四谷周辺探訪

20180222

2月9日に、歴史クラブ行事で廻りました。
コースは、於岩稲荷田宮神社・於岩霊堂・陽運寺⇒本性寺・毘沙門堂⇒須賀神社⇒戒行寺⇒西念寺⇒新宿歴史博物館⇒津の守弁財天

JR信濃町駅から歩き出しました。

【田宮神社・お岩稲荷】
所在地:新宿区左門町17

道を挟んで、両側に「お岩稲荷」があり混乱する。片方は「於岩稲荷田宮神社」、もう一方は正門に 「於岩霊堂」 とある 「陽運寺」である。

ここにきて分かったのだが、「お岩稲荷」は「四谷怪談のお岩」とは関係が無かった。
この稲荷神社は田宮家の邸内社(やしきがみ)としてお祀りしていたものであったが、二代目のお岩さんはことのほかこのお稲荷さまを厚く信仰していて、田宮家を盛り立てた。お岩さんが亡くなったのは寛永13年(1636)。亡きのち、伊右衛門は亡き妻の霊を慰めたいと思い、このお稲荷さまに妻の霊を合祀して厚く冥福を祈った。その後このお岩稲荷神社は世の不幸な人びと、ことに不遇な婦人のために御守護をたれ給うことひとかたならず、江戸中に広く知れわたり、崇敬者は都市・農村を問わない有様であった。
200年後の文政8年(1825)に四世鶴屋南北の歌舞伎 「東海道四谷怪談」 の初演が大好評をおさめた。
鶴屋南北は、人気のあった「お岩稲荷」のお岩に目を付けたが、善人では面白くないと、その頃あった陰惨な事件の主人公にお岩を持ってきたのである。
東海道には四谷は無く、四谷は甲州街道である。「東海道四谷」として、ウソの話としたのだ。
それが当たったので、以来、出演者たちのお岩稲荷参りが始まった。 明治5年、お岩稲荷を、お岩さんの嫁ぎ先の田宮家の名をとり田宮神社と改称。 ところが、明治12年に火災で焼失し、現在の中央区新川の田宮神社へ移転。 その間に四谷の陽運寺が四谷稲荷と称した。 昭和20年3月の東京大空襲で陽運寺も新川の田宮神社も焼失。 昭和27年に再建し、新川の田宮神社を本社とし、翌年、現在地へ戻った田宮神社を旧社と称することになった。

■於岩稲荷田宮神社
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社殿が見通しがきかない。
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社殿前に、昭和27年奉納の狛狐
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拝殿
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祭神は、豊受比賣大神(とようけひめのおおかみ)、田宮於岩命(たみやおいわのみこと)

神紋は「二つ巴」
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やはり井戸はつきものと見え、ありました。
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玉垣には、有名人の名前があり。
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■於岩霊堂・陽運寺
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縁結びのご利益だそうだ。
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境内は綺麗。
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本堂
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紋は「抱き稲に三つ鱗」
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やはり井戸があり。
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【本性寺・毘沙門堂】
所在地:東京都新宿区須賀町13-3

日蓮宗のお寺で、本土寺(千葉県松戸市)の末寺。
徳川家康の江戸入府に従って 来た三田佐兵衛尉守綱が麹町9丁目あたりに営 んでいた隠居所を、寛永18年(1641) 観智院日泳上人に譲渡し、 三田氏の没後、寛文10年(1670) その菩提を弔う為、創設さ れたと伝えられています。

山門と毘沙門堂は、戦災で焼け残った貴重な建築物。

山門
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毘沙門堂
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向拝蟇股の彫刻は、毘沙門天のお使いである虎になっている。
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ここの毘沙門天は、江戸城内にあって、徳川家康が伊達政宗が謀反を起こさないよう祈願するために北向きに安置したので、北向き毘沙門天といわれています。

ご住職の案内で毘沙門天を拝観させていただいた。
北向毘沙門天が安置されているお堂は土蔵造り。
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土蔵の扉に、見事な鏝絵(こてえ)が描かれている。
この鏝絵は、毘沙門堂が造られた時期と同じとのことであり、元禄時代に造られたもので、作者名が刻まれていますが、作者は特定されていない。
左側の扉には龍が、右側には虎が刻まれている、見事なもの。
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内陣
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北向毘沙門天
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手前の部屋の天井には、墨絵の龍が描かれていました。
御住職の話では墨絵の龍も毘沙門堂造立期と同じ頃に書かれたものだそうです。
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国学者塙保己一や老中松平定信などを養成した萩原宗固の墓が毘沙門堂の南にありました。
萩原宗固は、江戸時代中期の国学者・歌人です。萩原家に養子に入り、幕府の先手組に所属し、与力として勤めた後、隠居して宗固と名乗ります。
塙保己一が、晩年の加茂真淵に入門し、短い時間とはいえ真淵の学問に接することができたのは、萩原宗固の計らいによるものだそうです。
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続いて、須賀神社に参拝しましたが、これは別記事とします。

【戒行寺】
所在地:新宿区須賀町9-3
妙典山戒行寺 日蓮宗
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 長谷川平蔵の菩提寺。墓地は杉並区に移っているが、現在は本堂前に二百回忌の供養碑が立っている。
平蔵は、明和五年(1768)、将軍徳川家治に初めてお見えの後、天明六年(1786)に御先手弓頭となり、同七年に火付盗貝戎改の加役を命ぜられた。当時の江戸には浪人や無宿人等の犯罪予備軍が集まっていて、盗みの方法も「殺して奪う」から「火をつけて奪う」というように質が変ってきていた。そのため、警察役の町奉行とは別に、刑事専門の火付盗賊改めを設け、街を巡回して常に情報を集めながら、犯罪者の取り締まりを行ったのである。平蔵は火付盗貝戎改めを9年間在職し、盗賊の摘発や犯罪の防止に多<の功績を残した。なかでも「人足寄湯」の設置は、犯罪の再発防止に役立ったといわれている。平蔵は寛永七年(1795)現職申、50歳の若さで死去した。

