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太閤小田原攻め探索/山中城から小田原城(2)

20180501

4月24日に行われた歴史クラブ行事に参加して、歩き回ってきました。
マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城

前回、山中城の西の丸、一番高い所まで上ったところまで記事にしましたが、その続きです。
西櫓の富士山側から、宗閑寺に向かって降りていきます。
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この辺に、西櫓との橋が架かっていたみたいだ。
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こちら側から、美しい障子堀を眺める。
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西の丸下から西櫓を望む。
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一旦斜面の林の中を降りて行き、西の丸を目指す。
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〇西の丸
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西の丸の土塁の上から西櫓を見る。
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西櫓と西の丸との間の障子堀
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さっき上がって来た西の丸畝堀を見下ろす。
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西の丸から降りて、元西櫓に上がる。
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〇元西櫓
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元西櫓と二の丸に架かる橋
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二の丸側には虎口が設けてある。
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〇二の丸
広い。
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〇本丸堀
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〇本丸跡
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駒形・諏訪神社まで降りて来ました。
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樹齢約600年の大カシ。
あの、阿鼻叫喚の一日を生き延びた樹である。
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鳥居のところに、庚申塔とお地蔵さんが鎮座。
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これで、山中城探索は終りです。
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見事な石楠花です。
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ここで、また箱根旧道に入り、「雲助徳利の墓」を見に行く。
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〇雲助徳利の墓
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国道1号線を宗閑寺に向かう途中、黄色の石楠花を発見。
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【宗閑寺】
所在地:静岡県三島市山中新田94-1
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この寺の宗派は浄土宗で、創建は元和(げんな)年間(1615~1623)であろうと推定される。山中城の副将間宮康俊(まみややすとし)の娘お久が徳川家康に頼んで、山中城三の丸跡に建立した。山中城は、天正18年(1590)3月豊臣秀吉の攻撃により落城したが、このときの北条方の副将が間宮康俊だった。お久は、この戦いで戦死した間宮一族の霊を弔うとともに、多くの武将を敵、味方なく祀り、供養するためにこの寺を創建したと言われている。
このお寺の珍しい点は、敵でありこの合戦で戦死した一柳伊豆守直末(ひとつやなぎいずのかみなおすえ) の墓もあるというところです。また、隠れ切支丹(きりしたん)の墓かどうか、現在も定かではありませんが、山中城主松田直長(まつだなおなが)の墓にはクルス紋があります。

各武将の墓
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一柳伊豆守直末の墓
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北条方の墓
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山中城主松田直長の墓
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【早雲寺】
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町湯本405

臨済宗大徳寺派の寺院。山号は金湯山。本尊は釈迦如来。寺内には後北条氏5代の墓、連歌師・宗祇の碑がある。国の重要文化財の織物張文台及硯箱、北条早雲肖像画、県指定文化財の北条氏綱・氏康らの肖像画がある。
大永元年(1521年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子北条氏綱が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建されたと伝えられている。
だが、大徳寺側の記録では大永元年当時の以天宗清は同寺にいたとされているため、創建年次に関する2つの異説が唱えられている。岩崎宗純は宗清が韮山の香山寺にいた永正年間にまだ健在であった早雲の依頼で湯本に「早雲庵」と呼ぶべき前身寺院を建立したのが事実上の創建で、早雲の死後に菩提寺に改めたとする説を唱えている[2]。これに対して黒田基樹は早雲寺の創建が大永元年とする寺伝そのものが江戸時代以前に存在しない(つまり江戸時代の創作である)とする立場から、早雲寺に湯本の門前町が寄進された年代不明の氏綱発給文書がその花押形が享禄4年(1531年)以降のものであることを指摘して、早雲寺の創建を門前町の寄進の前後である享禄・天文年間であったとする説を唱えている[3]。
天正18年(1590年)、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の寛永4年(1627年)、僧・菊径宗存により再建。慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。

山門
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本堂
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〇後北条氏5代の墓
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五代の墓が横一直線に並ぶ。
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下に「伊勢新九郎」と彫られた、北条早雲の墓石。
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〇開山堂
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〇連歌師・宗祇の墓
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旅の途中に湯本で生涯を閉じた連歌師・飯尾宗祇(いいお そうぎ)の墓(供養塔)、
応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が見られた。宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。

〇宗祇の句碑
「世にふるも更に時雨のやどりかな」
後に芭蕉が詠んだ、「世にふるも更に宗祇のやどり哉」 芭蕉
の本歌となります。
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〇山上宗二追善碑
山上宗二は千利休の高弟。
小田原北条氏の庇護を受け小田原に滞在。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、師に再会するため本陣だった早雲寺を訪れたが、秀吉の逆鱗にふれ斬殺されたという。
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〇梵鐘
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

なるほど、山中城って広かったのですね! 本丸もあったようですが、一般的な本丸?、あるいは、1,2階建て程度の小さなものだったのでしょうか。

早雲寺は箱根湯本駅近くのお寺ですよね。あそこは何回か行ったことがありますが、入ったのは本堂位までです。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
山中城は山城ですから、普段は生活していません。
城主の滞在の場なので、そんなに立派な建物では
ないですね。

私らはバスで移動していたので、箱根湯本駅の
近くかとビックリしました(笑)
電車で行ったときとは、全然感覚が違いますね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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