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有鹿(あるか)神社(延喜式内社)/神奈川県海老名市

20171219

鎮座地:神奈川県海老名市 上郷1丁目4−41
参拝日:2017年12月1日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」相模国の三回目で、石楯尾神社に続き当神社に参拝しました。

入り口の社号標
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神奈川県県央に流れる鳩川(有鹿河)沿いに形成された地域(有鹿郷)に鎮座する神社であり、本宮、奥宮、中宮の三社からなる相模国最古級の神社。「お有鹿様」とも呼ばれる。
・相模国式内社十三社の内の一社(小社)
・五ノ宮ともされるが諸説あり。
・神階は中世に『正一位』を朝廷より賜っている。
・旧社格は県社格の郷社。

三社の内訳は以下のとおりであり、この日は「本宮」にのみ参拝した。
■本宮
海老名市上郷に鎮座し、有鹿比古命を祀る。神奈川県のヘソ(中央)に位置しており、子育て厄除けの神様として有名で、神奈川県の全域から広く信仰を集める。境内は「有鹿の森」とされるが、松が1本もないため「松なしの森」ともいわれる。
■中宮
「有鹿の池(影向の池)」とも呼ばれ、本宮から約600メートル(徒歩5分程)の位置に鎮座しており、有鹿比古命・有鹿比女命の2柱を祀る。鎮座地には小さい池(現在は水が張られていない)と小祠、鳥居がある。この池で有鹿比女命が姿見をしていたという伝承がある。
■奥宮
本宮から北に6キロメートル程離れた神奈川県相模原市南区磯部の「有鹿谷」に鎮座し、有鹿比女命を祀る。鎮座地の傍は水源となっていて小祠と鳥居がある。また、東側の丘陵(有鹿台)には勝坂遺跡がある。当社の御神体は、奥宮の近く有鹿谷の泉湧く洞窟とされているが、大正十二年(1923)の関東大震災により洞窟が崩落し、現在の姿は、斜面から湧水している状態となった。

三社の位置関係は、本宮は鳩川の相模川への流入口域にあり、奥宮は鳩川の水源の一つにある。中宮は鳩川の中間地点の座間市入谷の諏訪明神の辺りにあったが、中世期に衰退し、海老名の現在地に遷座した。なお、鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、前述の諏訪明神と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる。これが有鹿神社の移転の伝説となっている。

【歴史】
■草創
有鹿は、古代語の水の意味であり、鳩川沿いに形成された地域を有鹿郷という。有鹿神社のご神体は、相模原市南区磯部の勝坂にある泉湧く洞窟。奥宮のある地域周辺は、国の史跡に指定されている
勝坂遺跡であり、縄文時代中期より祭祀が行われていた有鹿祭祀遺跡からは、銅鏡、鉄鏡、勾玉などが出土している。また、本宮の方も神社すぐ裏手で弥生時代の甕、土器類、祭器類が大量に出土しており、同じく祭祀が行われていたものと思われる。この他、有鹿神社の創建に関わると考えられている有力者の古墳有鹿丘より、ヘラジカの骨が出土しており、それが名前の由来になった可能性もある。
※有鹿は、古代語の「生る(あ・る)=神や神聖なものが生じる」と大和言葉「か=水」の意味である。
■古代
天智天皇3年(664年)5月に、国家的な祭礼を行った記録がある。天平勝宝8年(756年)郷司の藤原廣政により、海老名耕地五百町歩が寄進され神領となる。貞観11年(869年)『三代実録』によると、それまで相模国従五位下だった有鹿神社は、従五位上を授けられる。このように相模国の正史に叙位が明記された神社は、有鹿神社の他は、一ノ宮の寒川神社と石楯尾神社の三社だけである。また延長5年(927年)延喜式の制定により相模国十三座の内の一社に列せられる。延喜式神名帳には式内小社として記載。
■中世
神社由緒によると、鎌倉時代に神社界の最高位である『正一位』を朝廷より賜る。この時期の社殿は豪奢であり、有鹿神社の神宮寺である総持院と合わせ、十二の坊舎が甍を並べ、蒼々たる大境内を誇っていた。一説には現在の社家駅近辺まで参道が延びるほどであった。これは平安中期より頭角を現した海老名氏という鎌倉幕府の重鎮の手厚い庇護があった為である。海老名氏は村上源氏の流れを汲む豪族出身の武士団で、相模国の中原に勢力を誇っていた。
元弘3年(1333年)関東大兵乱によって、鎌倉幕府が滅亡し、この時に有鹿神社も総持院と共に新田義貞軍による兵火の災いを受け、美麗を極めた社殿を始め、文書、記録類に至るまでことごとく灰燼に帰し、広大な社領も略奪されてしまった。また、永享10年(1438年)に永享の乱があり、関東管領の足利持氏は有鹿神社の近くにある宝樹寺に本陣を置き、幕府軍と戦い敗走した。これによって海老名氏は滅亡し、有鹿神社と総持院は再度兵火を蒙り、衰微してしまった。
■近世
天正3年(1575年)海老名耕地の用水を守る「水引祭」が復活し、相模国五ノ宮、海老名総鎮守として少しずつ再興してきた。天正19年(1591年)には、徳川家康より朱印十石の寄進を受け、また元和8年(1622年)海老名郷の領主となっていた高木主水の内室により社殿が再建された。
■近代
明治維新にあたり、神仏分離令が発せられ、有鹿神社は別当寺の総持院と袂を分かつこととなった。明治6年(1873年)有鹿神社は一時、県社に列せられたが、最終的に郷社となる。明治43年(1910年)神饌幣帛料供進社になり、祈年祭・例祭・新嘗祭にあたり、供進吏の参向を受けた。
■現代
第二次大戦後、GHQの「神道指令」に基づき、有鹿神社は郷社の地位を失うこととなったが、全国の神社が結束して設立された神社本庁に属することにし、宗教法人格を取得した。その後、海老名耕地の用水事情も改良が進んだことなどにより、水害も収まり一時期、有鹿神社は停滞することとなった。ところが、近年は「水引祭」を通して復活中である。まだ中世前期の権勢には遠く及ばないが、海老名の都市化により人口も増えて来たのにあわせ、有鹿神社も復興して来ている。宮鐘の再鋳と鐘楼の再建、社殿屋根の葺き替え、手水舎の再建、天神社の遷座、社務所の新築、玉垣の築造等、境内の整備が進められている。平成4年(1992年)、本殿および拝殿天井龍の絵図が海老名市重要文化財に指定された。


