深見神社(延喜式内社)/神奈川県大和市
20180123
鎮座地:神奈川県大和市深見3367
参拝日:参拝日:2017年12月1日
この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」相模国の三回目で、石楯尾神社、有鹿神社、大田道灌墓所、高部屋神社に続き当神社に参拝しました。
入り口に鳥居と社号標。
社号標
『総国風土記』によると「雄略天皇22年(478年)3月に創祭」とあるが、正確な創建時期は不明である。また、当時祀られていた祭神は「闇龗神」とも記述されている。一方で、明治時代に建御名方神が合祀されるまでの間に、何らかの経緯で闇龗神は当社(本殿)の祭神から外れて境内社の御倉稲荷神社の祭神となり、合祀が行われるまでは「武甕槌神」のみが当社(本殿)の祭神であった。
県史蹟調査員・石野瑛の説によれば、かつては相模湾の海がこの辺りまで深く入り込んでいて、舟・筏による交通が敷かれていたとされる(この入り江は「古深見入江」と仮称されている)。さらに、境川流域一帯を表す総称として、深見は「深海」または「深水」と古くは書かれていた。なお、深見という地名は『倭名類従抄』(承平年間、931〜938年編纂)に「相模国高座郡深見郷」と記されたのが文献上の初出となっており、ここでも現在の地域より広い範囲を表す総称となっている。
当社の縁起では、「東国の平定を目的とする武甕槌神(当社の祭神、タケミカヅチ)が舟師を率いて常陸鹿島より深海に進軍した際、伊弉諾神(イザナギ)の御子である倉稲魂神(ウカノミタマ)と闇龗神(クラオカミ)によりこの地が治められた。そして、雨神である闇龗神はこの地に美田を拓き土民による郷を開いた」とされており、これが深見の始まりとされる(両神は境内の御倉稲荷神社に祀られていたが、闇龗神が本殿に合祀されたことにより現在では倉稲魂神のみとなっている)。
かってより地元の民衆(地方土民)による信仰の中心とされてきたが、源頼朝や小田原北条、武田信玄のほか渋谷庄司重国、太田道灌らにも特に篤く信仰されてきた。徳川幕府による大坂の陣の折、当社で武運長久を祈願した旗本の坂本小左衛門重安はその際に田の寄進もしており、「鹿島田」として今に残っている。さらに、重安の養子で寺社奉行となった坂本内記重治は、当社を度々参拝しながら社殿の造営も行い、「相模國十三座之内深見神社」と記す社号標を建てたと今に伝えられている。なお、坂本家は深見における当時の領主でもある。
明治6年(1873年)、太政官の布告で郷社に列せられた。しかし、3年後の明治9年(1876年)には隣の仏導寺の火災の煽りを受け、社殿から古文書に至るまで尽く焼失し荒廃、公称社格も不詳となった。明治42年(1909年)、深見の諏訪の森に鎮座していた末社の諏訪神社と合併し、祭神の「建御名方神」を当社へ同列に合祀した(相殿)。なお、この時点では仮の社殿(仮殿)であり本殿等は造られていない。以降、社殿等の復興が幾度も計画されるが実現に至らず、焼失から66年後の昭和16年(1941年)になってようやく現在の位置に再建された(当社社殿の他に鳥居、末社なども造られた)。翌年には再び郷社に列せられている(旧社格制度は昭和21年(1946年)に廃止された)。
平成24年(2012年)には再建70周年を記念して新しい社号標を建立し、『延喜式神名帳』に登載されている当時の祭神である「闇龗神」が御倉稲荷神社より本殿に合祀された。
新編相模国風土記稿による深見神社の記述:
(深見村)鹿島社
