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中山道・浦和宿(その二)

20170902

8月18日に歩いた、浦和宿の記事の続きです。調神社から廓信寺まで。

そのルートですが、下図のように中山道からちょっと外れてあちこち見て歩きました。
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➃:調神社
⑤の県庁は行きませんでした。
⑥:玉蔵院
⑦:うなぎ屋さん
⑧浦和宿本陣公園
⑨:浦和御殿跡
⑩:二七市場定杭
⑪:廓信寺

調神社を出発
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道筋は旧い家とビルが混在してます。
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うなぎ屋さんが目立ちます。
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浦和宿の標識があった。
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浦和宿(うらわ しゅく)は、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて3番目の宿場(武蔵国のうち、第3の宿)。

北は日光街道と連絡し、南の府中通り大山道(相模大山および大山石尊〈現:大山阿夫利神社〉詣での道の一つ)とは荒川の渡し場2箇所、羽根倉の渡し(現・埼玉県志木市内)と秋ヶ瀬の渡し(現・埼玉県さいたま市内)によって繋がっていた。現在の埼玉県さいたま市浦和区(旧・浦和市)にあたる。

浦和宿は上町(のちに常盤町)・中町・下町(のちに高砂町)からなり、現在は区画整理を経て常盤・仲町・高砂がそれぞれ対応している。 1591年(天正19年)までは大宮宿は馬継ぎ場で、宿場は無く、北隣の宿場は上尾宿であった。

道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並み10町42間(約1.2km)。宿内人口1,230人(うち、男609人、女616人)。宿内家数273軒(うち、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番所1軒)。 

現在は埼玉県の県都として大都市に発展している浦和であるが、江戸から近すぎたことから通行者は休憩が主で旅館が少なく、江戸期の浦和宿の人口は武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち、8番目と少なかった。


【行在所記念の碑】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区高砂3丁目1−22
玉蔵院のある通りにずれて行くと、「行在所記念の碑」があり。
明治天皇が浦和宿に行幸した記念碑。
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【浦和一女発祥の地碑】
「行在所記念の碑」の隣にあり。
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【玉蔵院】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区仲町2丁目13−22
真言宗豊山派の寺院。山号は宝珠山。本尊は大日如来座像。北足立八十八箇所霊場55番、88番札所。本堂横には樹齢100年以上のしだれ桜があり、桜の名所として有名である。
伝承によれば平安時代初期に空海により創建されたという。戦国時代に醍醐寺三宝院の直末寺となった。また、学僧印融が来て中興した。1591年に徳川家康が10石の寺領を寄進。江戸時代に長谷寺の移転寺として出世。1699年12月伽藍を焼失。本堂は1701年に再建され、以後徐々に復興。1710年、本尊の大日如来坐像が完成。昭和20年代に墓地の区画整理が行われ、墓地は市内原山(緑区)に移転した。江戸時代に浦和宿が興る以前の浦和は玉蔵院や調神社の門前町として栄えていた。
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総けやき造りの立派な山門
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ちょっと変わった感じの鐘楼
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この門もいいですね。
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門の内側に百日紅が咲いていた。
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本堂には、大きな橋を渡ります。
右側が広い石庭、左側には樹齢100年以上の見事な枝垂れ桜がある。
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地蔵堂
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彫刻や天井画が見事です。
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堂の前に、江戸時代建立の石造地蔵像が二体ありました。
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中山道に戻りました。
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立派なうなぎ屋さん。
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この界隈を越えて上方(京側)へ向かうと、しばらくの間、鰻(うなぎ)を食せる店が無くなってしまう。 そのため、ここで食べていく客が多く、蕨宿と浦和宿はともに鰻で有名な宿場町であった。また、江戸に向かう旅人は、戸田の渡しを越えればついに江戸という立地であるため、宿泊し、精をつけるため鰻を食することも多かった。仕入れていたのは別所沼(現・さいたま市内)で獲れた鰻である。現在でも浦和区を中心に鰻の老舗が軒を連ねており、浦和うなぎまつりや浦和うなこちゃんなど鰻に関する文化が残る。