供養碑
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戒行寺坂を下ります。
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【西念寺】
所在地:新宿区若葉2-9
専称山安養院西念寺 浄土宗
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初めは麹町清水谷の小庵であったが、文禄二年(1593)徳川家康の家臣、服部半蔵が開基となり、西念寺を設立した。西念とは服部石見守半蔵正成の法号である。
 半蔵門にその名を残す服部半蔵は伊賀者の大将であった。彼は槍の名人でもあり、家康十六将の中に数えられている。家康が三方原で武田信玄の軍と戦って負けたとき、彼は武功をだて、家康から槍一本を拝領している。半蔵の名を高めたのは、『徳川実紀』が家康「御生涯御難難の第一」とする伊賀越えでの働きである。天正十年(1582)、織田信長が京都本能寺で明智光秀に急襲された。家康は光秀の追っ手を恐れ、泉州堺から伊賀の加太峠を越えて三河に帰還するルートをとった。この脱出行を先導したのが、半蔵だった。これらの武功によって物頭に取り立てられ、遠江に八千石を領する旗本となったのである。家康の関東入国後、江戸城麹町口門外に組屋敷を拝領した関係から、この門は俗に「半蔵門」と呼ばれ、今日に至っている。
 家康は人質で駿府にいた時、今川義元の養女、築山殿を聖り、長男信康をもうけた。信康は、後に信長の娘徳姫を妻にしたが、徳姫は姑の築山殿との折り合いが悪<、そのため母思いの信康とも合わなかった。築山殿は身持ちが悪かったと言われ、一時伊勢に移されていたが、信康は勝手に岡崎に呼び戻してしまった。そんなこともあって徳姫は「夫の信康が築山殿と共謀して、武田氏に内通している」と父の信長に密告した。信長は娘を信じて家康に対し、信康とその母を自決させるように命じた。家康は涙を飲んで、築山殿に討手を向けて殺し、信康には切腹を命じた。大正七年(1579)9月、半蔵は命により信康の自害に立ち合い、その介錯をおこなったといわれている。これが半蔵終生の心の重荷となり、信康供養のため出家して草庵を開いたものと思われる。
半蔵は慶長元年(1596)に55歳で死去している。

※半蔵自身が忍びの者であったという史料は、何もない。半蔵19歳のときに書き上げたといわれる伊賀忍術の秘伝書「忍秘伝」をはじめ、半蔵を上級忍者とする多くの資料が、いずれも江戸中期以降に記されたもので、真偽のほどは定かでない。
『徳川実紀』のあの伊賀越えの条にも半蔵の名はどこにもなく、西念寺にある彼の墓石Jこも「≡州(≡河)佳人」とあるのみである。
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服部半蔵の墓
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岡崎信康供養塔
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これで午前の部は終り、四谷駅まで出て、「しんみち通り」で分散して昼食。

再集合して、新宿歴史博物館に向かった。

【新宿歴史博物館】
所在地:新宿区三栄町22
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玄関前に、「四谷見附橋 高欄」が展示してあった。
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レイアウト
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博物館のガイドさんの案内で見学しました。
館内は、撮影OKの場所にはその旨表示があるというスタイルでした。

内藤新宿の模型
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四谷大木戸の部分
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江戸名所図会「四谷大木戸」
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商家の再現
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東京市電5000系
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文化住宅の生活
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昭和初期のキネマ
武蔵野館は、私にも記憶がある。
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昭和初期のうまいもの屋さん
伊勢丹の隣に「ほてい屋」というビルがあったのは知らなかった。
私も知っているお店も、けっこう載っている。
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【津の守弁財天】
所在地:新宿区荒木町10-9
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 津の守とは、江戸時代、この辺一帯に松平摂津守(美濃高須三万石)の屋敷があったところから摂津守の一字を略してこのように呼んだものである。邸内の谷の出口にダムを築き、谷を大きな池に変えた。今は埋め立てられて盆地になっている。坂を下っていくと小さな池があり、中央に弁財天の祠がある。この池の正面の崖に高さ4メートルほどの滝があった。「津の守の滝」と言っても明治の中頃まで見物の人で賑わった場所である。
 また、この池の付近に「策(むち)の井」と呼ばれる井戸があったといわれている。徳川家康が鷹狩りの途中、ここに名水のあるのを聞き、立ち寄って水を飲んだ。その時、この井戸で策(むち)の汚れを落としたため名付けられたと伝えられている。案内版には、「津の守の滝は策の井から流れ出たもので、滝つぼの池を策の池と呼ぶ」とある。地元ではこの池を「カツパ池 といい、昔は令の4倍くらいあったそうだ。

この正面に滝があったらしい。
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弁財天
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ここから「車力門通り」を通って、新宿通りに出た。
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「四谷三丁目」の駅から帰途についた。

(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

なるほど、小岩さんは実在の人物だが、現在の小岩さんのイメージは実際の話とは全く異っていると言うことなのですね! 服部半蔵の話もそうですが、私を含めて、小説とか講談等が実際の歴史と思っていることが多いのでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
本当に、私たちは小説から歴史を学んでる
ようなものですね。
歴史小説の方が面白いですからね。
そして、史跡めぐりを実地にする楽しさは、
そういうことを確かめていくことで、
納得したり、ずっこけたり、面白いですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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