村の鎮守なり、鳥居の傍に石標あり、相模国十三座之内、深見神社と彫る、式内郡中小社五座の一なり。神名帳曰、高座郡小五座、深見神社云々。祭神は武甕槌尊なり。鹿島と号するは常州鹿島神社と祭神同じきのみにあらず、彼社世に著名なればかく呼習せり。祭礼村内諏訪神社と隔年十一月月日を卜して執行す。当日瀬谷村(鎌倉郡属)寶蔵寺の僧来りて法楽をなす。村持。
末社、稲荷。
神木、松一株囲三丈程、此余社地に老松樹数株あり。
玉垣に沿って進むと、途中に狛犬一対が置かれている。
参道が左に折れるところに新しい社号標がある。
鳥居をくぐって先に進む。
玉垣が切れて入り口があり、左に折れて入る。
手水舎
入り口から真っ直ぐ進むと拝殿がある。
拝殿前に、二本の高い柱がある。
帰ってから調べると「真榊」であった。
真榊とは、普通拝殿の中に置かれ、榊に五色の布を垂らしたもの。
五色とは、古代中国で成立した陰陽五行説に基づくもの。
この時に私たちの間で話題になったのが、高い上にある榊をどうやって取り換えるのだろうかと。
色々な話が飛び交った。
拝殿
向拝部
向拝唐破風の彫刻
向拝中備えの彫刻は、上部が鳳凰、下部が龍。
木鼻彫刻「獅子と牡丹」
社額
拝殿の横から本殿に。
拝殿脇障子の彫刻
本殿覆屋
ご祭神:
・闇龗神(くらおかみのかみ 雨神)
・武甕槌神(たけみなづちのかみ 武運長久の神)
・建御名方神(たけみなかたのかみ)
神紋は「十六弁八重菊」
摂社・靖國社(厚木空神社)
厚木海軍飛行場の敷地内で昭和19年(1944年)11月に「厚木空神社」として創祀され、太平洋戦争による厚木航空隊(第三〇二海軍航空隊)の戦死者を祀っていたが、終戦後に廃祀(取除き)が命じられると昭和26年(1951年)4月7日、深見集落の戦没者を合祀して当社地に転社された。
境内社・御倉稲荷神社(おくら稲荷)
倉稲魂神(ウカノミタマ)が祀られている。平成24年(2012年)までは、現在本殿の祭神である闇龗神(クラオカミ)も祀られていた。深見神社の古社地といわれ、かつては稲荷の辺りに当社の拝殿が東向きにあったとされる(現在は南向き)。なお、現在の場所に社殿等が造られたのは、昭和16年(1941年)になってからのことである。
ご神木・ハルニレ(なんしゃもんじゃの木)
夏緑樹林帯(ブナ帯)の木で、北国の山地に多くみられます。県内では丹沢山地の1000m以上の地にみられますが、深見のような低地では珍しいことです。このように珍しい木で、何という名の木かわからなかったので、「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるようになったと伝えられています。
四~五月、葉に先だって褐紫色の小さな花を葉の脇に束状に七~十五個程つけます。六月には扁平な翼を持った果実が熟して落ちます。葉の緑は鋸歯状で表面は脈がへこみザラついています。
(大和市教育委員会掲示より)
(了)
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参拝日:参拝日:2017年12月1日
この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」相模国の三回目で、石楯尾神社、有鹿神社、大田道灌墓所、高部屋神社に続き当神社に参拝しました。
入り口に鳥居と社号標。
社号標
『総国風土記』によると「雄略天皇22年(478年)3月に創祭」とあるが、正確な創建時期は不明である。また、当時祀られていた祭神は「闇龗神」とも記述されている。一方で、明治時代に建御名方神が合祀されるまでの間に、何らかの経緯で闇龗神は当社(本殿)の祭神から外れて境内社の御倉稲荷神社の祭神となり、合祀が行われるまでは「武甕槌神」のみが当社(本殿)の祭神であった。