看板建築があった。
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「うらわ美術館」の前を通過。
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【浦和本陣跡】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区仲町2丁目6−3
星野権兵衛家が代々務めた本陣は、敷地約1,200坪(約3,966.9平方メートル)、222坪(約733.9平方メートル)の母屋を始め、表門、土蔵などがあり、問屋場や高札場、自身番所が設けられていた。明治元年(1868年)および3年(1871年)の明治天皇の氷川神社行幸の際には、ここが行在所となった。しかし、明治のうちに星野家が断絶し、建物は緑区大間木の大熊家に移築された表門以外ことごとく破却されてしまった。「明治天皇行在所阯」の碑が往時を偲ばせる。その後は公園化され、さいたま市の史跡となっている。
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「明治天皇行在所阯」碑
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横の桜も風格があり。
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【浦和御殿跡】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区常盤1丁目8
浦和宿は幕府直轄領(通称:天領)であった。 徳川将軍家の鷹狩りの休泊所は雅名で「御殿」と呼ばれたものであるが、当時の浦和宿の中心地であった常盤町(旧・浦和宿上町、現・浦和区常盤1丁目)には早期の御殿である浦和御殿が設けられていた。このことが、浦和宿の興りとされている。それ以前は調神社や玉蔵院の門前町として栄えていた。 施設はしかし、近隣の鴻巣宿で文禄2年(1593年)に鴻巣御殿が建設されたのちの慶長16年(1611年)頃には廃止され、以後は幕府直営の御林として管理されるようになった。 当時を伝えるものは明治26年(1893年)の浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所の前身)建設にともなって姿を消し、現在は裁判所跡の赤レンガ堀を残す公園(常盤公園)となっている。
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常盤公園の中に「童謡碑」があった。
童話作家長沼依山先生の顕彰のために造られたとあります。ブロンズの彫刻は、浦和在住の彫刻家、細野稔人(ほその・としひと)氏によるものです。浦和の街中で、最も多くの彫刻を手掛けている方ではないでしょうか。
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常盤公園入口のすぐ前の道に、野菜を売る農婦の銅像があった。
これは、これから行く「二七の市」の市場の様子を伝えているものだそうだ。
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【二七市場定杭】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区常盤 1 丁目 5−19
宿場町としては規模の小さい浦和宿であったが、市場としては戦国時代からの歴史があり、毎月の2と7の日には「六斎市(ろくさい-いち)」が立って賑わいを見せていた(二七の市)。
浦和宿上町の人々が祀った慈恵稲荷神社(じけい-いなり-じんじゃ)の鳥居を中心として南北2町(約0.2km)の範囲が市場であったといわれており、当該地はさいたま市の史跡として登録されている。市神や定杭を残す市場跡は全国的に珍しく、近世商業史を知る貴重な史跡となっている。
市は昭和初期までは続いていた。常盤公園へ向かう道の入り口にあって野菜を売る姿の農婦の銅像も、かっての市場の様子を伝えている。
六斎市とは、中世において、一定の地域にて月のうち6回開かれた定期市であり、日は1と6、2と7などといった組み合わせで開かれるものである。六斎市が語源とする六斎日は八斎戒に由来する仏教習俗で、特に身を慎み、清浄であるべき日とされた6日を言う。毎月の8日・14 日・15日・23日・29日・30日がそれであった。
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慈恵稲荷神社の鳥居の先に、定杭はあった。
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二七市場定杭
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慈恵稲荷神社にお参りした。
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また歩き出したが、お腹が空いたので、お蕎麦屋さんでもないかと歩いていたら、美味しそうなお蕎麦屋さんがあり、昼食、休憩。
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満ち足りた気持ちでお店を出たとたんに、パラパラ降り出した(泣)
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【浦和橋】
これで今日は打ち切りかなあ、と考えながら東北本線の陸橋「浦和橋」を越えます。
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京浜東北線かな。
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北浦和の駅前まで来ると、浦和レッズのマスコット像が幾つもあった。
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福田選手の足型
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北浦和駅東口交差点
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雨がパラパラ降って来たので、これで切り上げかなと思いながら傘をさしてここまで来ましたが、いつしか雨は止んでいました。
前進して廓信寺に向かいました。

