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太田道灌公墓所/神奈川県伊勢原市

20171226

参拝日:2017年12月1日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」相模国の三回目でしたが、この近くを廻っているため、立ち寄りました。

太田道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い。

太田道灌の生きた時代は、大変な時代であり、彼の人生について書こうと思うと幾ら書いても尽くせない。
ここでは、道灌の暗殺についてだけ書いておく。

道灌暗殺:
道灌の活躍によって主家扇谷家の勢力は大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。

定正は家臣である道灌が優れた統率力と戦略で敵を圧倒し、その功を誇って主君を軽んじる風もみられたとし、道灌の意見を用いないなど反感を持っていた。『永享記』は道灌が人心の離れた山内家に対して謀反を企てたと記している。また、扇谷家中が江戸・河越両城の補修を怪しみ扇谷定正に讒言したともある。これらの中傷に対して道灌は一切弁明しなかったが、「太田道灌状」で道灌は道真・道灌父子の功績を正当に評価しないことに道灌は不満を抱き、主家の冷遇に対する不満を吐露している。また、万が一に備えて嫡男の資康を和議の人質を名目として古河公方成氏に預けている。

文明18年7月26日(1486年8月25日)、扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、道灌はここで暗殺された。享年55。法名は、大慈寺殿心円道灌大居士、また香月院殿春苑静勝道灌大居士。

『太田資武状』によると、道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。

道灌暗殺の遂行にあたっては、力が強くなりすぎた道灌が下克上で自身にとって代わりかねないと恐れた扇谷定正が自発的に暗殺したとも、扇谷家の力を弱めるための山内顕定の画策に扇谷定正が乗ってしまったとも言われる。『上杉定正消息』の中で扇谷定正は、道灌が家政を独占したために家中に不満が起こっており、また道灌が山内顕定に謀反を企てたために討ち果たしたと述べている。また、雑説だが江戸時代の『岩槻巷談』に道灌暗殺は北条早雲の陰謀であるとの話が残っている。

道灌暗殺により、道灌の子・資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。扇谷定正はたちまち苦境に陥ることになり、翌長享元年(1487年)山内顕定と扇谷定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げることになった。やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭。早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになり、上杉の家系は駆逐される。

やがて、かって乱を起こした長尾景春の同族である、越後守護代・長尾為景の息子「景虎」に関東管領職を譲り、景虎は上杉の名も譲り受け、上杉謙信と号す。

*太田家のその後
 嫡子・資康は古河公方に参じる。道灌の甥たちは上杉定正の下に残り、家宰の地位を受け継ぐ。
嫡男の家筋の4代後の娘が、家康の側室(英勝院)になり、兄弟は大名になり、明治まで続く。

太田道灌墓所:
①胴塚:神奈川県伊勢原市上粕屋の幡龍山公所寺洞昌院)
②首塚:神奈川県伊勢原市下糟屋の法雨山大慈寺
③太田道灌墓(分骨):埼玉県入間郡越生町龍穏寺
④供養塔(首塚と言われる):神奈川県鎌倉市、北鎌倉から源氏山に抜けるハイキングコース

この日は、①⇒七人塚⇒②に参拝した。

【太田道灌墓所(胴塚)】
所在地: 神奈川県伊勢原市上粕屋1160

道路側入り口
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お寺側入り口
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墓所
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墓碑
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太田道灌歌碑
「いそがずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路のむら雨」
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句碑
「雲もなほ さだめある世の しぐれ哉」
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句碑由来碑
太田道灌と交流のあった心敬という僧の句碑ですが、この心敬の弟子が宗祇である。
宗祇は箱根湯本で亡くなって供養塔が早雲寺にあり、その宗祇の弟子が宗長でありその出身地の静岡県島田駅には宗長庵趾があって、その宗長は松尾芭蕉に影響を及ぼした人物であるという。
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近くに、石仏が山のように置かれていたのが気になった。
この近くでは、新東名高速道路の建設が大規模で進められており、バスの運転手さんもここにたどりつくのに一苦労していた。
その造成の余波であろうか。
痛ましい。
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ここから歩いて数百mのところにある、「七人塚」にお参り。

【七人塚】
所在地: 神奈川県伊勢原市上粕屋1349−6

道灌が暗殺された時、上杉方の攻撃を一手に引き受けた、道灌の家臣七名も討ち死にしたと伝えられており、
この家臣の墓が「七人塚」として伝えられています。
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以前は、七つの塚が並んでいたが、現在は残っている一つの塚を「七人塚」と呼んでいる。
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「太田道灌公臣下之・・・・」
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色々な石仏が置かれている。
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すぐ近くの「上粕屋神社」
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樹齢600年の大ケヤキが両側にある参道が見事だった。
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その後、「高部屋神社」に参拝してから、「太田道灌墓所(首塚)」に参拝した。

【太田道灌墓所(首塚)】
所在地: 神奈川県伊勢原市下糟屋364

下糟屋の大慈寺の前でバスを降りる。
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大慈寺の門前、道を挟んで反対側に川沿いの土手道を行く。
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墓所
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敷地は、けっこう広い。
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説明
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太田道灌の肖像画
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(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

太田道灌って、例の「実を1つだに」と、江戸城(砦?)を造った人と言う認識しかなかったのですが、なるほど、暗殺されていたのですか! 初めて知りました。でも、まあ、享年55歳でしたら、当時としては長生きの方だと思います。

高速道路に下、大昔は墓地だったのでしょうね。まあ、石仏が壊されてめちゃめちゃにならないだけ、まともですね。安住の地が見つかれば良いのですが。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
太田道灌が、上杉氏の家宰の地位甘んじずに、
下剋上の道に踏み出したら、関東を手中に納めて
いたでしょう。
そして、小田原北条と大戦をしたことでしょう。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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