県史蹟調査員・石野瑛の説によれば、かつては相模湾の海がこの辺りまで深く入り込んでいて、舟・筏による交通が敷かれていたとされる(この入り江は「古深見入江」と仮称されている)。さらに、境川流域一帯を表す総称として、深見は「深海」または「深水」と古くは書かれていた。なお、深見という地名は『倭名類従抄』(承平年間、931〜938年編纂)に「相模国高座郡深見郷」と記されたのが文献上の初出となっており、ここでも現在の地域より広い範囲を表す総称となっている。
当社の縁起では、「東国の平定を目的とする武甕槌神(当社の祭神、タケミカヅチ)が舟師を率いて常陸鹿島より深海に進軍した際、伊弉諾神(イザナギ)の御子である倉稲魂神(ウカノミタマ)と闇龗神(クラオカミ)によりこの地が治められた。そして、雨神である闇龗神はこの地に美田を拓き土民による郷を開いた」とされており、これが深見の始まりとされる(両神は境内の御倉稲荷神社に祀られていたが、闇龗神が本殿に合祀されたことにより現在では倉稲魂神のみとなっている)。
かってより地元の民衆(地方土民)による信仰の中心とされてきたが、源頼朝や小田原北条、武田信玄のほか渋谷庄司重国、太田道灌らにも特に篤く信仰されてきた。徳川幕府による大坂の陣の折、当社で武運長久を祈願した旗本の坂本小左衛門重安はその際に田の寄進もしており、「鹿島田」として今に残っている。さらに、重安の養子で寺社奉行となった坂本内記重治は、当社を度々参拝しながら社殿の造営も行い、「相模國十三座之内深見神社」と記す社号標を建てたと今に伝えられている。なお、坂本家は深見における当時の領主でもある。
明治6年(1873年)、太政官の布告で郷社に列せられた。しかし、3年後の明治9年(1876年)には隣の仏導寺の火災の煽りを受け、社殿から古文書に至るまで尽く焼失し荒廃、公称社格も不詳となった。明治42年(1909年)、深見の諏訪の森に鎮座していた末社の諏訪神社と合併し、祭神の「建御名方神」を当社へ同列に合祀した(相殿)。なお、この時点では仮の社殿(仮殿)であり本殿等は造られていない。以降、社殿等の復興が幾度も計画されるが実現に至らず、焼失から66年後の昭和16年(1941年)になってようやく現在の位置に再建された(当社社殿の他に鳥居、末社なども造られた)。翌年には再び郷社に列せられている(旧社格制度は昭和21年(1946年)に廃止された)。
平成24年(2012年)には再建70周年を記念して新しい社号標を建立し、『延喜式神名帳』に登載されている当時の祭神である「闇龗神」が御倉稲荷神社より本殿に合祀された。
新編相模国風土記稿による深見神社の記述:
(深見村)鹿島社
村の鎮守なり、鳥居の傍に石標あり、相模国十三座之内、深見神社と彫る、式内郡中小社五座の一なり。神名帳曰、高座郡小五座、深見神社云々。祭神は武甕槌尊なり。鹿島と号するは常州鹿島神社と祭神同じきのみにあらず、彼社世に著名なればかく呼習せり。祭礼村内諏訪神社と隔年十一月月日を卜して執行す。当日瀬谷村(鎌倉郡属)寶蔵寺の僧来りて法楽をなす。村持。
末社、稲荷。
神木、松一株囲三丈程、此余社地に老松樹数株あり。
玉垣に沿って進むと、途中に狛犬一対が置かれている。
参道が左に折れるところに新しい社号標がある。
鳥居をくぐって先に進む。
玉垣が切れて入り口があり、左に折れて入る。
手水舎
入り口から真っ直ぐ進むと拝殿がある。
拝殿前に、二本の高い柱がある。
帰ってから調べると「真榊」であった。
真榊とは、普通拝殿の中に置かれ、榊に五色の布を垂らしたもの。
五色とは、古代中国で成立した陰陽五行説に基づくもの。
この時に私たちの間で話題になったのが、高い上にある榊をどうやって取り換えるのだろうかと。
色々な話が飛び交った。
拝殿
向拝部
向拝唐破風の彫刻
向拝中備えの彫刻は、上部が鳳凰、下部が龍。
