【焼米坂】
蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある。
江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしか地名が定着していったようである。 当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。 これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。 旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。 また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上(のぼ)ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている。


『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』/天保6年(1835年)、渓斎英泉 画。
絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。

南浦和駅の辺まで来た。

通りかかった交差点に古い商家がある。

その家の角には井戸があり。

重厚な建物です。お米屋さんでした。


マンションが立ち並び、浦和の街に近くなったことがわかる。

調神社の森だ(嬉)

【駒繋ぎのケヤキ】
「日蓮上人駒つなぎのケヤキ」という安産の守護神と信仰されているケヤキ。
言い伝えでは、日蓮が佐渡へ流される途中、難産の婦人に会いました。その婦人のために、このケヤキに馬を繋ぎ祈ったそうです。それにより男子を無事出産されたことから安産の守護神となったようです。
小道を挟んで離れていますが、調神社の境内だそうです。

実は、そのケヤキは朽ちてしまったようで、現在のケヤキはそれを引き継いだもののようです。



【調神社(つき じんじゃ)】
浦和宿の少し手前にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。 しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。
その後、「調(つき)」は音韻によって「月(つき)」と結びつき、月待信仰(月待供養)の地となってゆく。 それゆえ兎(うさぎ)を神使とし、この社にあって境内入り口を守護しているのは狛犬ならぬ兎である。 また、「調(つき)」は「(運勢の)ツキ」に通じるともしている。
入り口には、狛犬でなく「狛兎」が迎えています。



鳥居ではなく、「注連柱」をくぐります。
「注連柱」は奈良の大神神社とか古い神社に多く、この神社の歴史を感じさせます。

社殿

掲題のベンチに腰を下ろしたのが、ちょうど10:00。しばらく休憩しました。
調神社(つき じんじゃ)については、既に「武蔵国式内社めぐり」で記事にしています。
詳細は、そちらで見てください。
その記事を見る
その記事を書いた2013年8月には、入り口の狛兎は江戸時代のものでしたが、さきほど写真を載せた、今回の狛兎は新しいものになっていました。
以前のものは、境内に保存されていました。

調神社(つき じんじゃ)の境内には、ケヤキの巨木が方々にあります。






ここから先は、次回記事とします。
お気に入りの場所一覧に飛ぶ
スポンサーサイト
trackback
コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
おお、この暑い中、ご苦労様です。直射日光が当たっていたら大変だったでしょうが、雨が降るかも知れない曇りでしたら、まだ、マシだったと思います。
さて、四季歩さん、スマホをお使いでしょうか。もし、お使いでしたら、それにGPSアプリと地図データを入れて、GPSログをとることをおすすめします。これは、地図上に歩いた通りに線で表示されるもので、もし、道を間違えたら、100mも進んでチェックすると、すぐにわかるものです。
ちなみに、私が使っているのは「YamaNavi」と言う無料アプリと、「カシミール3D」と言う本付録のDVD-ROMの中に収録されている1/25,000地図データです。
おお、この暑い中、ご苦労様です。直射日光が当たっていたら大変だったでしょうが、雨が降るかも知れない曇りでしたら、まだ、マシだったと思います。
さて、四季歩さん、スマホをお使いでしょうか。もし、お使いでしたら、それにGPSアプリと地図データを入れて、GPSログをとることをおすすめします。これは、地図上に歩いた通りに線で表示されるもので、もし、道を間違えたら、100mも進んでチェックすると、すぐにわかるものです。
ちなみに、私が使っているのは「YamaNavi」と言う無料アプリと、「カシミール3D」と言う本付録のDVD-ROMの中に収録されている1/25,000地図データです。
コメントありがとうございます。
スマホは使っていますが、
こういうときにも、GPSソフト何度か使ってみましたが、
使うのは止めています。
目的地に到達するのが目的ではなくて、旧道を探しながら
歩くのが楽しい。
けっこう拡大したもので地図をプリントして持っています。
あと、歩きスマホが大嫌いということもあります(笑)
五感を働かせて歩いています。
こういうときにも、GPSソフト何度か使ってみましたが、
使うのは止めています。
目的地に到達するのが目的ではなくて、旧道を探しながら
歩くのが楽しい。
けっこう拡大したもので地図をプリントして持っています。
あと、歩きスマホが大嫌いということもあります(笑)
五感を働かせて歩いています。