【廓信寺】
所在地:さいたま市浦和区北浦和3丁目15
岩槻藩主・高力清長の追福のため、家来の中村吉照が慶長14年(1609年)に建立した寺。

仁王門
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山門
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本堂
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「堂宇改修記念碑」に、この寺開基の由来が書かれていた。
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秩父宮妃殿下お手植えの紅梅
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樹齢約300年のカヤ
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徳川家康に信頼された岩槻藩主・高力清長について、あまり良く知らなかったので、帰ってから調べてみた。
「仏の高力」と云われた人柄について知ることが出来、良かった。

高力 清長(こうりき きよなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。三河高力城主。のち武蔵岩槻藩主。

生涯:
・享禄3年(1530年)、松平氏の家臣・高力安長の長男として三河国にて誕生。
・天文21年(1552年)から徳川家康に仕え、駿河で人質時代を送る家康に従った。
・永禄3年(1560年)5月、家康に従って今川義元の尾張攻めに従い、尾張大高城の戦いで功を挙げた。
・永禄5年(1562年)の織田氏との清洲同盟締結の際に家康が尾張清洲城に赴いた際、これに同行。
・有名な一向一揆鎮圧においては、一揆鎮圧後に仏像や経典の保護に努めて散逸を防ぎ、寺社を元通りに戻したので、領民からは「仏高力」の異名をつけられた。
・天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が討たれると、家康の伊賀越えに随行し、小荷駄奉行として殿軍を務めたが、この時に追撃する賊に襲われて鉄砲疵を受けている。
・天正12年(1584年)の豊臣秀吉と対峙した小牧・長久手の戦いに参加する。戦後は秀吉への使者を務めたが、この際に秀吉に気に入られ、天正14年(1586年)に豊臣姓を下賜され[5]、従五位下河内守に叙任される。この年から着工された聚楽第造営の普請奉行を務め、新藤五国光の脇差を秀吉より賜る。
・天正18年(1590年)の小田原征伐では、秀吉の旨を奉じた家康の使者として成瀬国次と共に小田原城に赴き、北条氏政・氏直父子と交渉している。
・慶長4年(1599年)に嫡子・正長が早世する。このため慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は隠居し、嫡孫の高力忠房に家督を譲った。

人物・逸話:
三河三奉行の時、康景は温順にして慈愛深く、重次は思いのままに言いたいことを言う、清長は寛厚にして思慮深いと評され、「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」という様に、「仏高力」として名が知られている。
このように清長は正直者で知られていたが、それを示す逸話も多い。家康から岩槻2万石を与えられた際、預け地1万石も与えられた。預け地とは事実上はその責任を伴う者の領地同然で、当然収入として上がる年貢は役得として自分の物としてもさして問題ないのだが、清長は預け地の年貢を1度も自分の手にすることなく直接江戸へ運ばせた。文禄の役で軍船建造を担当し、余った建造費である金20枚を家康に返上しようとした際も、その正直さに感激した家康はそのまま褒美として与えている。
豊臣秀吉も清長を陪臣ながら寵愛して重用した。秀吉が岩槻に立ち寄った際、その饗応に秀吉は感心し、庭前の萩の花を詠んだ和歌を清長に与えた。


この日の予定は廓信寺までだったので、これで終了し北浦和の駅に向かった。
この日は午後は天気が崩れるという天気予報だったので、朝7:50に蕨駅から歩きはじめた。
京浜東北線の駅で言えば、蕨駅から、南浦和、浦和、北浦和と歩いたことになる。
13:45に終了。

廓信寺を出たところで、庚申塔二体を発見。
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どうも主尊は馬頭観音のようである。
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どこかに「庚申供養」とか刻まれているかと探したがわからなかった。
だが、説明書きには「庚申尊像」とあるので、そのとおりに受け取らせてもらう。

壁にある蔦の模様が、山の頂に一本松のような模様になっていて面白かったのでパチリ。
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(中山道浦和宿了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

さすがに、中山道と言っても、そう、昔の建物は残っていないのですね。

玉蔵院の境内の橋、来世とこの世を結ぶ橋と言う意味なのでしょうか。

私にとっては、鰻と言えば川越と言うイメージですが、浦和もそうだったのですね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
浦和宿は、県庁が置かれたため、ずいぶん
変わってしまった、ということでしょう。
ウナギは、たしかに川越も有名ですね。
私にとっては、浦和の方がお店が立派で、
すごいなと昔から思っていました。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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