木鼻彫刻「獅子と牡丹」
社額
拝殿の横から本殿に。
拝殿脇障子の彫刻
本殿覆屋
ご祭神:
・闇龗神(くらおかみのかみ 雨神)
・武甕槌神(たけみなづちのかみ 武運長久の神)
・建御名方神(たけみなかたのかみ)
神紋は「十六弁八重菊」
摂社・靖國社(厚木空神社)
厚木海軍飛行場の敷地内で昭和19年(1944年)11月に「厚木空神社」として創祀され、太平洋戦争による厚木航空隊(第三〇二海軍航空隊)の戦死者を祀っていたが、終戦後に廃祀(取除き)が命じられると昭和26年(1951年)4月7日、深見集落の戦没者を合祀して当社地に転社された。
境内社・御倉稲荷神社(おくら稲荷)
倉稲魂神(ウカノミタマ)が祀られている。平成24年(2012年)までは、現在本殿の祭神である闇龗神(クラオカミ)も祀られていた。深見神社の古社地といわれ、かつては稲荷の辺りに当社の拝殿が東向きにあったとされる(現在は南向き)。なお、現在の場所に社殿等が造られたのは、昭和16年(1941年)になってからのことである。
ご神木・ハルニレ(なんしゃもんじゃの木)
夏緑樹林帯(ブナ帯)の木で、北国の山地に多くみられます。県内では丹沢山地の1000m以上の地にみられますが、深見のような低地では珍しいことです。このように珍しい木で、何という名の木かわからなかったので、「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるようになったと伝えられています。
四~五月、葉に先だって褐紫色の小さな花を葉の脇に束状に七~十五個程つけます。六月には扁平な翼を持った果実が熟して落ちます。葉の緑は鋸歯状で表面は脈がへこみザラついています。
(大和市教育委員会掲示より)
(了)
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コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
神社の縁起、大和政権側から書いたものみたいな感じで、読むと変な感じですね。すなわち、茨城県に住んでいた武甕槌神が東国を平定するため、神奈川県に攻め込んだと言う書き方だと思うのですが、そもそも、茨城県に住んでいるのであれば、神奈川県は東国ではなく西国だと思いますし、加えて、茨城県も神奈川県も大和政権には関係なく、独自の王朝があって、その中の征服談のように見えますね。
神社の縁起、大和政権側から書いたものみたいな感じで、読むと変な感じですね。すなわち、茨城県に住んでいた武甕槌神が東国を平定するため、神奈川県に攻め込んだと言う書き方だと思うのですが、そもそも、茨城県に住んでいるのであれば、神奈川県は東国ではなく西国だと思いますし、加えて、茨城県も神奈川県も大和政権には関係なく、独自の王朝があって、その中の征服談のように見えますね。
matsumoさん
コメントありがとうございます。
武甕槌神は藤原氏の祖先神であり、藤原氏の財源の
大きな一つは鹿島地方でした。
藤原氏が春日大社を建てるときに、武甕槌神を鹿島神宮から
勧請したのも、その表れです。
古事記を編纂したのは、実質藤原不比等だとも云われています。
その頃の勢力図が神話にも影響しています。
その頃に、茨城から神奈川に進出を果たした可能性はあります。
武甕槌神は藤原氏の祖先神であり、藤原氏の財源の
大きな一つは鹿島地方でした。
藤原氏が春日大社を建てるときに、武甕槌神を鹿島神宮から
勧請したのも、その表れです。
古事記を編纂したのは、実質藤原不比等だとも云われています。
その頃の勢力図が神話にも影響しています。
その頃に、茨城から神奈川に進出を果たした可能性はあります。