神明鳥居
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鳥居をくぐった右手にあった標示「有鹿社は 式内社にて 水守る」
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手水舎
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立派な銀杏の木の下に鐘楼あり。
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宮鐘:
応永24年(1417)、宝樹沙弥(海老名備中守持季出家後の名)により、和泉権守恒光(中世の相模国・武蔵国を中心に活躍した相模鋳物師である物部氏の後継者的存在であった清原氏の一族)作の宮鐘が寄進されたが、明応4年の地震で破損したので、元禄2年(1689)再建された。250年にわたり、朝夕に美しい音色を海老名耕地に響かせた。宮鐘は、第二次大戦の末期に供出され、昭和53年(1978)再建された。

参道を進むと、石灯篭二組と、狛犬一対がある。
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狛犬は、大正8年奉納のもの。
ここの狛犬も通常と異なり、右側が吽形で、左側が阿形である。
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拝殿は入母屋造り。
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向拝部は唐破風。
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社額は「有鹿大明神」とあり。
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本殿覆屋
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千木は内削ぎ。
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【ご祭神】
〇有鹿比古命(アルカヒコノミコト)
記紀にはその名がみえない神で、太陽の男神といわれている。海老名耕地の農耕の恵みをもたらす豊穣の神として、海老名の土地の人々に篤く崇められてきた。農業・産業振興の神とされる。
〇有鹿比女命(アルカヒメノミコト)
記紀にはその名がみえない神で、水の女神といわれている。主な神徳は安産、育児など。
〇大日靈貴命(オオヒルメムチノミコト=天照大神)
『新編相模国風土記稿』に祭神は大日靈と古縁起に記載がある旨が記されている。しかし、有鹿比古命が太陽神で同じとはいえ、男女の違いがあるので、別の神であると近年結論付けられた。これは別当寺の総持院が真言宗であり、その本地仏が「大日如来」とされたことからの後付けだと考えられている。また、明治時代も記紀の祭神を優遇する風潮により、そのまま大日靈貴命が祭神となっていたが、その後、旧に復した。

※「あるか」は、古代語の「生る(あ・る)=神や神聖なものが生じる」と大和言葉「か=水」の意味である。
これからすると、奥宮で祀られている有鹿比女命(=水神)が本源であり、太陽信仰が追加され、それは有鹿比古命であり、その後天照大神が追加されたものであろう。

神紋は「右三つ巴」
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受付のところで、宮司さんに「パンダ宮司さん」についてお話を伺った。
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①パンダの優しいイメージが有鹿神社の志す心優しい神道、親しみやすい神社にあっている。
②パンダは中国産ではあるけれど、日本人にとって幼い頃から親しみ深い。
③宮司が色白タレ目メガネでパンダっぽい。
④古来、神賑行事で面やかぶりものを使用してきた。
上記の理由により、パンダ宮司代理のキャラクターを参拝者とのご挨拶や記念撮影に登場させているそうです。
関東のテレビ局は全て取材に来たと、宮司さんは嬉しそうであった。

宮司さんから、拝殿の龍絵の写真を見せていただいた。
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〇天井の龍絵
拝殿の天井には、万延元年(1860)の頃、藤原隆秀(近藤如水)により豪快で精緻な筆法で龍の絵図が描かれている。これは海老名市より文化財の指定を受けている。これを模写した絵馬も作成されている。

本宮の境内社
・西側に末社の三社様(日枝社(大己貴命)・稲荷社(倉稲魂命)・諏訪社(建御名方命))
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・の東側には天神を祀る『有鹿天神社』が鎮座(海老名氏の館跡東側から遷座されたもの)
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(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

名前に「鹿」があることから、丹沢には結構生息している鹿と関係があるのかと思ったのですが、全く関係ないようですね。

狛犬は装飾的な感じで良いですね。

それにしても、パンダ宮司とは、うまく時流に乗っていますね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
今の時代、小さい神社は維持するのが
大変だと思います。
どこも知恵を絞って苦労されていますね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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